kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

海賊の経済学Ⅱ

先日の海賊無政府主義のポストに対して、僕の旧知の友人が、

1,民主主義的に船長とクオーターマスター(分配担当者 かつ裁判者)が選ばれていたこと、

2,獲得物の分配格差が最大でも2倍に満たないのが普通だったこと、

3,黒人も自由人として扱われていたこと、

などの指摘は、本質的には「自由主義」ではなく、単なる「平等主義」であり、リバタリアンを名乗る僕がそういうことを賞賛しまくるというのはどうしたことか? との鋭い批判をしてくれた。



なるほど、よくよく考えれば、契約に基づく自由主義と入退出の自由というリバタリアンの思想からすれば、

4,海賊が自発的に合意する普遍法である海の憲法(charter)をもっており、それにしたがって分配を受け取り、裁判に従ったこと、

5,海賊になるのも、やめるのも自発的かつ自由だったこと、


だけが重要なはずである。それ以外は、結局は、現代の平等主義=左翼主義の理念でしかないだろうとの批判は受け入れなければならない。



おそらく僕も含めて、無政府を語る多くは、「本来の」無政府主義は平等でもあるはずだ、というような安直な価値観を、明示的あるいは暗黙的に持っているのだろう。僕自身にも、場当たり的ではあるが、他のことが同じであるなら、平等であるほうがいいだろうという感覚があるのは間違いない。


実際には、海賊の分配が平等だったのは、構成員の(戦闘)能力が平等に近かったからだ。リーソンも指摘しているように、海賊活動には資本は要らないから、労働組合による経営と裁判が行われていた。これは、海賊が資本が要らない、かつ専門知識による分業の少ない労働集約的な、200人程度の比較的に小さな集団だったためだ。


対して、現代社会は、特殊な能力にともづく、高度な分業が成り立っている。だから個々の労働者の貢献が著しく異なっている、現代企業の効率的な統治形態としては、この従業員民主制を期待することはできない。


現代社会で所得の格差が大きいのは、企業活動というテコの存在によって、かつてなら小さな違いしかなかった能力差を、大きな所得格差に拡大するシステムがあるからだ。それは間違いなく、かつての小さな海賊社会では存在し得ない性質のものだ。

なるほど、僕のレビューはリバタリアンとしてはおかしな文章を含んでいた。とはいえ、海賊のような犯罪者集団でさえも「脅迫と暴力によってのみ秩序を維持していた」というホッブズ的な世界観が成り立っていなかったのは、強調されねばならない。海賊行為はたしかに特殊な領域ではあるが、移転退出の自由があった。それだけで、十分に「契約」だけでも秩序を保って活動していけるのであって、強制力の体現者たる政府は必要なかったのだ。


なぜ現代社会では政府が必要なのか? 集団が大きくなりすぎて能力差とそれに伴う所得格差が激増したため、社会不安が起こる。それを強制力を使って秩序を持って維持する必要があるからなのか? あるいは人々は政府という強盗団からの自発的に入退出を選べないからか? 僕は主に後者ではないかと思っている。