kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

見えるものと見えないもの9章 クレジット

今日はバスティアの9章をアップします。
ついでに、たまには経済学者のハシクレらしく、小さな解説を試みてみましょう。


バスティアの作品は、すべてが一般均衡の考えに基づいているため、
不況時においても、すべての生産要素は完全に利用されているという状況が前提になっています。
例えば、これはマクロ経済学でいうところの、均衡動学だといえると思います。


ケインズ主義者は、不況時には生産要素は活用されていない=有効需要が足りないからだ、と主張します。
これは例えば、現在の自動車生産や半導体生産を見れば、
確かに生産キャパシティよりも少ない量しか生産されていないため、政府の出動となるわけです。


おそらくほとんどの功利主義的な経済学者にとっては、
不況時に政府が出動することが国民の効用を増大させるのかという問いが重要なのですが、
これは現在のように、すべての政府が協調的に財政出動をする場合には検証しようがないのが難点です。
本来は、財政出動などをする国と、しない国で長期のパフォーマンスを比べれば面白いのですが、
それはすべての国家が政治活動を重視する人間たちに牛耳られている以上、
ほとんど不可能なことになってしまっているわけです。


とはいえ、確かに日本航空エルピーダ、などの企業を助ける意味などあるのでしょうか?
マスコミ報道でも、そういった大企業に勤めている人よりも、
平均的納税者ははるかに貧乏だと言う事実は都合よく無視されています。
悪法収容所行きは当然でしょう。


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9.クレジット

 いつの時代でも、特に近頃はそうだが、クレジットの拡大によって富を増大させようとする試みが為されてきた。

 私は誇張ではないと信じているが、二月革命以降、パリの出版社は1万以上ものパンフレットを発行して、この方法による社会問題の解決を叫んできた。この解法の基礎付けはといえば、ああ!錯覚なのだ。実際、もし錯覚が基礎付けと呼べるのならば。

 最初に為されるのは現金と生産の混同であり、ついで紙幣と現金との混同、そしてこれら二つの混同から現実が引き出されるとされる。

 この問題においては、生産活動が次々と受け渡される手段となっている、通貨、コイン、紙幣、その他の道具を忘れ去ることが絶対的に必要だ。つまり、我われのビジネスは生産そのものにあって、それが貸し出しの真の目的物なのだ。農夫がスキを買うために50フランを借りるとき、実際に貸し出されたのは50フランではなくてスキだ。商人が家を買うために2万フランを借りるとき、彼が負っているのは2万フランではなくて、家なのだ。金銭は、当事者間の契約を促進するために現れているに過ぎない。

 ピエールは自分のスキを貸したがらないかもしれないが、ジャックはそのお金を貸そうとするかもしれない。この場合、ギロームは何をするのか? 彼はジャックからお金を借りて、そのお金でピエールにスキを買うのである。

 しかし、実際のところ、誰もお金それ自体のためにお金を借りるわけではない。お金とは生産物の所有権を得るための媒介物に過ぎない。つまり、ある国において、その国に存在する以上の生産物を、ある人から別の人に与えることはできないのだ。

 現金や紙幣の流通量がどれだけであろうとも、すべての貸し手が持っている以上のスキ、家、道具、原材料を借り手が受け取ることはできない。なぜなら、すべての借り手には貸し手がいるのであり、借りたものというのはローンを意味しているからだ。

 このことを前提とすると、クレジット制度にはどのような利点があるのだろうか? それは借り手と貸し手の間で、互いを見つけたり契約したりすることを促進するのだ。しかし、貸し借りをするものを即座に増やすというような力は持っていない。とはいえ、望むものすべての手にスキ、家、道具、食料を与えるという改革の目的が達成された場合には、そういうことを可能とするべきなのである。

 彼らはどうやってこれを実現しようとしているのか?

 国債をローンに転換ことによってである。

 このことについて洞察を与えてみよう。それは見えるものと、見えないものを含んでいるからだ。その両者を見る必要がある。

 ここで、世界には一つのスキがあって、二人の農民がそれを借りようとしているとしよう。

 ピエールはフランスに唯一存在するスキの持ち主である。ジャンとジャックはそれを借りたい。ジャンは、その誠実さと財産、良い評判によって、安心できる。彼は信頼に値し、クレジットがある。ジャックにはまったく信頼が置けない。ピエールがジャンにスキを貸すのは当然のことになる。

 ここで、社会主義の計画に従って、国家が介入し、ピエールに対して「おまえのスキはジャックに貸しなさい。その返済については、我われが保証しよう。この保証はジャンのものよりも優れている。なぜなら、彼は彼のほかに責任を負うものはいないが、我われの場合は、確かに今は何も持っていなくとも、納税者の財産を処分できるのであり、このお金を持って、必要な場合には、元本と利子を支払うからだ」と言う。その結果、ピエールはスキをジャックに貸す。これは見えるものだ。

 そして社会主義者は手を揉みながら言う。「我われの計画の素晴らしさを見ろ。国家の介入のおかげで、かわいそうなジャックはスキを借りた。彼はもう地面を掘る必要がないし、これから財を成すだろう。それは彼にとって良いことだし、国家全体にとっても利点なのだ。」

 皆さん、実際には違う。それは国家の利点などではない。その背後には、見えないものがあるからだ。

 スキがジャックの手にあるということはジャンの手にないからだ、ということは見えない。

 ジャックが穴を掘る代わりに農業をするなら、ジャンは農業をする代わりに穴を掘る必要があるよう貶められたことは見えない。

 結果、貸し出しの増加だと考えられたものは、単なる貸し出しの置き換えにすぎない。さらに、このローンの置き換えが、二つの非常に不正な行為を意味することも見えない。

 ジャンはその誠実さと良き活動によって、ふさわしい信用を得たにもかかわらず、ローンの機会を奪われたことは、彼に対する不正義である。

 自分と関係のない借金を支払わされたことは、納税者に対する不正義である。

 ジャックに対するのと同じような機能を政府がジャンにも与えたと主張するものがいるだろうか? しかし、スキが一つしかない以上、二つを貸すことはできない。「国家の介入のおかげで、貸し出されるためのものよりも多くのものが借りられた、なぜならスキはここでは貸出資金を意味するからだ」というような社会主義の主張が常になされる。

 私が金融活動をもっとも簡単な表現に簡略化したのは事実だが、もしも、もっとも複雑な政府の信用制度を同じテストにかけてみれば、その結果において同じであることが納得できるだろう。すなわち、信用を置き換えているだけであって、付け加えているわけではないことを。ある国の、ある一時点において、利用可能な資金の量は一定であり、それらはすでに貸し出されている。貸し出しへの保証によって、国家は実際に、借り手の数を増やすかもしれない。しかし、国家は貸し手を増やし、貸し出し全体の重要性を増やす力は持っていない。

 しかしながら、私が引き出してはいると思われたくない一つの結論がある。私は、法律は貸し出しの力を作為的に増大させるべきではないと言っているが、その力を作為的に抑制するべきだとは言っていない。もし、我われの担保付貸し出しその他のシステムにおいて、信用貸し出しの適用を拡大することを阻むものがあるのなら、それは取り除かれねばならない。このことはもっとも正しく、正義に適うことである。しかし、これだけが自由と整合的なのであって、これだけが改革者の名に値するものが要求するべきなのだ。