kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

リバタリアニズムとコニュニティ

こんにちは。

 

友人に勧められて『リバタリアンが社会実験・・・』を読んでみた。ニューハンプシャー州リバタリアンたちが集まって、フリーステオート・プロジェクトをやり始めた2014年くらいの前に、クラフトンという街でフリータウン運動があった様子を描いた小説風のドキュメンタリー。

 

リバタリアンが社会実験してみた町の話:自由至上主義者のユートピアは実現できたのか

 

こうしたリバタリアンの街に集まってきたリバタリアンの多くが、あまりにもクセのある横柄な「自分の権利」と「政府からの自由」の主張者であり、だんだんとコミュニティが壊れていくという様を描いている。

 

同時に、アメリカのクロクマの狩猟、餌付け、その他が同時に描かれていて、それは自然保護その他の価値観も描いている。だから、リバタリアンという視点だけではない自然との関係という多面的な側面を描いているのである。これには普通の人にとっては読んでみて楽しい部分もあるのだろうが、ボクのような思想系の人間には単なる雑味という感じで、焦点がぼやけてしまっているように感じる。

 

さて、以下2点の感想を述べたい。

 

1.アメリカだけでなく、世界の多くのリバタリアンがあまり賛同できない変わり者の「自己権利の主張者」であるということは、現時点ではそれなりに正しいと思う。現時点のリバタリアン自然権的な自由権と、その論理的な一貫性を重視しすぎているのだろう。

 

それが現在のリバタリアニズムの弱みなのだろう。そういう権利の主張者だけでなく、普通の人に、もっと自由の価値=豊かになる可能性を理解してもらうしかないというのが実感。

 

2.この著者への批判になるが、そもそもコニュニティの問題を、低い税率の問題に矮小化するのはやめてもらいたい。税を下げれば、学校、教会、道路、消防署などのコニュニティも貧困化するというのは事実だが、リバタリアンの主戦場はそういうコミュニティへの投資ではなくて、もっと大きく圧倒的に無意味で有害な国家的な産業保護や規制などだ。

 

それらを廃止しても、目に見える地域社会の荒廃はあるはずがない。しかし、この本を読むと、産業保護や各種の国家の産業規制をやめると、道路も消防も学校もなくなり、犯罪と訴訟が増加するという理解になる。これは完全に倒錯した論理であり、記述でもある。

 

この著作とその記述が結論とすることは、町という地域レベルで自由主義を実践することはできないということだ。少なくてもシンガポール、香港のレベルといった国家レベルでの比較しかできない。

 

というわけで、この本はボクにとってはあまり面白くなかった。とはいえ、あるいは小説のような記述のドキュメンタリーを好む人には楽しいかもしれない。

 

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