kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

神聖化は議論をspoilする

こんにちは。

 

ある権利が不可侵な人権であるというとき、では、そもそも「人権」とは何か? という問がたてられます。

 

Moral Tribes: Emotion, Reason and the Gap Between Us and Them

Moral Tribes: Emotion, Reason and the Gap Between Us and Them

 

 

グリーンによると、「人権」とは、個別の権利を集合的に神聖化したものです。たとえば、「自由権」と呼ばれる基本権は、信仰の自由、良心の自由、移動の自由、その他が一体になって保障されているものだと考えると分かりやすいでしょう。多分 「人権」というほどの強い響きのある言葉には、すでに「不可侵性」が組み込まれているのです。

 

そしてグリーンは、「あることが(神聖なる)人権だと主張することは、それ以上の議論を受け付けないという意味で、話し合いの打ちきりになる。そのため、功利主義の原則からすると、特殊な価値の神聖化であるために許されない」と言っています。例えば、(アメリカでは重要である)中絶の問題は、「女性の中絶選択権 pro-choice」と「子供の生存権 pro-right」という権利同士の戦いになると、本質的にがっぷり四つになって、論議には収集がつかなくなります。結局、どこかで、「権利」が保護しようとする2つの利益を相対化して、折り合いをつけるしかない。

 

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さて今日の本題に入ると、ボクはリバタリアンだが、功利主義帰結主義者です。これが何を意味するのかというと、(自己)所有権を最初に絶対視することで、演繹的に論理を構築して、それによって自由の価値を養護するわけではないということ。(それらが一致すれば望ましいとは思います。これは次のポストで考えてみましょう)

 

おそらく(ロスバード的に)自己所有権からスタートして論理を構築して、無政府主義を標榜するほう方が、ユークリッド幾何学と同じく美しい。そうした社会哲学には、審美的な徳があります。でも、もし例えば、そうして得られた自由が、「豊かさ」と両立しない場合には、妥協点がまったく見いだせない。

 

中国が未来に自由はないが、より豊かな社会(全体主義のアリ型社会)を作ったときに、どう評価するのか? 西洋人の作った自由を認める社会とどう比べるのか? 

 

これに関して、おもしろい記事を見つけました。それも含めて、さらに考えてみましょう。

 

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