kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

やさしい日本人 2

こんにちは。

 

先日は クソ酔っ払ってしまい、ポストがかなりイミフになってしまった、、、すいません。

 

さて、気を取り直して、補足したかったことを少し書こう。これに関連しているが、今日の夕方、友人つながりでフランス人の科学ジャーナリストスカイプで長話をしたこと。 その会話の一部は以下のような感じ

 

mises.org

 

彼、

「日本人は集団的だとか言われるけど、本当にそうなの? 学者としてはどう思う? どうして日本は20世紀に世界の軍事大国になったの?」

 

ボク

「一般に東アジア人は、ヨーロッパ人よりも集団的だと思う。セロトニントランスポーター遺伝子でも、ドーパミンレセプター遺伝子でも、個人的な活動よりも集団的な活動を好むことが示唆されている。軍事的な活動が得意なのは、戦国時代までに好戦的で、集団主義的な遺伝子基盤を持つ文化が維持されているからじゃないか。」

 

ヒト集団の進化が個人単位だけではなく、集団の単位でも、ある程度は生じてきたというのが、今はかなり主流となっている「Multi level selection =複層的・多元的な選択」の進化理論だ。この理論によれば、集団的な殺戮や戦争が多ければ多いほど、人間は軍事的・集団的になると考えられる。これは人格なんかでは、ある程度権威主義的であると言い換えても良いかもしれない。

 

 

パナソニックの話に限らないが、日本人は集団内の平等が極端に好きで、それは間違いなく、かつての戦争局面では役立ったからだろう。NHKなどはまったく描写しないが、戦国時代に負けた集団ではレイプは当然、奴隷にされた人もかなりの数に上っている。集団間の戦闘で負けるというのは、男にとっては致命的だし、女にとってもかなりの適応度の低下を伴っていた。こうした局面では、一致団結した集団で戦うことは、決定的に有利である。つまり戦国時代型の社会では、集団単位での適応行動が次第に重要になっていったはずだ。

 

しかし、現代の社会で、どれだけ集団主義が重要なのかはよくわからない。現代の複雑な分業構造では、個人レベルの生産物の価値が異なっているので、それを形式的に平等にするのは ムリスジのように思える。もちろん、会社レベルでの集団間の競争というのは存在するから、弱い意味では今も集団間の選択というのは存在していると言って良いかもしれないが、、

 

という話をまとめると、戦力外通告されたプレイヤーがいる野球チームなどの場合、そういう制度があるからといってプレイヤーがヤル気を失うということはないと思う。これは会社でも同じなはずで、いつかは戦力外通告されるという前提で働くほうが、人間の能力を考えると自然じゃないの? ということ。

 

野球では、各選手の成績がほとんどハッキリとわかるのに対して、会社員の能力や業績というのは、それほどにははっきりしていない。ここに形式的な平等の入り込む余地があるのだろう。とはいえ、アメリカの会社でも、個人の能力なんてはっきりしていないんだが、、、

 

という程度の話で、今日はおやすみなさいです。

 

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