さて、合理性についてさらに追記。あるいは哲学じみた読者に(←いるとも思えないが、)言いたいこと。
合理性には、何らかの「目的」に応じた活動という概念が必要になる。もし、人間の個体が「DNAの複製を目指すヴィークル」であることを仮定しないとしよう。この場合、昔からの哲学よろしく、個体にはどんな目的でも可能になるし、その目的に応じて、活動の合理性も判断できるだろう。
一般的に美しい容貌を持つ個人が好まれるのは、そうした人間が配偶者として望ましいというDNAからの発生 → 大脳のニューロン配線のハードウェアというレベルでのプログラムによる。
さて こうしたプログラムがソフトウェアでしかなくて、すべてを書き換えることができるというのがロック的なタブラ・ラサ仮説である。もちろん、これはロックと、その時代の希望を含んだ仮説だったが、素朴な形では、これは明らかに誤謬だ。
- 作者: リチャード・ドーキンス,日高敏隆,岸由二,羽田節子,垂水雄二
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- 発売日: 2006/05/01
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タブラ・ラサが誤りだとはいえても、程度の問題はまったく良く分からない。実際に、どの程度 さまざまなハードウェア的なプログラムが、後天的なソフトウェア的な書き換え、つまり教育で変化できうるのかは、未知だからだ。
例えばヒトは遺伝的に糖や脂肪を好むが、ボディビルを愛するような男は、そうした嗜好を自らの意思で乗り越えて、(まずい)プロテインを主食としている。とすると、ある種の個人は、あらゆる偏見を乗り越えることもできるように思われる。
これはある個人の、ある種の特性に関しては、明らかに正しい。ちょうどカルトにはまる個人がいるように、どんな変な考えでも、それに感化されるような人はいるものだ。
しかし科学者のほとんどは、こうした話は昔のSFに出てくる人間改造の類であると考えて、全人類レベルでは実現不可能だと考える。おそらく、可能だと考える人は、啓蒙主義の哲学者の生き残りと究極の左翼、マルクス・レーニン主義者だけだ。もしそういう人がいたら、なぜ自分が(誰か自分の好きな)アイドルに好感を持つのかを自問自答すべきだと思うが、一般にカルトの平等主義者というのは、そういった自分の偽善性については、都合よくスルーしているようだ。
ダーウィン以前の社会科学・哲学であれば、どういった考えでも、「偏見」の名のもとに望ましくない、それは無意味だから理性の光でその闇をenlightenすれば、なくなるだろう、と断言できた。しかし、これまでの生物学・遺伝学の進歩を直視すれば、そうした人間の無限の可塑性の神話は、おとぎ話でしかなかったことがわかる。
では、どういった価値判断なら現存の遺伝子プールから可能になり、どういった価値判断はカルトとして維持不可能なのか?? この話には、オチがない。これは、ボクの究極の問題意識であり、このサイトの意義でもあるので、また考えてみてほしい。
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