kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

見えるものと見えないもの10章 アルジェリア

オバマ大統領に限らず、どこの国の政治家でも
温暖化対策が雇用を増大させると言う。


とはいえ、一般均衡理論を理解する経済学者であれば、
温暖化対策のための労働力は、
本来であれば、どこか別のセクターで働けたはずだと言うだろう。


現在の政策はすべて、
需要が足りないために労働力が活用されきっていない=完全雇用ではないと言う考えに基づくのだが、
政治家と言うのはいつもそういう風に主張している。
そういうことをそのままいい続けている新聞もどうかと思うが、
人々が信じる以上、仕方がないところもあるだろう。


こういった話はよくよく考えればおかいしことがわかるが、
そのためには論理的に考える必要がある。
それが残念なことに難しいのだろう、、、


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10.アルジェリア

 ここに、議題について論争している4人の演説者がいる。最初、4人全員が同時に話し、ついで、次々に話す。彼らは何を言ったのか? もちろん、フランスの力と偉大さについてのとてもすばらしいことだ。もし収穫を得ようとするなら、種をまく必要があることについて。我われの巨大な植民地の輝ける未来について。我われの人口の余剰を遠隔地に分散させることの利点について、などなど。壮大な雄弁を誇る演説、そして常に次の結論によって装飾されている――「5千万フランほどをかけて、アルジェリアに港と道路を造ることに投票せよ、ここへ移民を送り、家を作り、区画整理をするために。そうすれば、フランスの労働者を救い、アフリカでの労働を奨励し、マルセイユの商業に刺激を与えることがになる。それは、すべての意味で利益となるのだ。」

 その通り、それはまったく正しい、国家が5千万フランを使い始めるまで、それについて考慮しないというのであれば。もしお金がどこに行くのかだけを見て、どこから来るのかを見ないのであれば。お金が徴税人のバッグから出てきてからの良い面だけを見て、お金をバッグに入れることから生じる悪い面や、そのために行われないことになった良い面を見ないのであれば。その通り、このような限定的な視点からは、すべてが利益となる。北アフリカに造られる家は、見えるものだ。北アフリカに造られる港は、見えるものだ。北アフリカでつくられた雇用は、見えるものだ。これらよりやや少ないフランスでの雇用は、見えるものだ。マルセイユでの商品の搬送もまた、見えるものだ。

 しかしこれらの他に、見えないものもある。国によって出費された5千万フランは、納税者によって、もしそういうことがなかったら使われたであろう用途には使われなかった。政府によって為された出費によって生じたすべての良いことから、個人的な出費が為されなかったことから生じる害悪を差し引く必要があるのだ。ジャック・ボノムは彼が稼ぎ、税金として奪われたお金で何もしないのではない。そう言うのは馬鹿げている。なぜなら、彼は苦労してお金を稼いだのであり、それを使うことからは満足を得るからだ。彼は庭の柵を直しただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼は畑に肥料を撒いただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼は別荘に二階を建て増ししただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼は工具の数を増やしただろうが、今それはできない。これは、見えないものだ。彼はもっとたくさん食べ、良い服を着て、子どもに良い教育を与え、娘の婚礼費用を増やしただろう、これは、見えないものだ。彼は相互扶助協会の会員になっただろうが、今はできない。これは、見えないものだ。一方では、奪われてしまった楽しみがあり、壊されてしまった行為がある。その一方では、彼が活動を促進したはずの下水工事、大工、鍛冶屋、仕立て屋、村の学校教師は、今はそれを邪魔された――これらすべては、見えないものだ。

 アルジェリアの将来的な繁栄からは多くのことが期待できる。その通りだ。しかしフランスが失うものを、完全な視界の外にやってはならない。マルセイユの商業は際立っている。だがこれが税という手段によってもたらされるのであれば、同じ分だけ国内の別の場所での商業が破壊されていることを、私は常に示さねばならない。「北アフリカに移送される移民がいる。それは国内に残る人々を助けることだ」と言われる。私は言う、「もしアルジェリアに移民を送り出すのに、フランスにとどまる場合の2,3倍の資金も一緒に送り出すのなら、どうしてそんなことがいえるだろうか?」

 軍事大臣が最近述べたところでは、アルジェリアに一人を送り出すためにかかる費用は8千フランである。さて、これらの貧しいものたちは4千フランもあれば、フランスで十分に生きていけただろう。一人と同時に、二人の生計分がなくなるのなら、どうしてフランスの民は助かるのだろうか?

 私がここで唯一の目的としているのは、すべての公的支出について、その明らかな利益の背後には、容易には見出しがたい悪が存在していることを、読者に明らかにすることだ。私ができる限りにおいて、読者には両者を見て、両方を考慮する習慣をつけてもらいたい。

 公共支出が提案された場合、その結果とされる雇用の促進を別にして、それ自体のメリットを吟味しなければならない。なぜなら雇用の促進は幻想だからだ。このように公共支出によってなされることはすべて、私的な支出によっても同じことができる。よって、雇用への関心は、常に問題外のことだ。

 この論の目的は、アルジェリアに対する公共支出の持つ内在的な価値を批判することにあるのではないが、それでも私は、一般的観察を止めることができない。それは、税を通じた公共支出には常に問題があるという考えである。なぜか? それは次のような理由による。第一に、それによってある程度の正義が損なわれてしまうからだ。ジャック・ボノムは自分で楽しもうと働いて金を稼いだのに、国税がそれに干渉して彼の楽しみを他人に与えるというのは残念なことだ。確かに、それらの税を課す人々には、十分な理由を提示する義務がある。私たちは、国家が嫌悪すべき理由を示してきたのを知っている。「この金で、労働者を雇わねばならない。」もちろん、これに対して、ジャック・ボノムは(そのことに気が付くやいなや)次のように答えるだろう。「それは結構だ。しかし、その金で私は自分で彼らを雇えるだろう。」

 この理由はさておき、他の理由はこうした偽装がなされていないため、国庫と哀れなジャックとの議論ははるかに単純なものとなる。もし国家が彼に対して、「おまえの金を、身辺の安全を守るのに役立つ警官を雇うために、毎日通る道を舗装するために、財産と自由を守る民の裁判官を雇うために、国境を守るための兵を維持するために、使おう」というなら、ジャック・ボノムは、私が間違っていないなら、躊躇せずに金を支払うだろう。しかし、国家が彼に「おまえがうまく耕地を耕した時に小さな賞金を与えるために、彼の望まない教育をその息子に与えるために、大臣が豪華な晩餐にもう一品を加えるために、アルジェリアに家屋を建てるために、移住者への援助は言うまでもなく、さらに移住者を守るための兵を維持するために、さらにその兵を見張るための将兵を維持するために、などなどに、金を使おう」というなら、哀れなジャックは「この法システムは、無法のシステムとほとんど同じじゃないか!」と大声で叫ぶと思う。国家はこの反論を予想して、どうするのだろうか? 全部を一緒くたにして、その質問と関係のない、もっともらしい理由を持ち出すのだ。雇用に与える影響を語り、大臣の料理人や御用商人について指摘し、税収に頼る移民や兵、将校の存在を示す。これらは、事実、見えるものだ。そしてもし、ジャック・ボノムが見えないものを考慮に入れることを学んでいないならば、彼はだまされているのだ。これが、何度も何度も繰り返すことによって、私がそのことを彼に教えるために全力を尽くしたい理由なのだ。

 公共支出が雇用を増大させることなく、単に産業間を移動させるとき、公共支出に反対する第二の深刻な懸念が持ち上がる。雇用を移動させるということは、労働者を移動させるということであり、国の人口配置を律する自然の法則を妨害することだ。もし5千万フランが納税者のもとに留まるなら、それはフランスの4万の行政区の雇用を促進することになる。それは自然の紐帯としての役割を果たし、皆を故郷の土地に維持し続け、考えられるすべての労働や商業に分配される。もしこの5千万フランを市民から国家が取り上げて、ある場所で使うなら、それに見合った分の雇用が移動し、その分だけ他の土地に属する労働者が移動し、その土地に属さない流動的な人口が集まるだろう。そしてそれは、あえて言うならば、資金が尽きたときには危険でさえあるのだ。ここに以下のような結論がある(そしてそれは私の言ったことを裏付ける)。こうした熱狂的な活動は、いうならば、狭い場所に閉じ込められて、皆の注意を引く。それは、見えるものだ。人々は喝采し、手順の美しさと簡単さに驚き、その継続と拡大を求める。見えないものは、おそらくはもっと価値のある同じ数の雇用が、フランスの他の地域で創出されるのを阻まれたことなのである。