kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

規範の個人超越的な価値

Steven Shavell の「法と経済学」の翻訳本を読んでいる。先日一橋大学森村進さんから、良いテキストだと勧められたので、僕も一度読んでみようかと思った次第だ。1万円と非常に値段が高いが、しかし法律の本や教科書の多くが高いので、内容の良さを考えると、たいへんリーズナブルとも言えるかもしれない。ちなみにShavellは著名な研究者で、多くの優れた論文がある。


読んでみて、ひじょうにわかりやすいのに驚いた。今日は内容についてはさて置いて、ひとつだけ書きたいことがある。それはこの本の社会哲学的な基礎付け部分を読んで、功利主義、あるいは厚生経済学的な考えと、多くの法学者の感じる規範論の違いについて、よくよく再考させられたことである。


功利主義は、社会を構成する個人の効用の(増加)関数として、社会効用関数を考え、それを最大化するべきだというふうに考える。個人個人の(道徳観を含めた)効用が、そしてそれらのみが社会の望ましさの判断基礎となる。


これとは異なって、多くの道徳理論家、あるいは法哲学者は、個人の効用から独立した価値が、各種のルールそれ自体に存在すると仮定している。例えば、「契約は順守されねばならない」「人を殺すなかれ」というルールは、それらが実現していない場合に各人が感じる不快さとは別に、人々の心理には反映されない独自の社会的価値を持っているというわけだ。これをここでは、超越論的な規範の価値とでも呼ぼう。



この違いは僕も長い間それとなく考えてきたことだが、長々とShavellが議論しているので、僕自身もここで感じたことを書きたくなった。


まず、仮に個人が出発点ではなく、社会のあり方やルールそのものもまた社会の望ましさの出発点に成りうるとするなら、もちろんそういう考えは、方法論的個人主義ではない。超越論的しな規範の価値を信じるというのは、まさに規範の果たす社会的な役割とは無関係に、規範自体の価値について考察し得ると考えているのだから。


おそらくそういった考え方そのものが、実に人間的、道徳的、あるいは規範的な発想だ。しかし、例えば、多くの動物では、まったく異なった行為体系と、おそらくは倫理体系があることを考えると、そういう物質を超越した価値を信じるというのは、本質的にまさに宗教的、非合理的だ。


エドワード・ウィルソンは常に、アリの社会の道徳が、ヒトの道徳と決定的に異なっているはずであることを指摘して、社会科学の再構築を迫ってきた。進化が規範(の基礎)を作ってきたのであって、規範は各生物個体のニューロンと独立に外在しているわけではない。

しかし、道徳理論家は規範の価値は超越的だと主張する。宗教でもそうだが、そういった態度は、トリヴァースの指摘する自己欺瞞によって実現し、かつE.ポズナーが指摘するように、はったりゲームでの均衡戦略となる。多くの宗教は、宗教の意義の科学的な分析の価値を否定するが、それは法学が、法律の意義の科学的な分析の価値を否定する、つまり「法と経済学」を否定するのとまったく同じなのである。