kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

もちろんサラ金業者はヒドい目にあったのは事実だが、

昨日のpostの続きとなるが、ピンカーの思想では、「Sacredなもの」が多ければ多いほど、社会は迷妄が多くなり、不合理に支配され、暴力が多くなる。反対に、現代のように「合理性=交換性」(つまり資本主義)が支配的になった社会では、暴力は少なくなるという。

まあ、昔は人身御供、人柱、村八分などのリンチから八つ裂き、釜茹で、磔獄門まで、見世物としてもなんでもありだったのだから、残虐な迷妄の社会だったというのは間違いない。

さて、「合理性=交換性」の発想を突き詰めれば、すべてを自発的・自由な交換に委ねようとするリバタリアンは必然となるだろう。その点は指摘されていて、その利点は明記されているにもかかわらず、なぜかピンカーは自分を含めて多くの知識人はリベラル本流なのだという。理由は必ずしもはっきりしないが、つまりはSacredなものが社会にはあり、また必要だからだ、ということなのだろうか? つまり、すべてを金銭取引にするというのは、政治活動というSanctityを否定してしまう、行き過ぎた考えだということなのか?

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さてもう一つ、もっと法と経済学の視点から興味深いと思ったこともある。(以下、やや理論的にすぎるかも、、、スイマセン。)それは債務奴隷が次第に禁止されていったのは、広義の暴力の減少として捉えられるという主張。

まあ、ギリシャ・ローマの古典古代から、シャイロックの中世まで、債務奴隷というのは、極めて普通の存在だったことがわかる。

これに関連した現代の話では、僕はこれまで、どちらかというとサラ金などの話でも、契約不履行では、どちらかと言えば、債務者の側を重視してきた。単純にリバタリアン的に、「自発的な契約は守られるべきだ」という発想だったとも言えるし、後述するような、効率性の視点から見ていたわけでもある。

しかし、当然ながら、金を貸す側には、貸さない自由もある。左翼弁護士が指摘するように、債務が履行できなくなった場合に、どう処理するのかは、確かに社会的な制度設計の余地が大きい。

リバタリアンは典型的に、債務不履行の際に貸し手責任を問うなら、貸し手は慎重になり、かえって借り手が借りられなくなったり、闇金融に走ったりして不利益を被ると主張する。これはこれで、経済学的に間違いなく正しい議論だ。

さてしかし、貸し手は借り手の言葉がどの程度信頼出来るか(クレジット・ヒストリーの参照、担保物の確保など)を調べることができる。あるいは借金の目的が何であるか(住宅ローンか、カーローンか、特定されない消費ローンか)も調べることができる。さらに、おそらくは貸し手のほうが抽象的知性に優れていることが多そうだから、彼らに義務を課したほうが道徳的にも、効率的にもいいのかもしれない。

というわけで、支払不能の場合に、貸し手責任を問うて、自己破産を認めるのは、近代法の制度としては、割りと納得できるものなのだろう。さらに最近では破産者の立ち直りのために、その住宅などを残す制度は、なるほど債務者保護のあり方かもしれない。

これは本質的には、株式会社のような有限責任の組織を認めるかどうかとも関係している。東インド会社以前は、すべての商行為が基本的に無限責任で実行されていた。これが有限責任になったお陰で、大きな生産活動が可能になったとは、常識的には、よく言われている。が、僕は、果たして無限責任しかなかったとしたら、紡績や重化学工業、発電、鉄道敷設といった、大きな生産活動が不可能だったのか、については、ずっと疑問を持ってきた。

別に無限責任でも、勇気のある奴はやるんじゃないのか?? いや、無限責任のほうが却って貸し手も貸しやすくなって、産業が盛んになるんじゃないのか?? 

が、こういった可能・不可能からの視点とは、つまりは、厳密な効率(生産性の向上などに引き出すか)をどの程度損ねているのか、あるいは却って促進しているのか、というものだ。そうではなくて、望ましさの視点から見ると、おそらくは有限責任制度、現行の破産制度は、なるほど個人にやさしい。これらは、そもそも異なった論点なのだ。

というわけで、債務奴隷の禁止、有限責任の導入は、(少なくとも所有権論者からは)リバタリアンの多くが疑わしい制度ではないか? と感じていると思う。

けれども今回、ピンカーの著作を読んで、それらの変化が大多数人にとっての、心理的な厚生を向上させているという可能性が、強く意識させられた。

いろいろと考えさせられる。