kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

パターナリズムの成れの果て

こんにちは。

 

久しぶりにリバタリアン的なことを。

 

これまで個人的にボクに会った多くの人から、「リバタリアンっぽくないね。むしろ社会学者みたい」というような意見を聞いた。これは、ボクがおそらくパターナリズムそのものに対して、概念としては反対していないためだろう。言い換えると、リベラルが主張している「国家が果たすべきだと感じる理念」に反対しているんじゃなくて、「国家が現実に果たしている活動」に反対しているのだ。だって、そのほとんどが無意味か、有害かのどちらかなのだから。

 

news.yahoo.co.jp

 

一見して有意義な規制や制度は、10年もすれば、特殊な集団に対する単なる既得権益になる。それが社会全体を貧しくして、人々を苦しめる。ここでは美容師免許が挙げられているが、そもそも美容師になんで免許なんているの????  

 

んなもん、必要なはずないじゃん!!

 

万が一に「髪を切ることに関する免許」というものを肯定するなら、それが刃物を扱い、多くの人に接するものであるから、衛生上、感染症の対策を理解するというものだけで良いはずだ。

 

人がどんな髪型を好むか? どう扱ってもらいたいのか? なんてそもそも美容師(さらにクソなことに理容師などという別の免許がある)免許なんてもの自体がまったく有害なのだ。

 

どうしてリベラルの御仁たちは、パターナリズムを主張して満足するのか? それは自分のパターナリズム=自分の人格の高潔さ表明だけで納得して、現実を見ようとしないということなのに! インテリ一般に広がる、そうしたジコマン=偽善こそ気になる。

 

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