kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

見えるものと見えないもの8章 機械

8.機械

 機械に呪いあれ! 毎年、その増大するパワーは何百万もの労働者の職を、そして賃金とパンを奪い、彼らを貧困へとおとしめる。機械に呪いあれ!

 これが民衆の思い込みに基づく叫びであり、ジャーナリズムでも繰り返される。

 しかし機械を呪うことは、人間精神を呪うことなのだ。

 そんな主張に満足を感じることがなぜできるのか、私は不思議でならない。

 なぜなら、もしそれが真実なら、その不可避的な結論とはどのようなものだろうか? それは誰にとっても活動性、繁栄、富、幸福などが不可能になってしまうということだ。その例外は、愚かで自動性を欠くものたち、そして考え、観察し、まとめ上げ、発明し、最小の手段によって最大の結果を得るという決定的な才覚を神によって与えられなかったものたちだ。その反対に、ぼろ布、みすぼらしい丸木小屋、貧困、飢餓というのは、鉄や火、風、電気、磁力の中に化学と力学の法則を見出そうとする、つまり自然の力の中にその力への補助を見出そうとするすべての国に不可避な運命となる。ルソーと同じように「すべて考える人は堕落した動物だ」とも言えるだろう。

 これだけではない。この主張が正しいとしよう。すべての人は考え、発明し、そして最初から最後までその生存のどの瞬間においても自然の力を利用し、その労力や出費を下げて少ないものから多くを取り出し、できるだけ少ない量の労働からできるだけ多くの満足を得ようとするものであるから、当然に、すべての人間は進歩への心理的な傾向そのものによって、人々を苦悶させる衰退へと駆け出していることになる。

 だから、統計によって明らかにされるべきことは、ランカシャーの住人はその機械のあふれた土地を捨てて、機械の知られていないアイルランドへ職を求めに行くことである。また歴史によって明らかにされるべきことは、野蛮が文明の新時代を暗がりにし、無知と未開の時代において文明は光輝くということである。

 これら大量の矛盾には我われを不快にする何かが明らかに存在し、その問題自体の中に、これまで十分に分析されてこなかった解決の要素があることと思わせる。

 すべてのミステリーはこうだ。見えるものの背後に何か見えないものがあるのだ。それを白日のもとに晒してみよう。私が示すことは前述したことの繰り返しだ。なぜなら問題はただ一つであり、同じものだからだ。

 人間は、反対する力が存在しないときは、できるだけのバーゲンを目指すという自然の傾向を持っている。つまり、相手が外国の生産者であっても、熟練機械生産者であっても、その労働に対してできるだけ多くを得ようとする。

 この傾向に対する理論的な反論は、どちらにおいても同じだ。どちらにおいても、それは労働を明らかに活用しないということが非難される。ここで、労働を活用しないことではなくて、それを暇にすることこそが重要なのだ。だから、どちらのケースでも、実際には同じ障害物、――力、が反対されている。議会は外国との競争を禁じ、機械との競争を禁止する。すべの人に自然な性向を抑止するために、その自由を奪うという方法以外に、どんな方法があるのだろうか?

 確かに多くの国においては、立法者たちはこの二つの競争のうち、一つだけを標的にして、もう一つについては不満を述べるにとどまっている。このことはつまり、立法者のつじつまが合っていないということを証明しているに過ぎない。

 このことに驚く必要はない。間違った道では、不可避的につじつまは合わない。そうでなかったら、人類はその犠牲になっていただろう。間違った原理は、これまでも、これからも終点にたどり着かないのだ。

 ここで、例示をしよう。それは長いものにはならない。

 ジャック・ボノムは二人の労働者を使って2フランを得た。しかし彼は、ロープと重しを使えば、その労働を半分に減らすことができることに気づいた。こうして彼は節約しながらも同じ金をもうけ、一人の労働者を首にした。

 彼は一人の労働者を首にした、これは見えるものだ。

 そしてこれだけを見て、「文明の悲惨さを見るがいい。これこそ自由が平等にとって致命的である有様だ。人間精神の超克によって、即座に労働者は貧窮のふちに投げ込まれる。ジャック・ボノムは二人の労働者を雇うことができた。しかし二人は競争によってもっとも低い賃金で働くことになり、ボノムは賃金を半分しか支払わなくなった。こうして富めるものは常にますます豊かになり、貧しいものはより貧しくなる。社会は設計され直す必要がある。」素晴らしい結論だ、前口上に値する。

 幸運なことに、前口上も結論も両方が間違っている。なぜなら半分の見える現象の背後には、残りの見えない半分があるからだ。

 ジャック・ボノムによって節約されたお金は、この節約の必然的な結果と同じように、見えないものだ。

 彼の発明の結果として、ジャック・ボノムは大きな競争利益を得るために一フランだけを労働者に支払うことで、残りの1フランは手元に残っている。

 もし世界に雇われていない労働者がいれば、使用されていない資金を持つ資本家がいる。二つの要素は出会い、結合される。そこには労働の需要と供給、賃金の需要と供給において何の変化もないことは、日の光のように明らかだ。

 発明と、最初のフランによって雇われた労働者は、今や、かつては二人の労働者によって為されていた仕事をする。二人目の労働者は二番目のフランによって雇われ、新しい種類の仕事を実現する。

 では、生じた変化は何なのか? 追加的な国民の利益が得られた。つまり、発明は無償の大勝利、――人類への無償の恩恵なのだ。

 私の例示の形式から、次の推論を引き出すかもしれない、――「機械からの利益のすべてを受け取るのは資本家である。労働者階級は、苦しみが一時的なものであったとしても、そこから恩恵をこうむることはない。なぜなら、例示されたように、、機械は確かに国民の労働を減らしこそしていないが、増やすこともしておらず、その一部を置き換えたのだから。」

 私はこの薄い著書において、すべての反論に答えようとは思わない。私がもくろんでいる唯一の目的は、卑属で、広く信じられている、そして危険な偏見と戦うことだ。私が示したいのは、新しい機械によって、その報酬が労働者から差し引かれてしまった時、いくばくかの労働者が仕事から解き放たれることになるだけだということだ。これらの労働者とその賃金が結合することによって、発明以前には生産することが不可能であったものを作り出すだろう。そこから、最終的な結果は、同じだけの労働からより多くの生産物が得られるという利点だということになる。

 この追加的な恩恵を受益者は誰なのか?

 最初に、確かに資本家、発明者が受ける。機械を最初に使うことに成功したものであり、それは彼の天才と勇気への報酬だ。この場合、例示したように、彼は生産費を節約したのであり、その節約分がどのように使われようと(そして必ず使われるのだが)、機械によってクビになった労働者の数とまったく同じだけの雇用を生み出す。

 しかし、すぐに競争がその節約分を価格低下分にしてしまい、発明者はもはや発明の恩恵を受けることができなくなる。恩恵を受けるのは、購入者、消費者、労働者を含む市民、つまり人類なのだ。

 そして、見えないものは、すべての消費者のための節約分は、その後の賃金を支払うための資金となること、そしてまた、その賃金は機械によって節約された分に置き換わること、なのだ。

 よって、前述した例に戻るなら、ジャック・ボノムは2フランを賃金に使うことによって利益を得る。発明のおかげで、賃金は1フランだけである。彼がその生産物を同じ価格で売る限り、この生産にために一人少ない労働者を雇うことになる。これが、見えるものだ。しかし、ジャック・ボノムが節約した1フランによって雇われるもう一人の労働者がいる。これが、見えないものだ。

 自体が自然と変化して、ジャック・ボノムが生産物の価格を1フラン下げざるを得なくなったとき、彼はもう、商品生産のために必要な労働者を雇うための1フランを持っておらず、節約分はもはや彼のものではなくなる。新しい受益者がとってかわる、それは人類だ。ボノムの生産物を買ったものは、誰であれ1フラン少なく支払うのであり、必然的にこの節約分を次なる賃金の資金とする。このことは、またもや見えないものだ。

 事実によれば、この機械の問題には別の解決方法もある。

 機械は生産費用を低下させ、生産物の価格を下げる。利益の手かは消費の増大をもたらし、必然的に生産を拡大する。最終的に、発明前と同じだけ、あるいはより多くの労働が要請される。このことの証明として、印刷、織物、などが挙げられる。

 このような例示は科学的なものではない。それによれば、もし今話題にしている生産物の消費が一定か、あるいはそれに近いなら、機械化は雇用を害するということになる。これは真実ではない。

 ある国ではすべての人が帽子をかぶるとしよう。機械によって価格が半減したとしても、消費は倍増はしないだろう。

 この場合、国民の労働力の一部が麻痺するというのだろうか? 卑俗な例によるなら、ウィ、である。しかし、私によれば、ノン、である。なぜなら、もし国中で帽子が一つとして余分に売れなかったとしても、賃金となる資金は確保されて続けている。帽子の取り引きに回らなかった分は、全消費者によって実現された経済活動に回ったことが見出される。それは、機械によって不要であるとされた分の労働への賃金として支払われ、すべての取り引きの新しい発展を促すことになる。

 そして、事態はこうして進展する。80フランする新聞があったが、今は48フランである。32フランは購読者の節約分である。この32フランが報道産業に向かうことは明らかではないし、少なくとも必然的ではない。しかし、そうでないなら、どこか別のところへ向かうことは明らかであり、必然的でもある。それをもっと多くの新聞の購入に使うものもいるし、またより快適な生活に、良い衣服に、良い家具に、使うものもいる。

 このようにして、産業はすべて一体である。それらは大きな全体を形作っており、それぞれの異なった部分は隠された水路で連絡されている。一人による節約は、全員の利益となる。節約というものは、労働と賃金を犠牲にしてしか生じないのだということを理解することは、非常に重要だ。