kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

Logically equivalent is NOT equivalent !?

寝酒の飲み過ぎで昼間っからヤル気がなくなっているので、ちょっとshorebirdさんの、「群淘汰」概念についてをダラダラ読みしていた。話題は、ピンカーのEdge 上で展開された、最近増えてきた群淘汰論者への批判と、その反論としてD.S.ウィルソンによる擁護だ。


http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120714#1342252016



いつもながら、shorebirdさんは真の科学者らしく非常に詳細かつ入念な検討を加えている。酒ヤケしたボケた頭にはキツいが、またしても痛感したことがあるので、以下に書いてみよう。


まず、論理的な前提として重要な事実は、ハミルトンによる包括適応度の概念提示によって、それまで集団間の淘汰であると考えられてきた多くの行動が、単なる近親個体へのヒイキでしかないことが理解されるようになった。さらに、互恵的な利他行動の概念は、それまでの利他行動だと思われていたものが、あえて言うなら「延長された利己行動」であることを明らかにした。


古典的(ナイーブな)意味での群淘汰は、理論的には起こりえるが、現実には条件が厳しいので、ほとんど起こらないし、起こっても来なかったというのが、コンセンサスだ。しかし、群を血縁個体群、互恵的な個体群と解すると、理論的には、包括適応度の概念は、これらの(洗練された:新しい)群淘汰と等価になる。


さて、ここまではいいのだが、ピンカー(shorebirdさんも基本的に同じ意見:僕も基本そうではあるが)は、「二つの理論が等価であるなら、群淘汰という言葉を持ち出す必要はない」という、科学的に正論に打って出ている。


なるほど、そのとおり、、、、


と思う人もいると思うし、ピンカーやあるいはshorebirdさんのように、科学者としての素養が高く、論理的であればあるほど、そうだろう。しかし、実は それは違う! というのがミソなのだ。


論理的に同じものであっても、特定の言葉の持つ他の概念や象徴・言葉とのリンクのニューラルな頻度と、そこから生じる言葉の道徳的な響きが違うのである。


おおまかに言えば、「包括適応度=利己的遺伝子=自分勝手、利己的個人」であり、「群淘汰=利他的個人=道徳的個人」となる。勇敢な戦闘行為などを説明する際に、包括適応度を持ちだして、利己的遺伝子を語るヤカラは、そもそも個人的に利己的なのであり、反対に、集団の利益を持ち出す人は、道徳的に優れた利他的な人なのだ、と感じられるのが一般人(あるいはシステム1)なのだ。そこに論理学的な等価性を持ち出すのは、まさに科学であり、論理であり、システム2なのである。


結論:D.S.ウィルソンを始め(道徳心理学者であるハイトなどを含む)、グループ淘汰という名称にこだわる人たちは、少なくとも黙示的には、自分の道徳性の高さをアピールしようとしている。おそらく、人はそういうふうに自分を正当化したくなる心理機構をもっているからだ。


多くの道徳心理学者が明らかにしているように、人間の知覚能力は客観的に正しいことを認知するために進化したのではない。そうではなくて、自分の世界観が正しいことを他人に説得するために進化してきたのだから、これは当然だともいえる。


ほとんどの人は、科学者としての世界観の表明と、日常の政治的な世界観の表現には、無意識に異なった言葉セットを使い、生活の安逸を選んでいる。利己的な遺伝子を語れば利己的な個人だと避難されるし、経済学を専門にすれば金儲け第一主義者だと思われ、人間の知的運動的なポテンシャルが違うといえば差別主義者になり、ゲーム理論を研究すれば道徳を持たない人間だとされてしまう。そうした理解は普遍的に存在している。


バカらしい話だが、誰もがrightous な存在でありたい。残念ながら、客観的な真理というのは、冷たく難解に過ぎる。だから、ポストモダン構造主義哲学に端的に現れているように、一般の人にとっては、言葉遊びに翻弄されることになるのだ。


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