kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

格差の国の経済学

こんにちは。

 

今日はAngus Deatonの「格差の国の経済学」を読んでみた。

 

 

 

Deatonはノーベル賞を受けている著名な経済学者。経済学についての上記専門書はアメリカで読んでいたのだが、上のものはもっとフランクなエッセイ。

 

正直驚いたのは、プリンストン大学の教授である彼がとてつもないケインズ崇拝者であり、全般的に左翼が買っているということ。でもまあハーヴァード、イェール、プリンストンの経済学とは、つまりは政策助言者たちの経済学なので、ケインズの財政政策を今も支持しているのは当然なのだろう。

 

本書では、マクロ経済学にはほとんどまったくコンセンサスがないこと、市場システムの効率性を従事するのは共通だが、どこまでそれを犠牲にして平等を実現しようとするかには保守派進歩派(それはノーベル賞を受賞するような学者たちの間でさえも)に大きな隔たりがあることなどが正しくも指摘されているのは、経済学者デアはない普通の人、あるいは他の学問の学者にとってはおそらくは知るに値する重要な事実ではないだろうかと思う。

 

全体として左翼的な人が読めばとても共感できるし、保守的な人が読めば、行き過ぎた平等主義の記述だと感じるだろう。まったくもって客観的な世界観というものを求めるのは難しいことが痛感される本だった。

 

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火を使った料理は150万年前か、それとも40万年前か?

こんにちは。

 

脳の大きさからして、人間は150人程度の集団で生きてきた、そして今も150人という数は社会の基本となっているという仮説で有名なロビン・ダンバーの著作を読んでみた。

 

 

霊長類の場合は仲間づくりのための「毛づくろい」に時間をかける必要がある。人類の場合は、それが会話に置き換わったりしてはいるが、それでもそれなりに時間がかかること、そのため狩猟採集のための移動などと同じで、時間的な制約をうけてしまう。そのあたりをアウストラロピテクスからのホモ属全般に対して、マジメに数値化して分析しているのが、本書の特徴だ。

 

あとがきで長谷川眞理子さんも書いているが、アウストラロピテクスやエレクトゥスぐらいのことをマジメに分析するというのは、よほどクソ真面目な研究者以外には面白くはないだろう。そのへんが実によくも悪くも学術的だ。

 

エレクトゥスの150万年以上前くらいから人間は火を使い始めて、栄養摂取の効率化に成功したというのがリチャード・ランガムの「料理仮説」なのだが、ダンバーはこれに懐疑的、いや反対して、ヒトが火を恒常的に使い始めたのはAMH(解剖学的現代人類)となった30万年前の少し前くらいだと主張する。火を維持するには巻が必要で、大きな集団と協調的な精神構造が必要だからだ。どっちが正しいのかは、もっと頭蓋骨などの口腔容量の変化など、解剖学的な変化を含めた分析を待たなければならないが、とにかく論争があるということは科学的には健全ではある。

 

ということで本書には一読の価値はあるが、人類の進化によほどの興味がなければ、ほとんどの人には面白いというほどではないかもしれない。まずはランガムの本を読んだほうが良いかも。

 

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早発性アルツハイマーの顕性遺伝子

こんにちは。

 

早発型のアルツハイマーの優勢・顕性遺伝子がコロンビアにあることがわかった。医師、看護師たちは、その一族を最終的に、6000人にも及ぶまで調査する。過去数十年のコロンビアでは、麻薬組織による左右の内線状態にあり、田舎で調査・治療を敢行するには、とんでもない困難があった。そうした状況と保因者たちの生活の変化や若い世代の思いなどをルポしたが本作。

 

 

本書そのものは読み物、ルポとして、とても読み応えがある。それほど科学にしぼった内容ではないので、2度読むことはないと思うが、インフォーマティブな部分、倫理的な部分、いろいろと考えさせてくれる良書だった。

 

さてアミロイドβが原因でアルツハイマーになるのか、それともアミロイドβがタウタンパク質の異常を引き起こさないなら、別に問題はないのか? レカネマブだけじゃなくて、それに先立つアミロイドβ標的薬の候補がどんどの失敗していった話は興味深い。結局レカネマブも効果量は「最大でも」22%進行を遅らせるというもので、それに効果がない被験者もいる程度だから、本当に薬としては限界的なレベルとしか言いようがない。

 

認知症はその本人の記憶がなくなっていくだけではなくて、人格が次第に変化していく。本人にとっても、介護者にとっても辛い、、、救いようのない状況だ。自分も親が認知症になり始めてから、どうしても未来の自分のこととして捉えてしまう。

 

クール―病とプリオンタンパクの話でもそうだったが、興味深いことっていろいろとある。そういう意味でも、みなさんもぜひとも楽しんで見てください。

 

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Behave 2

こんにちは。

 

けっこう久しぶりになってしまいました、すいません。

 

 

動物の行動を説明するときに、直近の行動を引き起こした神経回路について説明するのは当然のことなんだが、それは時間的にかなり接近した数秒という程度の過去について話している。

 

ホルモンはもっと長い時間をかけて、神経系を含む身体全体を調整する。例えば、胎児の発生過程からテストステロンは男の脳や性器を作るわけだ。あるいはセロトニン系の神経症やうつなんかも発生、成長時から、この数ヶ月というところまで、けっこうな時間で神経系その他を変化させる。

 

で、そうした神経系を設計し、ホルモン調整を機能させる遺伝子を揃えてきたのは、生物種の進化的な過去なので、何十億年というスパンで考える必要がある。

 

というように、本書前半の人間行動の記述は続く。よく知られているものもあれば、マイナーな知識・論争のある知識もあって楽しいが、まとまっているという感じがない。ということで、こりゃ著者本人の博識はわかるが、研究者はともかく、普通の人は延々とつづく内容の羅列に飽きるよ。。。なんか消化不良になる、、、

 

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中の話題の一つに、よく知られたオキシトシンの話がある。親子の愛情と絆を生み出すオキシトシンだが、いろんなゲーム(公共財ゲームとかね)の被験者にスプレーすると、内集団には利他的になるが、外集団には排外的になることが報告されている。(これは僕はちょっと再現性そのものを疑っているのだが、)論理的には、特定の個人を贔屓するような神経回路は、別の人々を差別することに使えばもっと効果的に機能するだろうと考えれば、進化がオキシトシンにそうした二重の神経作用を与えることはおかしなことではない。

 

有名なスウェーデンからの論文に、オキシトシン濃度が高い男性は離婚しない傾向があるというのがある。なぜって、Prairie Vole (ハタネズミ)のオキシトシン・レセプターの違いが、つがい形成を決定している。それを人間に応用したら、見事に同じ結果が出たという話。おそらくもっとも有名な行動遺伝子の一つだが、、、

 

時間的に短い順に、神経系、それをつくるホルモン系、それを作る遺伝子型というような説明をしているのは楽しいが、全体の話が、生物の行動についての総花的な説明になってしまっている。

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結局、著者が措定している、「ヒトが戦争をやめられるのか?」という疑問は、人が好戦的なチンプなのか、それとも平和的なボノボなのかということになる。はっきりとした結論は提示されていなくて、それらは状況によって変化し得るというような感じなんだが、こうした曖昧な結論は当然過ぎて、普通の人には興味深いものではないんじゃないか??

 

内容は楽しい知見に満ち溢れて入るものの、特段のメッセージや仮説がないことに加えて、この本はやたらと値段が高いので、研究者以外にはオススメできないかも。

 

それではまた次の本に移りたいと思います。

Behave 読み始めました

こんにちは。

 

去年完全に引退して、もう2度と引用文献のあるようなものは書かないと思っていたところ、どうしてもということで政治系雑誌「戦略研究」に載せるものを書いているうちに、3ヶ月も経ってしまいました。

 

ということで、去年に買ってあったんだけど、病気で読むのを中断していたサポルスキーの『行動behave』を取り出して読み始めました。この本、彼のライフワークである霊長類学、脳神経科学、意思決定、ホルモンの影響、進化論などが雑然と書かれている大著なので、こっちも1ヶ月ほどかけて、ダラダラと読むつもり。

 

 

1章は雑然と、行動と神経系、ホルモン、進化論などの雑談。で、2章は、要するに大脳の神経系の大まかな説明と、行動への影響、特に扁桃体の恐怖、攻撃との関わり、dlPFC、vmPFCの意思決定に関する実験、医学的知見などなど。たぶんダマシオ、ルドゥーなどを読んでいれば、脳神経系と意思決定に関する復習になるんだろうが、もしそういうのを読んでなかったら、これだけでもう腹いっぱいになるような感じかも。でも、まとまっているので、行動科学者にとって楽しい読みものではあります。

 

引退した僕は、新しい知見とかはもう求めていないので、これからユルユルとこうしたエッセイを読むことにします。退職して、もうすることもないしね。ということで、3章以降に、なにか興味深いことが書いてあったりしたら、また報告します。

 

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労働価値説 その3

こんにちは。

 

さて労働価値説が正しいと感じられることには、2つの理由があるんじゃないかと考えている。

 

1つ目は、大域的に見ると、ある程度は労働価値説には説得力があるという事実だ。例えば、ポルトガルのワイン製造とイギリスの綿織物生産にどれだけの労働力が要るのか? という問いを立てると、「まあ、何人いればどれだけをつくれるか」という生産費のおおよその見当がつく。ほとんどの労働は時給いくらというカテゴリーに入る、あるいは可換的なのだ。

 

というわけで、起業家の活動やスポーツのスター選手はさておき、われわれのほとんどの労働活動なんて個別に考えるほどの価値がない。例えば、経済学の大学教授の教授職なんてほどんどすべての労働が「学生のお世話」と「学校事務」なので、どんなサラリーマンでも即座になきることに疑いはない。というわけで、我々のほとんどが起業家にはならず、「どこかいい会社(組織)で時給の高い楽な仕事につきたい」と考えることからすれば、それが少なくとも労働価値説という認識に基づいているわけだ。

 

ということで、大域的に労働価値説は正しい、言い換えるなら経済全体の中で大まかに当てはまっているといえるのだろう。

 

2つ目は、さらに素朴なもので、「ある人の働きは、別の人と同じようである」という事実や、その認識ではなくて、「そうあるべきだ」という人間のもつ直感的な価値判断である。

 

部族社会に生きていれば、大きな不平等は直接的な軋轢を生む。人が人を殺すことはかなり簡単で、また集団全体の力を失わせるので、資源配分の偏りを不正とみなす直感が発達するのは自然だ。 ということで、「~~であるべきだ」という道徳的な判断から「~~である」という(論理的には誤った)認識が生まれる(逆自然主義の誤謬)。 おそらくはこの神経回路そのもののあり方が、労働価値説をサポートすることになるわけだ。

 

ということで、労働価値説が古典派で支配的であったことにはそれなりの理由がある。だからといって正当化できるわけでもないが、まあ、そういった学説史的な事実を理解することには納得できるだろう。

 

というわけで、今回は労働価値説の用語ではなくて、それが支配的になった理由について書いてみた。以上。

 

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労働価値説の話2

こんにちは。

 

昨日のポストは、「価値についての効用価値説は正しいが、その主観価値のなかには一部、周囲の人間の感じる価値が入り込んでいる」という話だった。これをもう少し書いてみよう。

 

自分があるモノに感じる価値がハッキリしない場合、周囲の人間の言うことから影響を受けてしまう。いや自分ではハッキリしていると感じている場合でさえも、実はそれは単に常識を学習して信じ込んでいるだけのことがあるということ。

 

その極限は「通貨」である。おカネは別の人々が価値物だと信じていることを自分が信じているから受け取るのだ。いわば価値の100%が「自分の周囲の人間の認識」に依存している。これは、ある特定個人の主観的な価値観から見ると、100%の客観価値(この言葉の使い方はおかしいのだが)であると言える。

 

多分90%以上が客観価値であるものは、宝飾品などだろう。金が銀よりも? という話を昨日は書いたが、今日またYoutubeを見ていたら、オパールなどの宝石を河原で拾たり、ガーネットを掘り出したりするYoutuberがいることがわかった。

 

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さてガーネットやルビー、サファイアはダイヤよりもはるかに安価で価値が低いとされているが、子どもであれば多分に色味は無職のダイヤよりも美しいと感じられるのではないのか? サファイヤブルーやエメラルドグリーンのほうがアピールするんでは?? 

 

子どもが小さいときに少女漫画の裏病死にあるサン宝石の広告では、無色のガラスよりも色ガラスのほうが好まれていそうだが、、、

 

僕はこの問いに答えることができないのだが、人工ダイヤが急速に普及しつつある現在、近い内にあるいは本当にそうなるかもしれない。もちろん、すべての宝石が人工的に自由に作られるようになれば、やっぱり金属だけが価値物になるのかもしれないし、その辺もまったくわからない。

 

古代から権力者は壮大な建築物を建ててきた。ピラミッドや中国の皇帝の居城などの大きさは技術の高さだけでなく、要するに「どれだけの人を動員したか?」ということが一目瞭然であるからこそ、偉大な建築物だったことは間違いない。 とすると、人間の労働を化体させているモノが一見して価値のある装飾物になる。 極限的な微細な芸術品もつねに技術だけでなく、「職人たちがそれを生み出すための時間が莫大であること」が明白である。ペルシャ絨毯や絢爛豪華な織物などには、そのモノ自体が労働時間を直感させる。

 

さて、こうした労働時間も、最終的・究極的にはなんらかの直接的な効用に還元されるのではないか? という疑問も湧く。考えてみると、そうした労働時間が生み出すように思われる価値は、究極的には「おいしい」「栄養価がたかい」「うつくしい」などといった生物的な価値に帰着できそうでもある。(美しいことも、そうした論争のフラクタル的な一部である。)

 

この問いは、クジャクのセックスアピールを巡る議論と同じだ。 なぜ、直接的な効用を生み出さないような特性が「望ましい」「好ましい」と感じられるのか? なぜそうした神経回路が進化的に系統発生において発達してきたのか? ちなみにそうした神経回路の錯視を利用しているように思われるダンスは多くの鳥類の求愛行動に見られるし、ジャニーズのダンスだってまったく同じものだろう。

 

こうした問いに対する数理モデルもあるが、要するにブーツトラップ・モデルになるので、「そもそもの人間集団の共通認識が存在する程度で、個人の効用には還元できない部分が残る」というものになる。

 

主張したいような強い結論などは特にないのだが、あえていうなら「主観効用価値説は大まかに正しいが、説明力の高くない財などもそれなりに存在する」という凡庸なもの。こうしたアノマリーとしての財・サービスの理解は、多分経済学(という金儲けについての学問)を好まない社会学の交換理論、あるいはマルクスの交換理論など、さらには貨幣理論などにも「あーだこーだ」と議論されてはきているが、そうした議論・説明は気が向いた程度で読んで楽しめばよいだけ。

 

繰り返すと、僕は主観効用価値説が「誤っている」というようなバカらしい主張をしたいのではなくて、「そうではない事例も散見される」といっているのである。まあ、極限状況を想定して議論をするのが好きな、悪い意味での哲学的な議論なのだ。大体の哲学者はそういった「考えるための教材」が大好きで、無意味な思索にはげんできた。考えるのを楽しむのはさておき、だからこそ計量という概念が必要になる。計量化によってのみ、何が普通で、何がどの程度のアノマリーなのかが理解できるのだから。

 

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