先日Sacred なものについて書いたが、そういえば、この前の話では、人権や権利について思いついていなかった。
よく知られていることかもしれないが、厳密な功利主義からすると、人権は神聖なものではなくて、単なる制度上の便宜になってしまう。人権という実体があるというよりも、そういうふうに取り決めることが、社会的に多くの幸福を実現するのだ、というわけだ。
この抽象的な説明について、もっともわかりやすい例は、徹底した功利主義者であるピーター・シンガーが問題提起した例だと思う。無脳症の人間と、チンパンジーのどちらかを殺さなければならないとするなら、どちらにするか? というものだ。
「人権」が神聖だというなら、チンパンジーを殺すしかないだろう。反対に、功利主義を徹底するなら、痛みを感じないと考えられる無脳症の人間を殺すほうを選ぶことになる。
この説明のためにシンガーは多くの中傷を浴びてきた。良くも悪くも、この問題設定はlaser-sharp な論理の典型で、印象深いくらいに明快だ。
確かNosikが言っていたように、「人権」の概念を、功利主義に対する横からの制約として存在すると考えれば、こうした功利主義の欠缺を埋めることができるんじゃないだろうか。(間違えてたら、どうもすいません。)人権概念の導入で、こうしたiregular(あるいはsigularityと呼ぶべきか)な問題状況への現実的な解決法になるのかな、とtentativeに感じている。
僕はこのことについて考えるたびに、自分が帰結主義的なリバタリアンであることを痛感する。所有権も含めて、人権とは、実在ではなく、そういった取り決めをすることがtransaction cost その他を含めて、結局は一番効率的だと思っているのだ。
とするなら、やっぱり僕のなかでは、神聖なるものは存在しないのだろう。