kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

バスティア 見えるものと見えないもの

一昨年 調子が悪くなる前にBastiatの「見えるものと見えないもの」の新訳を見つけました。自分が使った英語と比べてみたところ、この新訳のほうが絶対に原文のフランス語に近いことが明らかでした。

 

 

 

そこで紀要にでも載せようかと思って少しだけ訳しはじめたところ、体調不良にて中断、現在に至る。で、今年に入って千葉商科大の吉田先生から、偶然にも「もう1回正式に翻訳してみようよ」と誘われたので、この2月に入って作業の続きをはじめました。

 

 

完了したので、ここに貼り付けることにします。気が向いた人は、読んでみて下さい。

 

ところでバスティアが一連の著作を書いたのは、1845年から50年までの5年間でしかありません。おそらく彼が影響を受けたのは、1846年にイギリスでコブデンなどの自由経済学者によって、穀物法が廃止されたこと。

 

 

当時は、関税があるのは当然のことで、1947-48年の寒気による凶作がヨーロッパ(特にアイルランド)で餓死者まで出したのは、そのせいも大きいのです。

 

 

日本でも4月から小麦の価格、乳製品の価格が上がるんだとか。なんで輸入を禁止して一般消費者を貧しくするのか?? やめてもらいたいものです。

 

www.nikkei.com

 

 _______

 

クロード=フレデリックバスティア 『見えるものと見えないもの』(1850年7月)ver.20190218

 

Frédéric Bastiat  “Ce qu’on voit et Ce qu’on ne voit pas, ou l'Économie politique en une leçon”

 

 フレデリックバスティア(1801-50) は,19世紀のフランス自由主義経済学を代表する著述家である.『見えるものと見えないもの』は,『法』,『経済学の詭弁』と並んで,バスティアの代表作として知られている.

本稿の翻訳は,主に https://oll.libertyfund.org/pages/wswnsによる。またSeymour Cainの英訳になるLibrary of Economics and Liberty (http://www.econlib.org/library/Bastiat/basEss1.htmal)も参照した。原文は1850年に出版されたもので,例えばhttp://bastiat.org/fr/cqovecqonvp.htmlに存在する.訳注については,上記online library, liberty fundによるもの、フランス語編者であるPaillottet、英訳者Cainによるもの,また訳者(蔵)が調べた内容から作成した.

 

 

 

 

見えるものと見えないもの

経済の領域では行為や習慣,制度や法律は単一の結果を生み出すだけでなく,連続した結果を生み出す.これらの結果のうち,最初のものだけが直後に生じ,それは原因と同時に明らかになる.それは見える.その他の結果は,後になってしか現れてこない.それらは見えない.もしそれらが予見できるならば,私たちは幸運である.

良い経済学者と悪い経済学者の間の違いは,ここに明らかとなる.悪い経済学者は見える結果についてだけ考慮する.良い経済学者は見える結果についてだけでなく,予見するべき結果についても考慮する.

とはいえ,この違いはとても大きい.なぜならほとんど常に,直後の結果は好ましい反面,その後の結果は悲惨であり,その反対もまた真だからだ.よって悪い経済学者は,後に大いなる悪が続くような,小さな現在の善を追求するということになる.その反面,真の経済学者は,現在の小さな悪のリスクと引き換えに,未来の大いなる善を追求する.

さらに,このことは健康や道徳についても同じだ.最初の習慣の果実が甘いほどに,その結果は苦いことが多い.例えば放蕩,怠惰,浪費.その見える効果に酔いしれて,いまだ見えない効果について認識していない者は,自然な性向に従っているだけでなく,熟慮しつつ嘆かわしい習慣に負けているのだ.

これは,必然的に苦痛に満ちている人類の進歩を説明する.無知は人類のゆりかごを取り囲んでいる.その幼児期の行動は,最初の効果,もともと見えるものだけによって決定される.その他の効果を考慮することを学ぶのは,長期間の後になってからである.人は大きく異なった二つの主人からこの教訓を学ぶ.経験と先見である.経験は効果的に教えてくれるが,そのやり方は荒っぽい.行為のすべての結果を,我々に感じさせることで教えるのである.自分が火傷をすれば,火がものを燃やすものであることを必ず知ることになる.もしできるなら,この荒っぽい教師をもっと心やさしいもので代用したい.それは先見である.その目的のために,いくつかの経済現象の結果について,見えるものと見えないものを対比しながら検討してみよう.

  • 壊れた窓

善良なる市民であるジャック・ボノム[1]のどうしようもない息子が,彼の店の窓ガラスを割ってしまった際に,激怒しているのを見たことがあるだろうか? そういう場面に居合わせたなら,見物人が30 人を上回るほどであったとしても,彼ら全員がこの不幸な店主に決まり切った慰めを口にすることに気づいただろう.「何にでも良い部分はあるものさ.こうした事故のおかげで,産業が維持されているんだ.誰しも生活の糧を得なければならない.もしガラスが割れなかったら,ガラス屋はどうなるんだ?」

 

さて,このとても単純なケースでの慰め方の中には,すべての理論が含まれている.このことは,まさに現行犯のように明らかだ.なぜならそれは,我々の経済制度の大部分を規定しているものと,不幸なことに,まったく同じだからである.

ガラスを直すのに 6 フランが必要だとする.その事故がガラス業界に 6 フランをもたらし,その分だけ繁栄するということは認めよう.私はそれに反対しないし,その理由づけが正しいことにも疑いの余地がない.ガラス屋が来て,仕事をして,6 フランが支払われ,手を拭きながら,どうしようもない息子に内心感謝する.これは見えるものだ.

 

しかしもし,ここから演繹法によって,よくあるように「窓ガラスを割るのは良いことだ.お金が回って,結果的に全産業が振興される」と結論するなら,私は叫ばねばならない.「そうじゃない! その理論は見えるものに留まっていて,見えないものを考慮していない.」

 

見えないことは,特定のことに 6 フランを使ったなら,それと別のことには使えないことだ.見えないことは,彼が窓を取り換えなくても済んだなら,例えば,古びた靴を買い替えたか,あるいは蔵書棚にもう一冊を加えたことだ.つまり,もはや実現不可能な用途のために, その6 フランを利用できたことなのである.

 

次に,産業全体について考えてみよう.

 

窓ガラスが割れ,ガラス産業は 6 フラン促進される.これは見えるものだ.

 

もし窓が割れなかったなら,靴産業(または別の産業)が 6 フラン振興されただろう.これは見えないものだ.

 

プラスの効果を持つ見えるものと同じように,マイナスの効果を持つ見えないものを考慮に入れるなら,窓が壊れようが壊れまいが,産業全体にも,また全雇用量にも影響がないことが理解できる.

 

さて,ジャック・ボモムについて考えよう.

 

もし窓が割れたという前者の仮定では,彼は6 フランを支出するが,窓から得られる恩恵は,以前に比べて多くも少なくもない.

 

窓が割れなかったという第 2 の仮定では,彼は 6 フランを靴に支出して,窓からと同時に靴からの恩恵をも享受しただろう.

 

さて,ジャック・ボノムは社会の一員であるから,彼の受ける恩恵を比較して全体を考えれば,社会は壊れた窓の価値を失ったと結論しなければならない.

 

このことを敷衍すれば,予期せぬ結論にいたる.「社会は,無意味に破壊されたものの価値を失う」.この警句は,保護主義者には身の毛もよだつものである.「こわす,破壊する,浪費することは雇用を促進しない」.もっと簡潔には,「破壊は得にならない」.

 

これに対して,国内産業保護委員会の広報誌はなんと言うだろうか? パリを焼き払った場合に再建されるべき家の数から産業利益をあれほど正確に計算した,尊敬すべきド・サン・シャマン氏の弟子たちは[2],なんと言うのか? 

彼の天才的な計算を否定したことは申し訳ない.なにしろ,その精神は我々の立法にも受け継がれているのだから.しかし,彼には見えるものと並んで見えないものをも考慮して,もう一度計算することを願おう.

 

読者は,ここでの小さなドラマには二者が出てくるだけでなく,三者が関係していることに注意してもらいたい.その一人,ジャック・ボノムは消費者を表しており,窓の破壊によって,一つの恩恵にしか与れなかった.もう一人,ガラス屋として登場したものは生産者であり,事故によってその産業は促進された.三人目は靴屋(あるいは他の製造業者)であるが,その生産は同じ原因によって同程度に害された.この三人目こそが,この問題で常に陰に隠れてしまうものであり,見えないものを体現する本質的な要素なのだ.彼こそが,破壊行為に利益を見るという我々の思考が,いかに馬鹿げているかを示している.彼こそが,貿易規制が有益だと考えることが,同じほどに馬鹿げていることを教えてくれる.それらは結局,部分的な破壊でしかないのである.こうして保護主義に対して有利な議論の詳細を考慮するなら,すべてが次の通俗的なたとえの言い換えでしかないことがわかる.「もしガラスが割れなかったら,ガラス屋はどうなるんだ?」

 

2.軍隊の解散

1人の人間に当てはまることは,1つの民族にも当てはまる.国がある種の経済的利益を得ようというのなら,それが費用に値するかどうかを見極めなければならない.国にとって,安全保障はもっとも重要なことがらである.もし安全保障を得るために 10 万人の軍隊を徴兵し, 1 億フランが必要だというのなら,私はそれに対して何の反対もしない.それだけの犠牲を支払ってのみ得らえる便益なのである.

私の主張について誤解しないでいただきたい.

ある議員が, 1 億フランの納税者負担の軽減のために,10 万人の軍隊を解散しようと提案したとしよう.

仮に,私たちの答えが次のようなものにとどまるとしよう.「10 万人の軍隊と,1 億フランは安全保障のために不可欠だ.確かにそれは大きな犠牲ではあるが,その犠牲なしにはフランス国家はバラバラにされるか,侵略を受けるだろう」.私は,この議論にはまったく反対しない.それは正しいかもしれないし,正しくないかもしれないが,理論的には経済学の異端説ではない.異端説は,犠牲が誰かを利するという理由から,犠牲そのものが利点だと主張することから始まる.

さて,おそらくは,先ほどの提案者が演壇を離れるやいなや,別の演説者が立ち上がって発言するだろう.

「10 万の軍を解散するだって! どういうことだ? 彼らはどうなるのか? どうやって生計を立てるのか? 仕事だって? どこでも仕事が不足ことを知っているのか? すべての職で人手が余っていることは? あなたは,彼らを街に放り出して,過当競争で賃金を引き下げるのか? 生きるだけでも厳しいときに,国が 10 万人を食わせるのは結構なことではないのか? さらに考えたまえ,軍はワイン,衣服,武器を消費し,駐屯する町や産業を促進する.つまり無数の供給業者にとっての天恵なのだ.この巨大な産業活動の原動力を捨てるという考えに,震え上がらないのか?」

この演説は,軍事サービスの必要性ではなく,経済的な理由によって,10 万人の軍隊の維持に賛成することで結語する.私が論駁しようとするのは,この経済的考慮だけだ.

納税者が1 億フランを負担する 10 万人の軍隊は,1 億フランの購買力が波及するだけのものを調達業者にもたらす.これは見えるものだ.

しかし納税者のポケットから失われた 1 億フランは,納税者と彼らが支払う業者の生計をその分だけ支えられなくなる.これは見えないものだ.計算して費用を示し,教えてもらいたい.人びとにとって一体どんな利益があるのか?

ここで私が,どこに損失があるのかを指摘しよう.議論を簡単にするために,10 万人と 1 億フランの代わりに,1 人の人間と 1000 フランについて議論しよう.

ここで,我々がA村にいたとしよう.リクルート隊員が巡回して1人の男を連れて行く.

徴税官が同行し,1000 フランを徴収する.男と税金はメス市に送られ,男は 1 年タダ飯を食うことになる.メス市についてだけ考えるなら,あなたは完全に正しい.この方法はとても有益だ.しかしA村に目を向けるなら,その判断は異なるだろう.なぜなら盲目でもない限り,村は 1 人の労働者とその労働報酬である 1000 フラン,そして彼の 1000 フランの消費によって広がったはずの経済活動を失ったことが見えるからだ.

一見して,この損失は補償されているように感じるかもしれない.村で起こったはずのことがメス市で起こっている,それだけだというのである.しかしここに損失が存在している.村では,男は穴を掘って耕す.彼は労働者だ.メス市では,彼は「右向け右! 左向け左!」を行う.彼は兵士だ.金銭とその循環は 両方のケースで同じである.しかし,一方では 300 日間の生産的労働があり,他方では300 日間の非生産的労働がある.もちろんこれは,軍隊のある部分は安全保障に不可欠ではないという前提の話である.

ここで,軍隊が解散されたとしよう.あなたは10 万人の余剰労働者が生じ,競争が強まり,賃金が低下すると指摘する.これは見えるものだ.

しかし,ここには見えないものがある.10 万の兵隊を解雇するということは,100 万フランを捨てるということではなく,納税者に返すということだ.10 万人の労働者を市場に投げ出すということは,同時に,それらの労働者の支払いに必要な 1 億フランもまた市場に投げ出すということである.その結果,労働供給を増加させることが,需要をも増加させるのであり,つまり賃金の低下は幻想なのだ.軍隊の解散以前にも,以降にも,国内には 1 億フランと,それに応じた 10 万人の男がいるが,すべての違いは次の点にある.解散前には,国は 10 万人の兵士に 1 億フランを無償で配っていた.解散後は,労働の報酬として与えられる.結局,納税者が兵士に金をただ与えるか,商品と交換に労働者に与えるかという2つの場合において,貨幣流通のもたらす結果がすべて同じであることが見えていないのである.ただ1つの違いは,2 番目のケースで納税者は何かを得るが,1 番目のケースでは何も受取らないことだ.その結果は,国としての純損失なのである.

私がここで攻撃している詭弁は,理論の試金石となるような拡大応用のテストに耐えられない.もしすべてを考慮して,軍隊を増やすのが国の利益になるのなら,なぜ国内の男全員を入隊させないのか?

 

3.税

もしかして,あなたは次のような発言を聞いたことがないだろうか?

「税は最高の投資だ.それは生活の源なのだ.税によってどれほどの家庭が成り立っているかを見て,そして産業に与える連続的な影響を考慮するだけで良い.それは測ることすらできない.生命そのものだ.」

 

この教義に反対するには,前述した否定法を繰り返さなければならない.政治経済の議論がそれほど面白いものではないことは,よく知られている.ことわざ「繰り返しは楽しい」は,あてはまらないのである.そのため,バジル[3]が言ったように,政治経済学では,「繰り返しは教える」という言い換えが有用なものになる.

役人が給料を得るという利点というのは見えるものだ.彼らへの商品提供者に生じる利益もまた見えるものだ.これは疑いなく明白である.

しかし,納税者が逃れようとする不利益は見えないものだ.そして,その納税者にものを売る商人の苦難もまた見えないものである.もちろん,それらは知的には明白なものであるはずなのだが.

役人が自分のために余計な100スーを使うとき,納税者は自らの利益のために100スー少なく使う[4].しかし,役人の出費は実行されたために見えるが,納税者のそれは,ああ!彼はそうすることを許されなかったために見えないのだ.

あなたは国家を干上がった土地にたとえ,税を潤沢な雨にたとえる.それも良いだろう.しかしあなたは,その雨がどこから来たのかを自問しなければならない.もしや大地から湿気を奪い,干上がらせているのが税そのものであるのかどうかを.

さらにまた,土地からの蒸発によって失った量を超える貴重な水を,雨から受け取ることができるのかを,自問する必要がある.

明らかなことは,ジャック・ボノムが徴税官に100スーを計上しても,その見返りには何も得ないことだ.その後,役人がその100スーを使ってジャック・ボノムに返すというとき,それは同価格のコーンや労働と引き換えになのだ.最終結果はジャック・ボノムの 100スーの損失である.

確かに多くの場合,そう言いたいのなら,ほとんどの場合,役人はジャック・ボノムのために相応なサービスを提供しているのは正しい.この場合,双方に損失はなく,単なる交換があるだけである.よって私の議論は,有益なものについてはまったく当てはまらない.私が言っているのは,もしそうした活動を始めるなら,その有用性を証明しろということだ.ジャック・ボノムに提供されたサービスの価値が,その費用と等しいことを示してほしい.しかし,こういった内在的な効用から離れて,そこから役人やその家族,その取引業者にもたらされる利益といった議論を持ち出してはならない.役所が雇用を生み出すと主張しないでもらいたい.

ジャック・ボノムが本当に役立つサービスの対価として100スーを政府の役人に支払うとき,それは彼が100スーの靴を買うために靴屋に支払うのとまったく同じだ.それは交換であり,同価値だ.しかしジャック・ボノムが役人に5フランを支払って何のサービスも受けない,さらには迷惑以外の何ものも受け取らないなら,それは泥棒に与えたようなものだ.役人がその100スーを国内生産の利益のために使うだろうなどと主張するのはナンセンスだ.泥棒も同じことをするだろう.もしも路上で合法的な,あるいは不法な寄生者に呼び止められなかったなら,ジャック・ボノムだってそうなのである.

だから見えるものだけによって判断するのではなく,見えないものによっても判断するように,自分たちを習慣付けようではないか.

去年,私は財政委員会の一員だった.なぜなら立法議会では,野党党員がすべての委員会から組織的に排除されるということはなかったからだ.この点,立法議会は賢明だった.委員会では,ティエール氏[5]が次のように述べたのを聞いた.「私は王党派や宗教派に反対することに人生を捧げてきた.我々の共通の危機のために集ったときから,そして彼らの多くと交流するようになり,互いに率直に反しをするようになったときからである.そして私は,彼等がかつて考えていたような怪物ではないことがわかった.」

その通り,互いに交流のない党派間では,不信が重なり,憎しみは強まる.そしてもし多数派が,委員会に少数派の存在を認めるなら,おそらく異なった党派の考えもそれほどお互いにかけ離れたものではないこと,特にその意図においては,人が思うほどひねくれたものではないことがわかるだろう.

それはそうと,去年私は財政委員だった.私たちの同僚が,共和国大統領や大臣,大使たちの予算をわずかでも下げようと発言すると,必ず答えが帰ってきた.

「そういった役職のためには,それにふさわしい人物を引き付けるべく,華麗で威厳あるオーラで執務室を包む必要があります.共和国大統領には,貧しい人びとが大量に陳情に来るのであり,彼らを常に拒否する義務を負うなら,それは苦痛となるでしょう.ある種の雰囲気が大臣応接室や外務応接室にあるというのは,立憲政府に必須の一部です,など,など.」

こういった議論には反論があるとはいえ,確かに真剣な考慮に値する.正しく見積もられているかどうかはさておき,それは公益に基づいているのである.そして個人的には,吝嗇や嫉妬などの狭隘な精神に突き動かされている多くの指導者たちよりも,私の方が強く同意している.

しかし,私の経済的な良心に反しており,この国の知的な評価に照らして私が赤面するのは,この議論が,好意的に受け止められつつ,(常に必ず)次のような愚かさにまでいたることだ.

「さらに政府の役人による贅沢は芸術や産業,労働全般を促進する.国のリーダーと大臣たちがパーティや晩餐会を開けば,必ずや社会という体の血管すべてに循環する.彼等の予算を減らせば,パリの産業活動,そして結果的には国全体の産業を衰退させるだろう.」

皆さん,少なくともこの計算にはよく注意してもらいたい.そしてフランス国民議会の前に来て,「足し算を上から加えるか,下から加えるかによって合計が違う」となどという恥ずかしいことを言わないでもらいたい.

 

 

何ということか! 私は下水工と100スーで土地に排水溝を作ってもらうということで合意しそうだとしよう.契約しようとするやいなや,徴税官が私から100スーをとってゆき,内務省に送る.私の契約は破棄されるが,大臣はテーブルにもう一皿を加える.一体どういう理由から,この公共支出が国家産業を助けているというのか! 単なる満足と労働の移転でしかしないことがわからないのか? 大臣はテーブルを良くなった,それは確かだ.しかし農家の土地の排水が悪くなったのも,同じように確かだ.パリの店主は100スーを得たかもしれない,それは認めよう.しかしそれと同時に,地方では下水工が 100フランを失ったのも認めなければならない.言えるのは,役人のテーブルと店主の満足は見えるもの,水がついたままの土地や仕事を奪われた下水工は見えないものなのだ.

なんということだ! 経済では 2 足す 2 が 4 だと証明することが,こんなに大変だなんて.そして証明が成功しても人々は叫ぶ,「そんなことは自明すぎて退屈だ」.そして彼らは,まったく何も証明されなかったかのように投票するのである.

 

4.劇場と美術品

 

国は芸術を補助すべきなのか? 

この質問への是非については,確かにたくさん言うべきことがある.

補助に肯定的な意見としては次のようなものがあるだろう.芸術は国の魂を拡大,昇華,詩的にする.芸術は物質的な欲求に心を奪われてしまうのを防ぎ,美への鑑賞眼を高め,よってマナーや慣習,道徳,さらには産業にさえも好意的な効果を持つ.もしイタリア座とコンセルヴァトワールがなかったら,フランスの音楽はどうなってしまうのだろうか? テアトル・フランセがなかったら舞台芸術は? 現存のコレクション,ギャラリー,美術館がなかったなら絵画と彫刻は? さらには中央集権化とそれによる絵画への保護がなかったら,フランス絵画の特徴であり,世界をその魅力の虜にしている精緻なる感性が発達したのかを問うことさえできるだろう.実際,ヨーロッパ的な視点から見て,それはフランスの優越性とその栄光の証左なのだ.そうした結果を目の当たりにすると,フランス市民からのある程度の金銭的貢献を否定するのは,軽率というものではないのか? 

これらその他多くの理由は,私もその妥当性を疑わないが,それと同じほどに説得力のある反論が存在する.まず言うべきなのは,そこには分配的正義の問題があることである.芸術家の経済的な利益のために,職人の賃下げにまで立法権は及ぶのだろうか? ラマルティーヌ氏[6]は言った,「もし劇場への補助を止めるというのなら,どの地点でそれをストップするのか? 論理的必然的に大学,美術館,芸術院,図書館への補助は止めなくてもいいのか?」 これに対する反論は,「もし有用なすべてのものを援助したいのなら,どこでストップするのか? それは論理必然的に農業,工業,商業,慈善活動から教育までの内政全般のリストにつながるのではないのか?」 さらには,政府の補助が芸術の進歩を促進するのは確かなことなのか? この問題は,すでに解決されたというには程遠い.繁盛している劇場というのは,その獲得する対価によって繁栄していることがわかる.最後にこのことをもっと高いレベルで熟慮してみると,欲望や望みというものが相互に関連しており,市民の富がそれに費やされるに比例して,ますます高みへと洗練されてゆくものだということが分かる.そして,政府はこの関係に手出しをするべきではない.なぜなら,現在の富の存在状況において,奢侈品を増産するには,必需品を害する課税をしなければならない.それは必然的に,文明の自然の発展を後退させてしまう.必要,嗜好,労働や人口を人工的に変化させることは,確固とした基盤のない,気まぐれで危険な立場に人々を置き去りにしてしまうと言えるだろう.

こういった理由付けは,国家は市民の必要や欲望が充足される順番に対して干渉するべきであり,市民活動が方向付けられるべきだという考えに反対する人々によって主張されているものだ.白状するなら,私は,選択や衝動というのは上からではなく下から,立法者からではなく市民から生じるべきものであると考えるものの一人だ.この反対の主張は,自由と人間の尊厳の破壊へとつながっているように思われる.

しかし,不正なだけでなく,誤りだと結論することによって,経済学者がどのように非難されるかご存知だろうか? つまり政府の補助を否定するとき,補助されるべきかどうか議論されているもの自体を否定しているかのような,これらすべての活動の敵であるかのような容疑をかけられてしまうのだ.これらの活動が自発的で,自らの対価を獲得すべきことを望むだけだというのに.こうして,もし国家は宗教的な事柄に対して課税による干渉をすべきでないというなら,私たちは無神論者になる.課税によって教育に干渉してはならないといえば,反啓蒙主義者だ.課税によって土地あるいは特定の産業分野に対して人為的な価値を付与すべきではないというなら,財産や労働の敵だ.もし国家が芸術家を補助するべきでないというのなら,芸術を無用と見下す野蛮人なのだ.

こうした結論に対して,私は全力で抗議する.

私たちは,宗教,教育,財産,労働,芸術のすべてを捨て去るという馬鹿げた主張をしているのではまったくない.国は市民の出費を強制するのではなく,これらの人間活動の自由な発展を守るべきなのである.その反対に,こういった社会の活力は自由の影響の下において,より調和的に発展するものであり,現在見られるような社会問題や濫用,専制や混乱の原因となることはないだろう.

私たちへの反対者は,政府支出によって補助されても規制されてもいない活動というのは,破壊されるべきものだと信じている.私たちは,その反対だと思っている.彼らの忠誠心は立法者にあって,人間性にはない.私たちは人間性に忠誠をおき,立法者にはおかない.

こうしてラマルティーヌ氏は言った.「この原理に基づいて,我われは,この国の誇りであり財産である公共展示を止めなければならない.」

しかし,私はラマルティーヌ氏に言う.

「あなたの思考法では,補助しないというのは廃止することだ.なぜならあなたの結論では,国の意思から独立して存在するものはないという前提から,存在するものはすべて税金なしでは存在しないことになる.しかし,私はあなたが選んだこの好例によって,あなたの主張に反対する.もっとも自由で普遍的な精神において,――いや人間性という言葉を使おう,それはまったく誇張などではない――もっとも偉大で高貴な展示物だと認められているものは,現在ロンドンで準備されている展示だということを指摘しよう.それは,どのような政府の助力を得ているわけでもなく,どんな税金も投入されていない唯一のものなのである[7]. 」

美術品に戻ろう.繰り返すなら,政府の援助システムには賛否の多くの理由付けが存在する.読者に理解してもらいたいのは,この文章の目的に明らかなように,これらの理由付けを説明する必要もなければ,賛成あるいは反対を決める必要もないだろうことだ.

しかし,ラマルティーヌ氏は経済学と関連しており,私がどうしても見過ごすことのできない議論をしている.

「劇場についての経済的な疑問は,一言でまとめられる.それは労働だ.この労働の本質はほとんど重要ではない.それは国内の他の労働と同じく,実りの多い,生産的な活動なのだ.皆さんおわかりのように,フランスの劇場というのは,少なくとも8万人のさまざまな労働者の生活の糧となっている.画家,石工,室内装飾家,衣装製作者,建築家,などなどの人々は,この首都の多くの地区のまさに生命であり躍動である.この点において,彼らは皆さんの同情に値する.」

 

同情にだって!むしろ,「補助に」と言い換えたまえ.

さらに彼は続ける,

「パリでの遊興は,地方での労働と消費を提供し,金持ちの贅沢は,あまねく共和国の劇場産業となって,すべての職種の 20 万人もの労働者の賃金と食べ物を提供している.彼らは,燦然たるフランスの高貴なる遊興から,生活の糧,その家族や子どもの必需品を得ている.彼らにとっては,あたかも 6 万フランをもらっているようなものだ.」トレビアン! トレビアン! 大喝采

 

私にとっては,「最低,最悪だ!」と言わねばならない.もちろん,こうした判断のもたらす負担についての経済的な議論に限ってのことではあるが.

なるほど,確かに この6 万フランは,少なくとも部分的には劇場労働者のもとに行く.その過程で,おそらくどれだけかは差し引かれるだろう.このことをもう少し詳しく見てみれば,実際には,まったく違ったことになっているのかもしれない.幸運な労働者だけが,わずかばかりにありつけるのかもしれない! しかしここでは議論のために,画家や室内修飾家,衣装係,メイク係などに補助金全部が回るということにしよう.これは見えるものだ.

しかし,いったいそれらはどこから来るのか? これが疑問のもう一方の側面であり,正面と同じくらい重要だ.6万フランは,どこから発生したのか? そして立法府の投票によって,そのお金がリヴォリ通りからグルネル通りへと回らなかったとするなら,どこへ行ったのだろうか[8]? これは見えないものだ.

もちろん,そのお金が立法府の投票によって投票箱の中で発生した,そしてそれは国富の純粋な増加分である,さらに奇跡の投票行為がなかったら,その6万フランは見ることも触れることもできなかっただろう,などと主張するものはいないだろう.次のことを認めなくてはならない.多数者ができることというのは,お金をあるところから取り上げて別のところへ送ることだけであり,もしお金がある目的地に向かうなら,それは別のところから方向を変えられたにすぎない.

これが現実なので,明らかに1 フラン課税された納税者は,そのお金をもはや利用できない.明らかに1 フランの限りにおいて彼はその満足を奪われたのであり,そのお金を彼から受け取るはずであった労働者は,誰であれ,そのお金の分を奪われた.

6万フランについての5月16日の投票によって,国民厚生と雇用に何かが加えられたなどという,子どもじみた幻想を持つのはやめよう.それは楽しみを移転させ,賃金を移動させた.それだけなのだ.

さてそれは,ある種の出費や生産を,もっと緊急で道徳的,理にかなう出費や生産に置き換えたということはできるだろうか? 私はこれに反駁しよう.「納税者から6万フランを取り上げることによって,労働者,排水工,大工,鍛冶屋の賃金は下がり,同じ分だけオペラ歌手,ヘアメイク,装飾係,衣装係の賃金は上昇する.

後者の職業に属する人々が,前者よりも価値があると証明することはできない.ラマルティーヌ氏はそうは言っていない.彼はただ,劇場関連の雇用は,その他のものに比べて,より多くではなく,同じほどに実り豊かで生産的だと言う.しかし,それにさえも疑いがある.後者が前者ほどには実り豊かではないことは,後者がまさに援助を必要としていることによって証明されているからだ.

しかし,このような多様な労働の価値と,その内在的な利点の比較は,ここでの私の議論の対象ではない.私がここで示さなければならないのは,ラマルティーヌ氏と彼のような議論を称賛する人たちは,役者や取り巻きの得る給与だけを片目で見ているが,納税者による給与の損失をもう片方の目で見るべきだということだ.このことをしないなら,彼らは愚かにも,移転を利益と勘違いしている.もし彼らの考えを突き詰めるなら,無限の政府援助が要請されてしまう.なぜなら,1 フランや 6 万フランにも当てはまることは,同じ状況における10 億フランについても当てはまるからだ.

皆さん,税が問題になるときは,決して「公費支出は労働者の糧となる」という嘆かわしい発言によってではなく,その効用を事柄の本質から理性を持って説明せねばならない.そういった発言が覆い隠しているのは,公費支出とは私的な支出を置きかえたものであることだ.結果的に,ある労働者の代わりに別の労働者を助けているだけで,全体としての労働者全体には何も与えていない.そういった議論は流行なのかもしれないが,理性に照らせば,まるで馬鹿げている.

5.公共事業

公共事業が地域に有益であることを確認した後,国がそれらを公共資金によって実行することは,ごく自然なことである.しかし白状するが,そういったプロジェクトを支持するために経済的な大間違いが述べられるのを聞くと,私は決して黙っていられない.「その上,公共事業は労働者に雇用を与える手段なのだ.」 

国が道を開き,宮殿を建て,街路を直し,運河を造ることは,ある種の労働者に職を与える.これは見えるものだ.しかし,それは別の労働者から雇用を奪っている.それは見えないものだ.

ここに建設が始まった道路がある.1000人の労働者が毎朝やって来て,夕方には労賃を持って家路につく.それは間違いない.もしも道路の決定と支出の可決がなかったなら,これらの善良なる人々は雇用も賃金も得ることはなかった.それもまた間違いない.

しかし,これがすべてなのだろうか? 全体として,この活動は何か違うものを含んでいないのだろうか? デュパン氏が高らかに「立法院は可決した」と宣言する瞬間に,フー氏やビノー氏の金庫に何百万フランもが,月の光に乗って奇跡のように降りてくるのだろうか[9]? よく言われるように,事業実行の際には,政府は支出と同じように税金集めまで組織しなくても良いのだろうか? 徴税人を送り出し,納税者から集金させなくても良いのだろうか? 

ここで問題の両側面を検討しよう.可決された大金の国家的な使途について考慮するのであれば,その分だけ納税者が使う予定であったが,もはや使えなくなった大金があることを忘れないでもらいたい.そうすれば,公共事業とは二つの側面を持ったコインであることがわかるだろう.片面には雇われた労働者が描かれ,「これは見えるものだ」の言葉がある.反対の面には雇われなかった労働者が描かれ,「これは見えないものだ」の言葉がある.

ここで私が戦っている詭弁は,公共事業に使われたときにはいっそう危険である.なぜなら,それは最も愚かしい企てや贅沢を正当化することに使われるからだ.鉄道や橋梁が本当に有用であるときは,その有用性のみを述べればよい.しかしそれができなければ,どうするのか? 完全な誤りに訴えることになる,「労働者に雇用を与えねばならない.」

それなら,なぜシャン・ド・マルスのテラスを造り,そして埋めないのか[10]? 知られているように,偉大なるナポレオンは溝を掘った後に埋め立てることによって慈善事業をしていると思っていた.彼はまた,「結果の何が重要なのか? 労働者階級にまで富が行き渡るのを見ることだけが大事なのだ.」

根本にまで遡って見よう.金銭が幻覚を作り出している.公共事業にすべての市民から金銭の形での貢献を要求するということは,実際には,現実に協力を要求するということになる.なぜなら各人は,その課税された分だけを労働したからである.ここでもし,すべての市民が一度に集められて,全員にとって有用な仕事を一緒にさせられるとするなら,このことは理解しやすい.その報酬は,その仕事の結果そのものだからだ.しかし,全員を集めた後に,雇用を与えるという口実から,誰も通らない道を造らされ,誰も住まない宮殿を造らされるなら,それは馬鹿げている.彼らは,「私たちにこんな労働は必要ない,自分のために働いたほうがましだ」と反対して当然だ.

労働ではなくて,金銭を徴収することにしても,一般的な結論はまったく変わらない.しかし前者では,損失がすべての人々にかかってくる.後者の場合,国家によって雇用された人々は,同胞たちがすでに被った損失のうち,自分たちの分だけ逃れることになる.

憲法には次のような条項がある.

「社会は,雇用の発展を奨励,促進する.国,県,地方自治体が公共事業を確立し,失業している労働者を雇用することを通じてである」

経済危機に際して,あるいは厳しい冬場の一時的手段としては,納税者によるこういった干渉も有効かもしれない.実際,それは保険と同じように働く.それは雇用も賃金も増やさないが,どれだけかの損失は伴うものの,通常時の雇用や賃金を困難な時点へと移す.

永続的・一般的・体系的な手段としては,それは破滅的な偽り,不可能,矛盾以外の何ものでもない.それは,わずかばかり増えた雇用を見せる.それは見えるものだ.そして,もっと大量の実現されなかった雇用を隠す.それは見えないものだ.

6.仲介業者

社会というのは,人々が互いのために強制的,あるいは自発的に提供するサービスの総和である.つまり,公共サービスと民間サービスのことだ.

前者は法律によって規制・強制されており,望ましい場合でも容易には変えることができない.それは法の助力を得て,有用性を失ってもさえも,公共サービスという名を保持し続けることがある.もはやサービスなどではまったくなく,公害となっているときでさえもだ.後者は自由意志,つまり個人の責任の領域にある.各人が,自ら望み,提供可能なものを,直接の交渉後に与え,受け取る.その特徴は,常に真の効用が推定されることであり,それらは相対的な価値によって正確に測られる.

これが,公共サービスがこれほど停滞によって特徴付けられるのに対して,民間サービスが進歩の法則に従う理由だ.

過剰な公共サービスの発達は,関連するエネルギーをムダにしながら,社会に致命的な寄生主義を植えつける.その一方で不思議なのは,いくつもの現代の経済学派が,こういった性質を自由で私的なサービスのせいにして,すべての職業を国営へと転換しようとしていることだ.

これらの学派は,彼らが仲介業者と呼ぶものに強行に反対する.彼らは資本家,銀行家,投機家,起業家,商人,貿易商の存在を,生産と消費の間に立ち入って,何の価値も加えずに両方から金を巻き上げていると非難して,喜んで否定しようとする.あるいはむしろ,そうした仕事をなくすことができないなら,彼らの仕事を国家に移転しようするだろう.

この点における社会主義者の詭弁は,仲介業者がそのサービスの対価として得ているものを人々に示しながら,国家に対して支払うことになっているものを隠していることにある.

またしても,目の前にあるものと心でしか把握できないもの,見えるものと見えないものとの間に,常なる軋轢がある.

社会主義諸学派が,その致命的な理論を広めようと努力し,成功したのは,なんと言っても1847年とそれに続く飢饉においてであった.もっとも馬鹿げた考えというものは常に,苦しんでいる人々にこそ広まる可能性があることを,彼らは熟知していたのだ.「悪しき相談者たる飢饉よ.」[11]

そして「人による人の搾取,飢餓への投機,独占」といった大げさな言葉の助けを借りて,彼らは商業を邪しめ,その恩恵にヴェールを被せた.

彼らは言う,「アメリカやクリミア半島からの命の糧の輸入を,商人に任せておいていいのか? どうして国が,県が,町が調達・貯蔵サービスを組織しないのか? 彼等が費用の価格で売れば,人々,哀れな人々は,自由貿易,つまりエゴイスティックで個人主義的,無秩序な商業活動への支払いから逃れられるだろう.」

人々の貿易への支払いは,見えるものだ.社会主義体制下での,国家やその代理への人々の支払いは,見えないものだ.

人々の貿易への支払いとは,何なのだろうか? それはつまり,完全に自由な状態において,競争のプレッシャーを受けつつも,合意した価格で2人の人間が互いにサービスを与え合うことだ.パリの胃袋が飢えていて,それを満たす小麦がオデッサにある場合,小麦が胃袋に届かなければ苦しみはなくならない.これには3つの手段がある.1,飢えた者たちが自分で小麦をとりに行く.2,彼らは専門家にこの仕事を任せる.3,彼らは税を払って役人にこの業務を任せる.

これら 3つの選択肢の,どれがもっとも有利だろうか? 

どの時代のどの国においても,特に,より自由で啓蒙され,経験を多く持つ人々ほど,自発的に2番目を選んできた.私の意見では,この事実だけで,この選択を正当化するに十分であると思う.人類が全体として,これほど身近なことについて間違えるとは,どうしても思われないのだ.

それでも問題を検討してみよう.

3600 万人の市民がオデッサに小麦をさがしに行くというのは,明らかに実行不可能だ.最初の手段には価値がない.消費者が自分自身で行うことはできない.彼らは,役人か商人のどちらかの仲介者に頼るしかない.

しかし,この 3つのうち最初のものが,もっとも自然なものであることを考えてもらいたい.基本的に,飢えた人が小麦をさがすのは,自分の責任だ.それは彼のための仕事であり,彼がその活動をすべきだ.もし他の者が,どういった理由であれ,彼のために自らこの仕事を行うのであれば,その人は対価を要求する権利を持つ.私がここで言っているのは,仲介サービスのうちに,報酬への権利が内在するということだ.それが何であれ,私たちは社会主義者寄生虫と呼ぶ人々が必要なのだから,商人と役所のどちら方が,強欲さの低い寄生虫なのだろうか? 

商業(もちろん自由なもの,そうでなくては議論が成り立たない)は,自己利益のために,時節を見はかり,収穫状況について毎日確認し,世界のあらゆる地域から情報を集め,需要を予測し,未然の警戒をする.船を用意し,随所と連絡する.できるだけ安価に仕入れ,業務の細部にいたるまで節約し,もっとも少ない努力でもっとも大きな結果を達成することが,利益に直結する.必要時にフランスへの供給物を調達するのは,フランスだけではなく,世界中の商人だ.そしてもし,彼らが自己利益によって常に最低の費用で仕事ができるのなら,同業同士の競争によって実現された節約利益は,同じように消費者にも分け与えられる.いったんコムギが到着すると,リスクを最小化し,その資金を回収して,必要ならまた始めるためには,できる限り早く売ることが商人の利益になる.価格の比較によって,最初は常にもっとも高い価格の場所から,つまり,もっとも需要の高いところから始まって,国の隅々まで食料が行き渡る.飢えた人々の利益に合致するように,これ以上に完全に計算された組織を考えることはできない.社会主義者たちが認識していないこの組織の美点は,まさにそれが自由であることから生じる.確かに,陸運,海運,備蓄,手数料などの出費については,消費者が業者に返済する義務を負う.しかしどういったシステムのもとで,コムギを食べるものがその輸送費用を支払う義務を負わないというのか? さらに,サービスへの報酬は支払わなければならないが,その割合は競争によって最低額へと下がっている.そして公正さについては,マルセイユの商人がパリの職人のために働いているのに,マルセイユの商人のためにパリの職人が働かないのはおかしいだろう.

社会主義者のやり方にしたがって,もし国家が商人の代わりをするのなら,どんなことが起こるだろうか? 公衆への節約分を示してもらいたい.買い付け価格にだろうか? だが,食料が必要なときに,4万の町の代理人が同時にオデッサについたとして,その価格への効果を想像してもらいたい.出費のどこかが節約されるだろうか? 貨物船が,船乗りが,陸運が,貯蔵庫が少なくて済んだり,あるいはこれらの出費を免れたりできるというのか? それとも商人の儲けが節約できるのか? しかし,購買の役人がただでオデッサに行くのか? 彼らは友愛原理にしたがって旅をして働くのか? 彼らは生きなくてもいいのか? その時間に対して対価を受け取ってはならないのか? そしてこれらの出費が2, 3パーセントにしかならない商人の利益の,1000倍を超えないとでも思っているのか?

そしてまた,多くの課税を行うこと,それだけ大量の食料を分配することの難しさを考えてほしい.こうした性質の試みには不可避となる,権限濫用や不正義について考えてもらいたい.政府にのしかかる責任について考えてほしい.

これらの愚行を考案し,そして困難な時期に人々の心にそれを植えつけた社会主義者たちは,自分たちをまさに進歩的人間だと喧伝した.そうした用語法や慣習は,その言葉とそれに付随する感覚を正当化するという危険性を伴っている.進歩的だって! この言葉は,彼らが一般人よりもはるかに先を見ることができ,その唯一の欠点は彼らが時代よりもずっと先を行っていることだという.もし,寄生虫だと考えられる自由企業が未だに禁止されていないとするなら,その欠陥は社会主義に遅れをとっている大衆のせいだというのだ.私の魂と良心に誓って,その反対こそが真理だ.そして,この点についての社会主義者の理解の低さに匹敵するには,どれほど未開時代にまで戻らなければならないのかわからない.

現代の社会主義学派は,現実社会での人間的なつながりが,彼等の言うつながりではないと常に主張する.彼らが見逃しているのは,自由体制のもとでは,社会とは本当の人間のつながりなのであり,それは彼らの豊かな想像力の産物よりも,ずっと優れているということだ.

このことを例示してみよう.

人が朝起きて,ベッドから起きて服を着るには,次のことがなされねばならない.土地が囲われ,肥やされ,灌漑され,耕され,特定の植物が植えられる.家畜にはエサが与えられ,そこからウールが得られる.ウールは撚糸され,織布され,染色されて織物になる.布は切られ,縫われて,衣服になる.この一連の作業には,耕具,羊小屋,作業場,石炭,機械,運び台などの使用,その他の多くの異なるものを要する.

もし社会が人の完璧なつながりではないのなら,服が欲しければ,1人で働かねばならないことになる.つまり,最初の地面への鍬入れから,最後の仕上げの1針にいたるまで,これら数え切れないほどの作業を自分自身でこなすのだ.

しかし,人類を特徴づける性質である社会性のおかげで,これらの作業は複数の労働者に分配される.さらに消費が活性化するにしたがって,一般的な財においてそれはますます細分化され,1種類の作業だけで新しい産業ができるほどになる.そして収入は,各人が作業全体に対して貢献した価値によって分配される.これが人々のつながりでないのなら,何がそうなのか.

よく見て欲しい.これらの労働者の誰一人として,何かわずかでも無から引き出しているのものはいない.彼らは互恵的なサービスに従事して,共通の目的に向かって助け合っている.他人の立場からすると,全員が仲介業者なのだ.もし例えば,それらの作業の結果として運搬が1人の労働者が専従するほどに重要になり,撚糸に別の一人が,織布にまた別の一人が必要になるなら,なぜ運搬がその他の作業に寄生しているなどと考えるのか? 運搬は要らないのか? それを行うものは,その時間と労力を捧げているのではないのか? 彼のおかげで,同僚たちはそれをしないで済むのではないのか? 同僚たちの仕事のほうが彼の仕事よりも意義があるのか? 彼らはその報酬,つまり生産物の分配について,同じように自由な交渉価格の法則にしたがっているのではないのか? 自由にもとで,共通善のために,これらの仕事は取り決められ,実行されているのではないのか? それなら,社会主義者が必要なのか? 彼らは,組織化という言い訳をもって,我々の自発的な取り決めを専制的に破壊し,分業を阻み,共同の努力を孤立したものに置き換え,文明の進歩を逆行させる.

ここで私が描いたような人のつながりでは,人々は自由にやってきては去り,その居場所を見出し,自らのためにその責任で判断・交渉し,個人的利益を実現し,確保する.それは,つながりの否定ではないのか? なぜなら人間のつながりがその名に値するためには,見せ掛けの改革者がやってきて,そのやり方と意思を我われに押し付け,それに人間のいわばすべてを参加させる必要があるのではないか?

これら進歩的学説を検討すればするほど,彼らを基礎付けているのは,自己の無謬性を主張する無知,そしてこの無謬性の名の下での専制への要求のみであることがわかる.

読者がこの余談を許してくれることを願う.サン・シモン主義,ファランステール主義,イカリア主義の書籍から溢れ出てきた,仲介業者への反対宣言が新聞や論壇に溢れ,それらが労働と取引の自由に脅威を与えているこの時期においては,これも無用ではないだろう[12]

 

 

7.規制

プロヒバン氏(この名前をつけたのは私ではなく,シャルル・デュパン氏である)[13]は,自分の土地で見つかった鉄鉱石を精錬するのに,時間と資金を投じた.自然はベルギーにおいてより豊かであるため,ベルギー人はフランスに対してプロヒバン氏よりも安く鉄を供給した.それはつまり,すべてのフランス人,あるいはフランスは,誠実なベルギー人から買うことによって,より少ない労働量で一定量の鉄を入手することができるということだ.よって自分の利益に導かれてフランス人はそうすることを怠らず,毎日大勢の釘職人,鍛冶屋,馬車工,機械工,蹄鉄工,農民が,自分で出向いたり,あるいは仲買人を送ってベルギーで鉄を調達した.このことはプロヒバン氏を大変に不愉快にさせた.

当初,彼はこの逆境に対して,自分の力で終止符を打とうとした.しかし彼1人が被害者であるため,それはできるはずのない行為だった.「私は銃を使う」,彼は言った.「ベルトに4つのピストルを装着し,カートリッジもつめて,刀を纏い,この装備で国境に行く.そこで,私と関係のない仕事をするために現れた最初の鍛冶屋,釘職人,蹄鉄工,機械工,錠職人を殺し,彼らにどうやって生きるべきかを教えるのだ.」

それに向かおうとした瞬間,プロヒバン氏は考え直してみて,好戦的な情熱を少しばかり落ち着かせた.彼は独り言をいった.「そもそも,私の同郷人であり敵でもある鉄の購入者が気を悪くして,私が彼らを殺す代わりに,彼らが先に私を殺すこともまんざら不可能でもない.そして,私がすべての従業員を送ったところで,すべての国境をガードすることはできないだろう.最後に,この行為は,得られる金以上の大きなコストがかかるだろう.」

プロヒバン氏が,自分と他人と同じほどにしか自由ではないということに,悲しくも服しようとしたとき,彼の脳裏に光線が走った.パリには偉大なる立法工場があることを思い出したのだ.彼はつぶやいた.「法とは何だ?」 それはいったん成立すると,良いものだろうが,悪いものだろうが,全員がそれを守らなければならないものだ.その執行のために,公権力が組織され,その公権力のために国中から人と金が集められる.

だから,もし私が偉大なパリの工場に「ベルギーの鉄は禁止する」という些細な法律を通してもらえば,次のような結果を得ることができる.つまり,私が国境に送ろうとしていた数人の従業員の代わりに,政府が,あの手に負えない鍛冶屋,農民,職人,機械工,錠職人,釘職人,助工たちの 2 万人にも及ぶ息子たちを送ってくれる.そして,彼ら2万人の税関役人の機嫌と健康を維持するため,政府は鍛冶屋,釘職人,職人,助工たちから

2500 万フランを集めて配るだろう.こうすれば,彼らは国境をよりよくガードしてくれる.私は出費することがない.私は仲買人の脅威にさらされることもなく,自分の好きな価格で鉄を売ることができる.さらには,偉大な国家が恥ずべき誤魔化しを受けるという,甘美な満足さえも得るだろう.彼らは,自分たちが永遠にヨーロッパの進歩を増進し,その先駆けであるとまで主張するだろう.ああ!それは賢い行為であり,試してみる価値がある.

こうしてプロヒバン氏は立法工場に赴いた.おそらく,またいつか彼の袖の下の話にも触れようと思うが,しかし今は彼の表向きに行動についてだけ述べよう.彼は立法院の議員諸氏の前に,以下のような配慮をしてもらうよう持ち出した.

「ベルギーの鉄はフランスで 10 フランで売られており,私もまた同じ価格で売るよう強要されています.私は 15 フランで売りたいのですが,忌まわしいベルギーの鉄のためにそれができません.『ベルギー産の鉄はフランスに輸入を禁止する』という法をお作り下さい.即座に私は価格を5フラン上げ,次のような結果が得られます.」

「100 ポンドの鉄ごとに,私は 10 フランではなくて,15 フランを受け取ります.私はより豊かになって,資源採掘を拡大し,より多くの労働者を雇います.私たちは近隣の商人に対して,次々ともっと鷹揚にお金を使うことになります.商人は顧客が増えて,各種の産業が潤い,そうした活動はこの国の全産業に波及します.あなた方が私の金庫に与えてくれます幸運なる 100 フラン硬貨は,湖に投げ込まれた石のように,無限の波紋となって国の隅々にまで広がるのです.」

この議論に魅せられて,法によって容易に国富を増進させることができることを喜び,立法者たちは規制に賛成した.「雇用や節約の話は何なんだ?」 彼らは言った.「国富を増大させるためには命令だけで十分だというのに,こういった苦痛を伴う手段に何の意味があるというのか?」

そして実際に,法律はプロヒバン氏によって喧伝された通りのすべての結果をもたらしたが,その他のことも持たらした.彼に対して公平であるなら,彼の理由付けは誤りだったのではなく,不完全だったのだ.特権を得ようと請願するなかで,彼は見える効果だけを指摘し,その背後に見えないものを隠していた.彼は二当事者についてだけ指摘したが,この状況には第三者がかかわっている.この意図せざる,あるいはおそらく熟慮の後の見逃しこそが,私たちが直すべきものだ.

確かに,法律によってプロヒバン氏の金庫にもたらされたクラウン銀貨は,彼とその労働者にとって有利なものであった.そしてもし法律によってクラウン銀貨が月から降って来たというのであれば,これらのよい効果は,それに対応する悪い効果によって打ち消されることはなかっただろう.不幸なことに,その神秘の100フラン銀貨は月から来たのではなくて,鍛冶屋,釘職人,車職人,蹄鉄工,助工,あるいは船大工,つまりは 100 フランを支払って前より少ない鉄しか受け取れなくなったジャック・ボノムのポケットから来たのだ.

よって,これが問題状況を変えたことは一目瞭然である.なぜなら,プロヒバン氏の利益がジャック・ボノムの損失と釣り合っていること,プロヒバン氏がその銀貨によって国の雇用を促進するためにできることのすべてが,ジャック・ボノムも彼自身でできたことは明らかだからだ.湖の特定の場所へと石が投げられたのは,法律が別の場所へと投げられることを禁止したからだ.

よって,見えないものが見えるもの埋め合わせ,この一連の行為の結果として不正義が残る.嘆かわしい! 法によって永続する不正だ.

これがすべてではない.私は常に第三者が背景に取り残されていると言った.さらにもう5フランの損失を明らかにしてくれる者を,ここで引き会いに出そう.そうすれば,行為の結果の全体が明るみに出ることになる.

ジャック・ボノムは,その労働の対価である 15 フランの持ち主だ.現時点では,彼は自由である.彼はその 15 フランをどうするのか? 彼は何か流行りのアイテムを 10 フランで買い,そのために彼(あるいは彼の仲買人)はベルギーの鉄 100 ポンド分を支払う.彼には 5 フランが残っている.彼はそれを川に投げ捨てることはせず,その代わりに(これが見えないものだが)どこかの業者に,何らかの楽しみと引き換えに使う.例えば,出版社に対して,ボシュエの『世界史序説』一冊と引き換えに[14]

こうして国民の雇用に関する限り,15 フラン分が促進される.すなわち,

10 フランはパリの商品に,

5 フランは本に.

ジャック・ボノムについては,彼は 15 フランによって 2つの満足を得る.つまり

1.100 ポンドの鉄,

2.本.

ここで命令が執行される.

それはジャック・ボノムの状況をどう変化させるだろうか? それは国民の雇用をどう変化させるだろうか? 

ジャック・ボノムは 15 フランすべてを 100 ポンドの鉄のためにプロヒバン氏に支払い,それだけの楽しみしかない.彼は本の楽しみ,あるいはそれと同価値の便益を失う.彼は 5 フラン損をする.これは認められるし,認めなくてはならない.貿易規制が物の値段を引き上げるとき,消費者がその差額分の損をすることは認めなくてはならない.

しかし,国民の雇用にとっては得るものがあると言われる.

違う,得るものはない.なぜなら命令によって 15 フラン以上の雇用が促進されるわけでないからだ.

ただ,命令のためにジャック・ボノムの 15 フランは鉄鋼業に渡ったが,その施行以前には,流行りのアイテムと本屋に別れていた.

プロヒバン氏が国境において自ら使った,あるいは法律によって彼が使わせるように仕向けた暴力は,道徳的な視点からは大きく異なって見えるかもしれない.なかには,略奪が合法化されることで,その不道徳性を失うと考えるものもある.私にとっては,これよりも悪い状況は想像できない.それが何であれ,経済的な結果は両方において同じだということは明らかだ.

自分が好きなように見てもいいだろう.しかし冷静に見るなら,合法だろうが違法だろうが,略奪から善は生じないことがわかるだろう.それがプロヒバン氏とその産業,もしそう言いたいなら,国内産業に 5 フランの利益をもたらすことは否定しない.しかし,それは2つの損失を生じさせると断言できる.1つはジャック・ボノムのもので,彼はそもそも 10 フランしか支払わなかったものに 15 フランを支払う.もう一つは国内産業であり,それはもはや差額分を受け取らない.これらの2つの損失のどちらでも選んで,利益とつり合わせると良い.もう片方の損失は完全な損失であることがわかる.

教訓:暴力は生産ではなく,破壊なのだ.ああ!もし暴力が生産であるのなら,我われのフランスは今あるよりもずっと豊かだろうに.

8.機械

「機械に呪いあれ! 毎年,その増大するパワーは何百万もの労働者の職を,職と共に賃金を,賃金と共にパンを奪い,彼らを貧困へとおとしめる.機械に呪いあれ!」これが人々の思い込みに基づく叫びであり,ジャーナリズムにもこだまする.

しかし機械を呪うことは,人間精神を呪うことだ.

こうした主張に納得することができる人が一体なぜ存在するのか,私は不思議でならない.

なぜなら,もしそれが真実なら,その厳密な結論とはどのようなものだろうか? それは活動性,繁栄,富,幸福を享受できるのは,愚かで精神的遅滞に悩む国民だけだということになる.彼らは,考え,観察し,まとめ上げ,発明し,最小の手段によって最大の結果を得るという決定的な才覚を,神によって与えられなかったものたちだ.その反対に自らの力に加えて,鉄や火,風,電気,磁力,化学と力学の法則,つまり自然の力を探し,見出そうとするすべての国にとっては,ぼろ布,みすぼらしい丸木小屋,貧困,経済の沈滞などが不可避の運命となる.そしてルソーとともに,「考える人はすべて堕落した動物なのだ」と言うことが適切になる[15]

これだけではない.この主張が正しいとしよう.すべての人は考え,発明し,そしてその生存の最初から最後まで,どの瞬間においても自然の力を利用し,少ないもので多くを成し遂げ,その労力や支払い使用者の労力を下げ,できるだけ少ない量の労働からできるだけ多くの満足を得ようとするものだ.とすれば,他の同胞を苦悶させるような進歩へと向かう知的向上心そのもののために,すべての人類は衰退への道をたどっていると結論される.

だから,統計によって証明されるべきなのは,ランカシャーの住人はその機械のあふれた土地を捨てて,まだ機械の知られていないアイルランドへ職を求めに行くことである.また歴史によって証明されるべきことは,文明の新時代は野蛮の闇へと暗転し,無知と未開の時代に文明は光輝くということである.

明らかに,この膨大な矛盾には,何か重要なことが存在する.そしてそれは,これまで十分に明らかにされてこなかった解決の要素が,問題の中にあると警告する.

すべてのミステリーはこうだ.つまり見えるものの背後に,見えないものがある.それを白日のもとに晒してみよう.私が示すことは,これまでの繰り返しに過ぎない.なぜなら問題が同一だからだ.

人間は,禁止する力が存在しないときは,低い価格を目指すという自然の傾向を持っている.つまり相手が外国の生産者であっても,熟練機械生産者であっても,同じ満足を得るなら自分の労働量を減らそうとする.こうした傾向に対する理論的な反論は,どちらにおいても同じだ.どちらにおいても,明らかに労働を活用していないと非難される.しかし,それの実際の効果は,労働を活用しないことではなくて,他の仕事のために解放することだ.

これこそが,どちらのケースでも現実には同じような障害,つまり暴力をもって反対される理由だ.議会は外国との競争を禁じ,機械との競争を禁止する.すべての人に自然な性向を抑圧するためには,その自由を奪うという方法以外に,どんな方法があるのだろうか? 確かに多くの国においては,立法者たちはこの二つの形の競争のうち,一つだけを標的にして,もう一つについては不満を述べるにとどまっている.このことはつまり,立法者のつじつまが合っていないということを証明しているにすぎない.

これに驚くことはない.間違った道を行けば,常につじつまは合わない.そうでなかったら人類は破滅していただろう.間違った原理は,これまでも,これからも終点にたどり着かない.私が前にどこかで書いたように,つじつまの合わないことを突き詰めれば,馬鹿ばかしさに行き着く.それは証明でもあることを,ここで付け加えたい.

ここで例示をしよう.長いものにはならない.

ジャック・ボノムは,2人の労働者に2フランを支払っていた.

しかし彼は,ロープと重しを使えば,その労働を半分に減らすことができることに気づいた.

こうして彼は同じ満足を得て,1フランを節約しながら1人の労働者を首にした.

彼は一人の労働者を首にした,これは見えるものだ.

これだけを見るなら,「文明のもたらす悲惨さを見よ.自由が平等にとって致命的であるさまを見よ.人間精神の生み出す進歩によって,即座に労働者は貧窮のふちに投げ込まれる.ジャック・ボノムは2人の労働者を雇うこともできた.しかし2人は競争のため,もっと低い賃金で働くことに同意して,ボノムは賃金を10スーずつしか支払わなくなった.こうして富めるものはより豊かになり,貧しいものはより貧しくなる.社会を改革する必要がある.」素晴らしい結論だ,前口上に値する! 

幸運なことに,前口上も結論も完全に間違っている.なぜなら,見える半分の現象の背後には,残りの見えない半分があるからだ.

見えないものは,ジャック・ボノムによって節約されたお金と,その節約の必然的な結果だ.

彼の発明の結果,ジャック・ボノムは以前と同じ満足を得るために1フランだけを労働に支払うので,残りの1フランは手元に残っている.

もしどこかに雇われていない労働者がいれば,利用されていない資金を持つ資本家がいる.

2つの要素は出会い,結合する.

そこでは労働の需要と供給,賃金の需要と供給にまったく何の変化もないことは,日の光のように明らかだ.

発明と,最初の1フランによって雇われる労働者は,今や,かつては二人の労働者がしていた仕事をする.

2フラン目で雇われる2人目の労働者は,新しい仕事を実現する.では,世界に生じた変化は何なのか? 追加的な国民の満足が得られた.つまり発明は無償の大勝利,人類への無償の恩恵なのだ.

私の議論のやり方からは,次の推論が引き出されるかもしれない.

「機械からの利益のすべてを受け取るのは資本家である.労働者階級には一時的な苦しみがあるだけで,そこから恩恵をこうむることはない.なぜならここで例示されたように,機械は国民の雇用の一部を置き換えたのであり,それを減らしはしていなくとも増やすこともしていないのだから.」

私はこの小著において,すべての反論に答えようとは思わない.私がもくろんでいる唯一の目的は,広く信じられている,ひどく危険で卑俗な偏見と戦うことだ.私が示したかったのは,新しい機械は他の仕事に向けて労働者を解放するだけでなく,必然的に,彼らに支払う賃金も生み出すということだ.これらの労働者とその賃金が結合することによって,発明以前には生産できなかったものが作り出される.ここから発明の最終的な結果は,同じだけの労働から,より多くの満足が得られることになる.

この追加的な満足を受けるのは誰なのか?

誰か? 確かに,最初に資本家,発明者が受ける.機械を最初に使うことに成功したものであり,それは彼の天才と勇気への報酬だ.この場合,例示したように,彼は生産費を節約した.その節約分は,どのように使われようと(それは必ず使われるのだが),機械によって利用されなくなった労働分である.

しかし,競争のために,すぐさまその節約分は価格低下になる.そして発明者は,もはや発明の恩恵を受けることができなくなる.恩恵を受けるのは商品の購入者,消費者,労働者を含む市民,つまり人類なのだ.

そして見えないものは,すべての消費者の節約分は,機械によって節約された分の雇用に代わって,賃金支払いの資金となることだ.

よって,前述の例に戻るなら,ジャック・ボノムは2フランを賃金に使うことによって生産する.発明のおかげで,賃金は今や1フランだけである.

彼がその生産物を同じ価格で売る限り,その生産にために1人少ない労働者を雇うことになる.これが見えるものだ.しかし,ジャック・ボノムが節約した1フランによって雇われるもう一人の労働者がいる.これが見えないものだ.

事態が自然と推移して,ジャック・ボノムが生産物の価格を1フラン下げざるをえなくなったとき,節約分はもはや彼のものではなくなる.彼はもう,商品生産のために必要な労働者を雇うための1フランを持っていない.しかしこの点は,ジャックの商品の購入者がとってかわる.それは人類だ.その生産物を買ったものは誰であれ1フラン少なく支払うのであり,必然的にこの節約分は次の労働賃金の資金となる.このこともまた見えないものだ.

事実を見るなら,この機械の問題にはまた別の解決方法もある.「機械は生産費用を低下させ,生産物の価格を下げる.価格低下は消費を増大させ,必然的に生産は拡大する.最終的に,発明前と同じだけ,あるいはより多くの労働が要請される」と言われる.その論拠として印刷業,紡績業,新聞産業などが挙げられる.

このような例示は科学的なものではない.

それによれば,もし特定の生産物の消費が一定か,あるいはそれに近いなら,機械化は雇用を害するということになる.それは違う.

ある国ではすべての人が帽子をかぶるとしよう.機械によって価格が半減したとしても,必然的に消費が倍増するわけではない.

この場合,国民の労働力の一部が活用されないままだというのだろうか? 卑俗な例示によるのなら,ウィである.私には,ノンである.なぜならもし国中で帽子が1つとして余分に売れなかったとしても,賃金となる資金がすべて確保されていることに変わりはない.帽子の製造業に回らなかった分は全消費者による節約分となり,それは機械によって不要になった労働賃金を賄う資金となって,すべての産業の新たなる発展を促す.

そして事態はこうして進展する.かつて80フランする新聞が,今は48フランとなる.

32フランは購読者の節約分である.この32フランが報道産業に向かうことは確実ではないし,少なくとも必然的ではない.しかしそうでなくとも,どこか別のところへ向かうことは確実であり,必然的でもある.それをもっと多くの新聞の購入に使うものもあれば,より良い食事に,良い衣服に,あるいは良い家具に使うものもある.

このようにして,産業はすべて一体である.それらは大きな全体を形作っており,すべての部分が隠れた経路で繋がっている.1人の節約は全員の利益となる.節約は労働や賃金を犠牲にして生じるわけではない.このことをはっきりと理解することが重要なのだ.

9.金融

いつの時代でも,しかし特にこの頃はそうだが,人々は金融の拡大によって富を増大させようと夢見てきた.

私は誇張ではないと信じているが,二月革命以降,パリの出版社は1万以上ものパンフレットを発行して,この方法による社会問題の解決を叫んできた.

 この解決策は,ああ! 錯覚に基づいているのだ.もし錯覚が基礎付けとなり得るのであればだが.

まずは通貨と生産物の混同に始まり,ついで紙幣と現金との混同,そしてこれら2つの混同から何か本当のものが引き出されると言うのである.

この問題においては,貸し出しの本当の基礎である生産物そのものだけを見る必要がある.生産物が次々と受け渡される媒介となっている通貨やコイン,銀行券,その他を忘れ去るということが,絶対的に必要だ.農夫がスキを買うために50フランを借りるとき,実際に貸し出されたのは50フランではない.それはスキだ.

商人が家を買うために2万フランを借りるとき,彼が借りているのは2万フランではない.

それは家だ.

金銭は,当事者間の契約を促進するために存在するにすぎない.

ピエールは自分のスキを貸したがらないかもしれないが,ジャックは自分の金を貸そうとするかもしれない.この場合,ギロームは何をするのか? 彼はジャックからお金を借りて,そのお金でピエールからスキを買うのである.

しかし,実際のところ,金そのもののために金を借りる者はいない.生産物を得るために,金を借りるのだ.

つまり,ある国において存在する以上の生産物を,ある人から別の人に与えることはできない.

どれだけの通貨や紙幣が流通していようとも,借り手は,貸し手全体が提供する以上のスキ,家,道具,食料,原材料を受け取ることはできない.すべての借り手には貸し手がその前提となっており,借りるということは貸すことを意味するということを決して忘れてはならない.

このことを前提とすると,金融にはどのような利点があるのだろうか? それは借り手と貸し手の間で,相手を見つけて合意することを促進する.しかし,貸し借りされるものの総量を即座に増やす,というような力は持っていない.

しかし改革主義者たちの目標が達成されるためには,金融機関はまさにこのことが必要である.なぜなら彼らはまさに,望むものすべての手にスキ,家,道具,食料,原材料を与えることを切望しているからだ.

彼らは,どうやってそうしようと夢想しているのか? 貸し出しに国家保証を与えることによってである.

より深くこのことを考えよう.そこには見えるものと見えないものがあるからだ.その両方を見る努力をしてみよう.

ここで,この世に一つのスキがあって,二人の農民がそれを望んでいるとする.

ピエールはフランスに唯一存在するスキの持ち主である.ジャンとジャックはそれを借りたい.ジャンには誠実さと財産,良い評判があり,間違いのない人物だ.彼は信頼され,信用されている.ジャックには信頼が置けないか,あるいはジャンほどには信頼できない.当然,ピエールはジャンにスキを貸す.

しかしここで社会主義に鼓舞されて国が介入し,ピエールに対して「おまえのスキはジャックに貸しなさい.その返済については,我われが保証しよう.この保証はジャンのものよりも優れている.なぜなら彼の責任を負うものは彼だけだが,我われの場合は,確かに今は何も持っていなくとも,全納税者の財産を処分できる.必要な場合には,この金で元本と利子を支払うからだ」と言う.

その結果,ピエールはスキをジャックに貸す.これは見えるものだ.

そして社会主義者は手を揉みながら言う.「我われの計画の成功を見ろ.国の介入のおかげで,かわいそうなジャックはスキを得た.彼はもう地面を掘り起こす必要がないし,これから財を成すだろう.それは彼にとって良いことであり,国全体にとっての利益なのだ.」

いや,違う! 皆さん,それは国の利益ではない.なぜなら見えないものがあるからだ.

ジャックがスキを得たのは,ジャンがスキを逃したからだということは見えないものだ.

見えないものは,ジャックが穴を掘り起こす代わりにスキをひくなら,ジャンはスキをひく代わりに穴を掘り起こす羽目になったということだ.

結果,貸し出しの増加だと考えられたものは,単なる貸し出しの置き換えにすぎない.

さらに,この貸し出しの置き換えが,2つの重大なる不正義を意味することも見えない.

ジャンへの不正義は,その誠実さと活動によって勝ち得ていた信用にもかかわらず,その機会を奪われたことである.

納税者への不正義は,自分と関係のない借金の支払いを義務付けられたことである.

ジャックに与えられるのと同じ便宜を,政府がジャンにも与えるといえるだろうか? しかし,スキが1つしかない以上,2つを貸すことはできない.この議論は,常に次のような言説に立ち返ることになる.国家介入のおかげで,貸し出せる以上のものが借りられた,なぜならここでのスキは,貸し出し資金を意味するからだ.

確かに私は,その働きをもっとも簡単な表現に変えた.しかし,もっとも複雑な政府の信用制度を同じ基準でテストしてみれば,それらが同一の結果にいたることが納得できるだろう.すなわち,貸し出しを置き換えているだけであって,増やしてはいない.ある国のある時点において利用可能な資金量は一定であり,それらはすべてどこかで貸し出される.支払不能な債務を保証することで,国はある程度,借り手の数を増やし,利子率を引き上げるかもしれない(すべて納税者の負担において).しかし,国家は貸し手の数を増やしたり,貸し出し全体を増やす力は持っていない.

しかしながら,私が引き出してはいると思われたくない,そして神にも誤解されたくない1つの結論がある.私は,法は貸し出しを作為的に奨励するべきではないと言っているのであり,それを作為的に抑制するべきだとは言っていない.もし,我われの抵当権システムや,あるいはどこかにおいて,信用貸し出しの適用や拡大への障害があるのなら,それは取り除かれねばならない.このことよりも正しく,正義にかなうことはない.しかし自由と並んでそれだけが,改革者の名に値するものが法に要求するべきすべてなのだ.

10.アルジェリア

ここに,議会で論争している4人の演説者がいる.最初は全員が同時に話し,ついで,次々に話す.彼らは何を言ったのか? もちろん,フランスの力と偉大さについてのとてもすばらしいことがらだ.もし収穫を得ようとするなら,種をまく必要があることについて.我われの広大な植民地の輝ける未来について.我われの余剰人口を遠隔地に分散させることの利点について,などなど.雄弁を誇る傑作は,常に以下の結論によって装飾される.

「(おおよそ)5000万フランをかけて,アルジェリアに港と道路を造ることに投票せよ.ここへ移民を送り,家を作り,区画整理をするために.そうすれば,フランス人労働者を救い,アフリカでの雇用を奨励し,マルセイユの商業を繁栄させることになる.それは純粋な利益である.」

その通り,それは正しい.もし国が その5000万フランを使い始めるまで,それについて考慮しないというのであれば.もしお金がどこに行くのかだけを見て,どこから来るのかを見ないのであれば.そしてもし,お金が徴税人の金庫から出てきてからの良い面だけを見て,それによって生じる悪い面や,さらには最初にその金銭が国庫に入ることによって阻止された良い面を見ないというのであれば.その通り,このような限定的な視点からは,純粋な利益である.バルバリア海岸に造られる家は見えるものだ.バルバリア海岸に造られる港は見えるものだ.バルバリア海岸で創出された雇用は見えるものだ.フランスでの労働者の減少は見えるものだ.マルセイユでの商品の大いなる往来もまた見えるものだ.

しかし,見えないものもある.国によって支出された 5000万フランは,もしそういうことがなかったなら,納税者によって使われたであろう用途には使われなかった.

私たちは,政府による出費によって生じたすべての良いことから,個人的な出費が阻止されたことから生じる害悪を差し引く必要がある.ジャック・ボノムは,彼が稼ぎ,税金として奪われた100スーで何もしないのではない.そうした主張は馬鹿げている.なぜなら,もし彼は苦労してお金を稼いだのなら,それはその金を使って満足を得ることを望んでいたからだ.彼は庭の柵を直しただろうが,今それはできない.これは見えないものだ.彼は畑に肥料を撒いただろうが,今それはできない.これは見えないものだ.彼は小屋に2階を建て増ししただろうが,今それはできない.これは見えないものだ.彼は工具を増やしただろうが,今それはできない.これは見えないものだ.彼は良いものを食べて,良い服を着て,息子たちに良い教育を与え,娘たちの婚礼費用を増やしただろうが,今それはできない.これは見えないものだ.彼は相互扶助協会の会員になっただろうが,今はできない.これは見えないものだ.一方では奪われてしまった楽しみがあり,失われてしまった行為がある.その一方では,彼が活動を促進したはずの下水工,大工,鍛冶屋,仕立屋,村の教師の仕事が,今はもう存在しない.これらすべてもまた見えないものだ.

アルジェリアの将来的な繁栄からは,多くのことが期待される.その通りだ.しかしその間に,フランスを不可避的に襲う停滞もまた考慮しなくてはならない.マルセイユの商業は際立っている.だがこれが課税の結果によってもたらされるのであれば,その反面,国内の別の場所での商業が同じ分だけ破壊されていると指摘できるだろう.「バルバリア海岸に送られる移民のおかげで,国内に残る人々が助かっている」と言われる.私は答える,「もし移民をアルジェリアに送り出すのに,彼らがフランスで生きる場合の2,3倍の資金と一緒に輸出するのなら,どうしてそんなことがあるだろうか?」[16]

私がここで唯一の目的は,すべての公的支出で,その明らかな利益の背後には容易には見出しがたい悪が存在していることを,読者に明らかにすることだ.私ができる限り,読者には両面を見て,その両方を考慮する習慣をつけてもらいたいのである.

公共支出が提案された場合,その有益な効果とされる景気の刺激を別にして,それ自体のメリットを吟味しなければならない.なぜならそれは幻想だからだ.この点については,公共支出がなすことはすべて,私的な支出によっても可能だ.よってそうした生産への関心は,常に無意味なのだ.

アルジェリアへの公共支出の持つ内在的な価値を吟味することは,この論の目的はではない.

それでも私は,一般的な観察を止めることができない.それは,経済的利益という考えは,税を通じた公共支出には当てはまらないというものである.なぜか? それは次のような理由による.

第一に,それによって正義がどれだけか損なわれてしまう.ジャック・ボノムは自分で楽しもうと汗水たらして働いて 100 スーを稼いだのに,国税局が介入し,それを取り上げて,彼の楽しみを他人に与えるというなら,それは少なくとも不幸である.当然,それらの税を課す人々は,もっともな理由を提示する義務がある.私たちは,国が以下のような嫌悪すべき理由を示すことを見てきた.「この 100 スーで,労働者に職を与えられる.」もちろん,これに対して,ジャック・ボノムは(そのことに気が付くやいなや)必ずや次のように答えるだろう.「なんてことだ! その 100 スーで私は自ら彼らを雇えたのに.」

この理由はさておき,他の理由はまったくむき出しのままで提示されるため,国庫と哀れなジャックとの議論ははるかに単純である.もし国が彼に対して,「おまえの 100 スーを取り上げて,身辺の安全を守るのに役立つ警官を雇い,毎日通る道を舗装し,その財産と自由を尊重する裁判官を雇い,あるいは国境を守るための兵を維持するために支払おう」というなら,もし私がひどく間違っていないなら,ジャック・ボノムは何も言わずに金を支払うだろう.しかし,国が彼に「おまえの 100 スーを取り上げて,うまく自分の畑を耕した時にはおまえに 1 スーの賞金を与え,おまえが息子に学ばせたくないことを教え,大臣は 100 皿のディナーにもう一皿を加える.アルジェリアに小屋を建て,移住者を留まらせるために毎年100スー,さらに移住者を守るための兵を維持し,さらにその兵を見張るための将兵を維持するため等々に,年間100スーを使おう」というなら,哀れなジャックの叫びが聞こえそうだ,「この法システムは,ジャングルとまったく同じじゃないか!」 国はこの反論を予想して,どうするのか? 全部を一緒くたにして,その質問と関係のないはずの嫌悪すべき理由を持ち出す.大金が雇用に与える影響を語り,税収の 5 フランに頼って生きる大臣の料理人や御用商人,移民や兵,将校の存在について話す.これらが示すのは,つまり見えるものだ.そしてもしジャック・ボノムが見えないものを考慮することを学ばないなら,彼は騙されている.これこそが私が何度も繰り返し指摘することで,彼に教えようと全力を尽くす理由なのだ.

公共支出は,雇用を増大させることなく置き換えるだけだということは,公共支出に反対する第二の深刻な根拠となる.雇用を移動させるということは,労働者を移動させるということであり,国内の人口配置を律する自然法則を妨害することだ.もし5000万フランが納税者のもとに留まるなら,納税者はそこかしこにいるのだから,それはフランスの4万の行政区内の雇用を促進することになる.それは各人を生まれ故郷に維持する紐帯となって,すべての労働者に行き渡り,考えられる限りの生産活動へと拡がる.もし国がこの5000万フランを市民から取り上げて,すべてをある場所に集めて特定の目的に使うなら,それに見合った分の雇用が移動し,その分だけ他の土地に属する労働者,その土地に属さず身分を落とした流動的な人口が集まるだろう.そしてそれは,あえて言うならば,労働賃金が尽きたときには危険でさえある! ここで以下のことが起こる(そしてそれは私のテーマに立ち返る).こうした熱狂的な活動は,いうならば狭い場所に閉じ込められて,皆の注意を引く.それは見えるものだ.人々は喝采し,手続きの美しさと簡単さに驚き,その繰り返しと拡大を求める.見えないものは,おそらくもっと分別の利いた種類の同量の雇用が,フランスの他地域で創出されるのが阻まれたことだ.

 

11.倹約と贅沢

見えるものが見えないものを日食のように隠してしまうのは,何も公共支出だけのことではない.政治経済に誤らせることに加えて,この現象は誤った道徳へとつながってしまう.

国の道徳的利益と物質的利益が相反するものであるかのように見せるのだ.これよりも心が落胆し,悲しいことなどあるだろうか? 見よ.

子どもに対して,秩序,整頓,家政,倹約や支出抑制を教えることを義務と考えない家父はいない.虚飾と贅沢を糾弾しない宗教はない.それは良きことであり素晴らしい.だがその反対に,次のような格言よりも人気のあるものがあるだろうか.

「貯蓄,それは人々の血液を干上がらせる.」

「高貴なる人々の贅沢は,庶民を繁栄させる.」

「放蕩息子は自ら破滅するが,国を富ませる.」

「貧者のパンとなるのは,富者の余剰である.」

確かにここには,道徳的な考えと社会的な考えの間に目に余る矛盾がある.この軋轢を指摘した後,どれだけの偉大なる人々が静穏を保てるのか? それこそが,私が一度も理解できないことだ.なぜなら人間の心にある,2つの相反する傾向を見るほどの苦痛は存在しないからだ.なんと! 人類は両極端において堕落してしまう! 倹約なら悲惨に陥り,放蕩は道徳的な破滅へと堕してしまう.

幸運なことに,こうした卑俗なる格言は,倹約と贅沢とを偽りの光の下に照らしている.それらは直近の見える結果にのみを考慮に入れ,遠くの見えない効果を考慮していないからだ.この不完全なる見方を修正してみよう.

モンドールとその兄弟アリステは父の遺産分割をした後,それぞれが年5万フランの収入を得ることになった.モンドールは流行りの博愛主義を実践する.彼はいわゆる浪費家として知られている.年に何度も家具を新調し,毎月服を買い換える.人々は,金をすばやく使う彼の高貴なるやり方について語り合う.つまり彼の前ではバルザックアレキサンダー・デュマの享楽生活でさえも色あせる.

彼への賞賛は引きも切らない! 「モンドールについて教えてくれ! モンドールよ,永遠に! 彼は労働者に恵みを与え,人々に祝福をもたらす.本当に彼は贅沢にふけり,通行人にさえ金をまく.そして彼の尊厳と人類の品性は少しばかり低下する.しかしそれがどうした.彼は自身の労働によるかどうかは別にして,その財産で善を成している.金を循環させ,商人を常に満足させて帰らせる.金が丸く造られているのは回るためだと言うではないか?」

アリステは非常に異なった人生設計を採った.彼はエゴイストでないにしても,少なくとも個人主義者ではある.なぜなら彼は消費について熟慮し,穏当で適度な楽しみを求め,子どもの将来について考える.つまり彼は,恐ろしい言葉を使えば,倹約する.

そして,人々は彼について何と言うか! 

「あいつみたいな卑しい金持ちに何の意味がある? あいつはケチ野郎だ.確かに,やつの生活の単調さは見上げたものだし,おまけに人道的で博愛的,また寛容でもある.だが,やつは計算高い.やつは収入全部を使ったりしない.家もそれほど豪華じゃないし,人も集っていない.彼が内装職人や馬車職人,馬商人,菓子屋に対して,どんな利益をもたらしているのか?」

こういった道徳的に致命的な判断は,贅沢者の出費という目に入る事実に基づいている.そして,それと同量あるいはそれ以上にもなる倹約者のもたらす消費という,もう一つの事実は目に入らない.

しかし,社会秩序の聖なる設計者によって,すべては見事に配置されている.他のすべてと同様に,社会経済と道徳性は対立するどころか完全に一致しており,アリステの知恵はモンドールの愚行よりも品位があるだけでなく,利益にもかなっている.

そして私がより利益にかなうと言うとき,アリステにとってだけではなく,あるいは社会全般に対してでさえもなく,現在の労働者とその時代の生産活動にとっても利益があることを意味している.

この証明のためには,現実の目には見えない人間行動の隠された結果に対して目を向けさえすれば良い.

なるほど,モンドールの贅沢はすべての点において目に見える効果を生み出す.誰でも,モンドールの折りたたみ幌の馬車,二頭立て馬車,四輪箱馬車,繊細な天井画,豪奢な絨毯,豪邸の輝きを見ることができる.モンドールサラブレッドが競馬場を走っていることも知られている.彼がオテル・ド・パリで開く晩餐会は大通りの大勢の耳目を集め,人々は言う,「気前のいい男だ.収入を貯めこむどころか,その資産まで使っているに違いない.」これは見えるものだ.

労働者の利益という観点からは,アリステの所得がどうなっているかを見るのは容易ではない.しかし注意深く行く先を考えてみれば,最後のお金にいたるまで,そのすべてがモンドールの財産と同じように労働者に雇用を与えていることはわかる.唯一の違いは,モンドールの度外れた贅沢は次第に減少する運命にあり,必ず終わりを告げるが,アリステの賢明なる消費は年々増加するということだ.

もしそうなら,確実に公益は道徳と調和する.

アリステは自分と家計のために年2万フランを使う.もしこれで満足しないのなら,彼は聡明な人間と呼ばれるに値しないだろう.彼は貧者に降りかかる災難に同情し,その援助が要請されていると良心から考えて,慈善活動に1万フランを寄付する.商人や製造業者,農民のなかにも,一時的な困難を抱える彼の友人がいる.彼らを慎重かつ効果的に助けるために,その情況を調べ,このことにさらに1万フランを使う.最後に彼は,婚礼費用を用意すべき娘と将来を確たるものとすべき息子がいることを忘れない.そのために,年に1万フランを貯蓄に回すことにする.

よって,以下が彼の収入の支出である.

1.自家消費      2 万フラン

2.慈善活動      1 万フラン

3.友人の援助  1 万フラン

4.貯蓄 1 万フラン

これらの項目を見れば,最後のお金にいたるまで国民の雇用に回っていることがわかるだろう.

  • 自家消費 労働者や商業に関する限り,この出費はモンドールが使う額と完全に同じ効果を持つ.このことは自明なので,これ以上は語らならいでおこう.
  • 慈善 この目的のための1万フランは生産活動に対して同額の利益をもたらす.パン屋,肉屋,仕立屋,大工のもとに届くのである.違うのは,パン,肉,服はアリステのためではなく,彼の代わりの人々のために使われることだ.さて,ある消費者が別の消費者に取って代わっても,産業全般には何の影響も与えない.アリステが100スーを使っても,その代わりに別の不幸な人が使ってもまったく同じだ.
  • 友人の援助 アリステが 1 万フランを貸した,あるいは与えた友人は,地面に埋めるために金を受け取るわけではない.それは,そもそもの仮定に反する.友人は商品を買うためか,借金を返済するために金を使う.前者の場合,産業が促進される.モンドールの買う1万フランのサラブレッドのほうが,アリステまたは友人の買う 1 万フランの衣服よりも価値があるなどと言えるだろうか? あるいは借金の返済に使われた場合,第三者,つまり貸付人が現れることになるが,その金は商業,工場,資源採掘のために必ず使われることになる.彼はアリステと労働者の間に入るだけだ.名目は変わっても出費は同じであり,産業の振興も同じである.
  • 貯蓄 残りは貯蓄された 1 万フランである.この点においては芸術や産業の振興,労働者の雇用促進において,モンドールがアリステよりもはるかに上回っているように見える.とはいえ道徳的には,アリストゥスのほうがモンドールよりもわずかに優れている.

こうして自然の大いなる法則が矛盾しているように見えるとき,私は本当の肉体的苦痛を感じざるを得ない.もし人間が,その利益に反することと良心に反することのどちらかを選ばねばならないとするなら,その未来には絶望するしかない.幸運なことにそうではない.アリステがその道徳性と同じように経済的な優越を回復するには,外見上矛盾するように見えるにもかかわらず,真理であり,心癒される原則を理解するだけで良い.つまり「貯蓄することは,消費すること」なのだ.

アリステが1万フランを貯蓄する目的は何なのだろうか? 100スー金貨2千枚を庭に埋めるためだろうか? もちろん違う.彼の資産と所得を増やすためだ.その結果,その金は彼の個人的な楽しみを購入するために使われる代わりに,土地や家,国債の購入,起業のために使われるか,あるいは商人や銀行家の手に渡る.これらの場合に金の行く先を追跡してみれば,売り手や貸し手という仲介人を通して雇用を促進していることに納得するだろう.それは彼の兄弟の例に倣うなら,あたかもアリステがその金を家具や宝石,馬と交換したかのごとくにである.

アリステが 1 万フランで土地や証券を買うとき,それは彼が金を使う必要がないと考えたからだ.これが彼への不満となる.

しかし同じように,土地や証券を売り手は,その1万フランを何らかの形で使いたいという考えから売ったのだ.

だからどのみちアリステか,あるいはその代わりの誰かによって,その金は使われることになる.

労働者階級や雇用の促進に対しては,アリステとモンドールの行為には1つの違いがある.モンドールは自分でその近くで消費し,目に見える.アリステの消費は,部分的に仲介者を通じて遠隔地でなされ,目に見えない.しかし実際のところ,原因に結果を正しく起因させることができるものにとっては,見えないものは見えるものと同じくらい確かなものとして認識される.このことは,両方の場合において通貨が循環しているという事実,そして浪費家の場合と同じように,金は賢者の鉄金庫の中に残るのではないということによって証明される.

よって,倹約が産業を害するというのは間違いだ.この視点からは,それは贅沢と同じほどに有益なのである.

しかし,もし過ぎ行く現時点についてのみ考えるのではなく,長期間について考えるなら,倹約はどれほど贅沢よりも優れているのだろうか! 

10 年が過ぎる.モンドールとその財産,大変な人気はどうなるのだろうか? すべてを失い,彼は破産する.毎年 6 万フランを社会に使うどころか,彼は負担にさえなっているだろう.どうであれ,彼はもはや商人たちを喜ばすことはなく,もはや芸術や産業のパトロンとして見なされることもない.労働者に対しても,彼が貧困に導いたその子孫たち対しても,もはや何の役にも立たない.

同じ 10 年が過ぎた後,アリステはその収入を経済に還元し続けているだけでなく,その所得は毎年増え続けている.彼は国の資本,つまり賃金を提供している資産を増大させる.その資本量に応じて労働需要が決まるため,彼は労働者階級にますます多くの報酬を与える.彼が死ぬとすれば,彼を継ぐ子どもたちには,こうした進歩と文明の仕組みが残される.

道徳的な見地からは,贅沢に比べて倹約が優越することは明白である.経済的な見地からもそうであることは,心を癒してくれる. 少なくともそれは,現象の直近の効果にとどまらず,最終的な効果について考察する能力を持つすべての人にとっては.

12.労働する権利と利益を得る権利

「同胞たちよ,税を支払い,あなたの思う賃金で私に職を与えよ.」 これが労働する権利つまり初級,第一段階の社会主義である.

「同胞たちよ,税を支払い,私の思う賃金で私に職を与えよ.」 これが利益を得る権利,つまり洗練された,第二段階の社会主義である.

そのどちらもが,見える効果の結果として生まれてきた.それらは,見えない効果の結果としては死んでしまう.

見えるものは,課税によって社会に課された労働であり利益だ.見えないものは,もし同じ額が納税者の手元に残されたなら生じたであろう労働と利益だ.

1848年に,労働の権利は,しばらく両方の顔を持っていた.これは,世論において労働の権利を破滅させるのに十分であった.

1つは国民労働組合と呼ばれる.もう一つは45センチーム税である[17].毎日何百万フランもがリヴォリ通りから国民労働組合へと流れた.これはコインのうるわしい面である.

しかし,その反対の面はこうだ.金庫から数百万フランを持ち出すためには,最初に金庫に入る金が必要である.これが,労働権の組織者が納税者にかかってゆく理由である.

さて農民は言う,「45センチームを支払わねばならない.そのため衣服をあきらめ,畑に肥料もやれず,家の修繕もできない.」

そして地方の労働者は言う,「ブルジョワが衣服をあきらめたために,仕立屋の仕事が減る.畑の地味を肥やせないために,労働者の仕事が減る.家を修繕がないために,大工と石工の仕事が減るだろう.」よって1つの取引から2つの利益は出てこないのであり,政府による仕事は納税者によって支払われる労働の犠牲の上に成り立っていることが証明された.これが労働する権利の死であり,それは不正義であると同じほどに妄想でもある.しかしながら利益を得る権利,それは労働する権を誇張したものであるが,いまだに生きて繁栄している.

保護主義者たちが社会に果たさせている役割には,何か恥ずべき部分はないのだろうか?

彼らは社会に対して言う,「私は職を得る権利を持つ.それだけでなく,利益をもたらす職をだ.馬鹿げたことに,私はその価値の 10%も失ってしまう職に就いている.もし同胞に20フラン課税してくれれば,私は損ではなく利益を得ることになる.利益を得るのは私の権利だ.社会は私にその義務を負っている.」

こういった詭弁家に耳を傾ける社会は,彼を満足させるための税負担に苦しむことになる.そして1つの産業での損失を出せば,別の産業が肩代わりする義務を負っても,まったく損失は変わらないことを見過ごしている.こうした社会は,あえて言うなら,そうした負担に喘ぐにふさわしい.

よって,これまでにとり扱ってきた多くの話題から次のことがわかる.政治経済の無知は,現象の直近の効果に目くらましされることであり,政治経済を知ることは,直近と将来のすべての効果の全体を考慮に入れることだ.

ここで私は,これらの他の多数の疑問を,同じテストにかけることができるだろう.しかし同じ議論を単調に繰り返すことは控えて,シャトーブリアンが歴史に対して言ったことを政治経済に当てはめることで終わりにしよう[18]

彼は言う,「歴史には二つの結果がある.一つは即時に知りえる直近のものであり,もう一つは初見では知り得ない遠隔的なものである.これら二つの結果は頻繁に矛盾する.最近得られた知恵から生じるものもあり,永続する知恵から生じるものもある.人間的出来事の後に,神意による出来事は発生する.神は人間の背後に立ち現れる.望むなら至高なる戒めを否定し,御業の受け入れず,御言葉を批判し,庶民が神意と呼ぶものを”情況の力”や”理性”と呼び替えるが良い.しかし実現した事実の結末を見るなら,最初から道徳と正義に基づかないものは,常にその予期と反対のものを生み出すことを見るだろう.」

――シャトーブリアン『墓の彼方からの回想』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[1] ボノム Bon homme=good fellowは日本語で言えば善良太郎というほどの名前

[2] Auguste Vicomte de Saint-Chamans (1777-1860)はフランス復古王政期に活躍した国会議員,国家評議会委員. 1824年の『新国富論 Nouvel essai sur la richesse des nations』には,彼の保護貿易主義,貿易収支均衡主義が端的に著されている

[3] バジルは当時の演劇に登場する音楽教師

[4] 当時の1フランは20スー

[5] アドルフ・ティエールはフランスの著名な政治家

[6] アルフォンス・ド・ラマルティーヌは19世紀フランスの詩人,分筆家,政治家

[7] 1851 年のロンドン・ハイドパークでの第一回万国博覧会のこと.ガラスと鉄によるクリスタルパレスや各国の産物を集めた展覧会は,ロンドン市民からの入場料や寄付によって黒字となった.

[8] リヴォリ通りには財務省,グルネル通りには教育・芸術省があった

[9] それぞれ当時の立法議会議長,財務大臣,公共事業大臣.

[10] シャン・ド・マルスはパリを代表する公園

[11] ヴェルギリウス,『アエネイス』の VI 276 より.ヨーロッパでは1846年の凶作によって翌年から食料が高騰した.

[12] ファランステールはシャルル・フーリエによる空想的共同体の名称,イカリアはエティエンヌ・カベによる空想的共同体の名称

 

[13] 「禁止さん」とでも意味するほどの名前

[14] ボシュエは王権神授説で有名な神学者.ここでは,一般庶民が買いそうもない書籍を例示している.

[15] ルソー「人間不平等起源論」第一部

[16] 原注:軍事大臣が最近述べたところでは,アルジェリアに 1 人を送り出すためにかかる l 国家費用は 8000 フランである.さて,これらの貧しいものたちは 4000フランもあれば,フランスで十分に生きていけただろう.1 人と同時に,2 人の生計分がなくなるのなら,どうしてフランスの民は助かるのだろうか? ぜひ知りたいものだ.

[17] 二月革命時に新しくかけられた税

[18] シャトーブリアンは 19 世紀フランス・ロマン主義の先駆的作家