kurakenyaのつれづれ日記

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メタ倫理学は興味深いが、、

今さら「入門」もないのだろうけど、ちょっと調べたいことがあって、久しぶりにメタ倫理学の本を読んでみました。この本は、ヘアの道徳哲学についての著作のある佐藤岳詩さんによる概説書。

 

とても良くまとまっていて、道徳哲学の学説をとても理解しやすい教科書です。オススメです。

 

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

メタ倫理学入門: 道徳のそもそもを考える

 

 

 

 

 

さてこの本はすばらしいものなのですが、それとは別にここでは哲学への苦情を書いてみようと思います。

 

 

道徳規範の哲学的な探求、認識論については、古典的な実在論からはじまって、実にいろいろな考えがあります。本当にいろいろというべきなのですが、そうした学説、いや認識論哲学全般に対して昔から感じてきたのが、「人間の個体的な認識・意識」を出発点として重視しすぎだという点です。

 

 

はっきり言って、ほとんどが現代的な意味での、自然科学的な世界観・人間観と整合的ではない。

 

 

違和感1.

 

例えば、「道徳規範が外在的に実在する」という命題について考えてみましょう。そんなことあるはずないじゃないか! と即座に思います。少なくとも、意識的な存在である自分と同じように家族、友人、他人たちが存在していることを前提として、さらにそれが進化の結果として生じた個体群だとしましょう(現在の常識的な科学的理解)。

 

 

すると、倫理規範が どこか人間の神経系と別に外在すると考えるのは、(神の実在と同じくらいに)バカらしく無意味な考えです。

 

 

つまり自然科学の視点からは、人間の道徳なんてヒトという種に固有の、相対的なものでしかなく、単に個体の活動に対する命令だということになります。(こうした考えは、道徳哲学では「道徳規範の司令主義」と呼ばれていますが、かなりマイナーな説です。なんで??)

 

 

脳内の道徳回路の形成には、個人によって個性もあれば、その強弱もあるはずです。例えば、トゥレット症候群なんかでは、意図しないうちに卑猥なジョークなどを発するという脳神経回路の異常を生じます。こういった特定の脳機能の異常は、特定の部位が損傷した際に発生することが多いのです。

 

 

サイコパスなんかは、おそらく共感の回路の形成が弱いか、持たないために、道徳哲学者の想定していない人格を形成しています。それは異常なのではなくて、おそらくヒトの行動戦略にはそうしたものもある、ということなのでしょう。タカハトゲームの裏切り戦略を採る個体です。

 

 

違和感2.

 

道徳哲学者のほとんどが、現代風の人間の道徳に普遍性があると信じているようなのもフシギです。ヒトラーサイコパスで、ユダヤ人虐殺をして邪悪だ、みたいなことがあたかも当然の普遍的な命題のように書いてあるのですが、これも正直ボクには良くわからない。

 

 

もちろん、現代の常識的な倫理観からはそう言えるのでしょうが、アレクサンダー大王や、あるいはユーラシア大陸で、少なくとも500万人を抹殺しつつ大帝国を築いたチンギス・ハーンが、果たしてヒトラーよりもマシな人間だったのかは良くわかりません。

 

 

アリストテレス奴隷制を肯定しているし、女には魂がないとか言って差別を肯定しています。おそらくネロやディオクレティアヌスのように大迫害をするのも、あるいはユグノー戦争なんかの宗教戦争で、対立する宗派を虐殺するのも、むしろ当時は賛美されているように思います。少なくとも、非道徳的・非人間的というわけではないでしょう。極めて人間的です。

 

 

結局、ヒトラーは20世紀の人だから、現代の基準という色眼鏡で判断しているだけのことで、他民族の大虐殺と大帝国の建設というのは、遠い昔からの人間の常識的な活動です。(望ましいと言っているわけではないですよ。念のため。)

 

 

違和感3.

 これは1の規範意識の個人差を考慮していない、という話の拡張なのですが、チンパンジーなら、チャンスがあればリンチで他集団のオスを殺すのはおそらく当然。ゴリラやトドなら一夫多妻制は当然。他の生物種でも、かならず固有の行動ルール=規範を持っているはずです。なんで 現代の人間(それもヨーロッパ基準)のものが普遍的なの??

 

E.O.Wilsonが「社会生物学」で1975年に書いているように、アリの社会の道徳規範であれば、生まれながらのカーストが当然で、あるいは太陽を嫌うような、人間とは完全に相互理解が不可能な倫理規範を持っているはずです。

 

 

人間にだってmicro differenceがあるはずです。例えば、アジア人は老人を尊敬するという孔子の教えが正しいと直感しているようだけれども、ヨーロッパ人は比較的そういうことを道徳だとは感じていない。こうした価値観の違いには、おそらく神経基盤の違いに対応しているはずです。

 

 

違和感4.

 

おそらく近く登場するロボットにしても、認知・行動プログラムに応じて違った「個性」、あるいは「道徳性」を持っているように感じられるはずです。だって、自動運転車はもう自律活動をするロボットと呼ぶべきですが、テスラとボルボメルセデスでは、だいぶ異なった自動運転=外界の認識+判断プログラムを組み込んでいるからです。さらには、一体、どの段階の認知力で、ロボットは自己認知して自我・自己意識を持つように、あるいは持っていると呼ぶべき状況になるのか?? 

 

 

なんと言うんだろうか、つまりボクの感じる哲学者への違和感というのは、その高い抽象性・論理性とかではなくて、むしろ他の生物行動への無知・無関心、あるいは脳機能障害を始めとした生化学的・医学的な知見の無視、さらにはプログラムを含むロボット工学の進展などへの無知・無関心なのです。

 

 

古代から続く哲学的な探求は有意味なものであって、まったくムダなんかではないと思います。それは知的にとても有意義だと思っているのですが、それはそうとして、もっとモダンに思索を前進させてもらいたいです。

 

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