ジョン・ロールズは「無知のヴェール」という概念を使って、再分配主義を肯定した。
もし、自分が生まれ落ちる才能や環境を選べないとするなら、リスク回避的な(合理的)個人は、平等主義的な社会に生まれることを望むだろう、つまり平等主義的な社会は望ましいのだ、というわけだ。
僕はこの議論はそれなりに説得力があると思っていたが、リスク回避的な人間が、本当に所得の平等度の高い社会を(功利主義ではなく、正義として)望むのかどうかについては、何かの議論を聞いたことがなかった。
つまり、リスク回避的な人間は、「自分が生まれたくないからジニ係数の高い社会を不正義だとする」のではなくて、「自分が生まれない、関係ないとしても、ジニ係数の高い社会は不正義だと感じる」のかという問題だ。
北大の犬飼教授は、リスク回避的な個人は、自分が別の人たちへの償金の分配を決めることのできる擬似dictator gameににおいても、より平等な分配を行う傾向が強いことを報告していた。僕が初めて知った、存在と当為についての心理経済的実験結果だった。しかも、なるほど、そうだろうな、という結果でもある。
どう考えたものか??
ノージックは、ロールズの無知のヴェールの向こうにいる「個人」というのは、あまりにも無個性・抽象的であり、およそ意味を成すかどうか分からないという批判をしていたと思う。
僕もこれに賛成で、そもそもリスクを取って成功する人間は、社会にでる前から、おそらく平等という価値を高く評価していない。リスクをとらずに人の成功を再分配スべきだという人の多くは、そもそも社会に出る前から、再分配を当然視している。
結局、僕がロールズに納得できないのは、人間は多様だということだ。生まれながらにリスクを愛好して、一財を成す紀伊国屋文左衛門のような、人もいる。なぜ、最初からリスク回避度の同一性を、社会の構成員に仮定するのか?
それは無理というものだろう。実際、危険を愛して、成功する人はいる。そうした個人に対して、ロールズ流の議論は、多数の選好の少数者への押し付けでしかない。
ザッカーバーグのようにIT長者の創業には、リスクはつきものだ。どういう理由でそうした個人を賞賛しないで、税金を課そうとするのか? そんな有様では、日本には起業へのインセンティブが少なすぎるだろう。