kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ベキダ⇔デアル、3章

3、デアル>ベキダ:道徳規範

利他性をめぐる議論
 前章では、犯罪と呼ばれる、誰にとっても明白な悪行について考えた。犯罪は究極の利己行動であるため、その抑止のために、どの社会でも犯罪者には罰が科される。人々は社会内の規範を共有しており、犯罪行為から得られる利益を減らすために、犯罪者への積極的な加害行為を懲罰として与えることに合意しているのである。
 これほどまでの特別な取り扱いは、犯罪行為が「あまりにも」利己的な行為だからである。これに対して、社会規範の中には、隣人、あるいは社会内の他人に対しても「利他的であれ」というようなものや、「困った時には助け合うべきだ」などといった程度のものがある。これらは、犯罪の禁止規範などに比べると、はるかに緩やかで、状況についても曖昧なことが多く、そして強制的な罰則を伴わないのが普通である。
 こういった道徳は、だいたいが「利他的であるべきだ」という行為規範に集約されるのではないかと思う。ここで、利他的であるというのは、「自分の利益を犠牲にしても他人の利益を増進させる」というほどの意味である。
 素朴に考えれば、自分以外の他人の利益になって、自分の利益にならないような行為を促す遺伝子があったとしても、地質学的な時間をかけた進化の流れの中で、消滅しているはずなように感じられる。これを受けて、ダーウィン主義を熱烈に擁護し続けたハックスレーを始めとして、19世紀の前半までのほとんどの進化論者たちは、人間の道徳は幼少時からの絶え間ない社会化によってのみ、形成されると考えてきたようだ。
 今でも、多くの世俗的な見解では、道徳というのは利己性を抑えるような教育によってのみ体得されるものだというものが多いだろう。だからこそ、犯罪や社会規範の低下を憂える人々は、その対策として道徳教育などをすぐに持ち出すのだ。
 しかしこの点について私は、道徳教育の効果を完全に否定するというほどではないが、特段の必要性を持つとは思っていない。なぜなら、現代社会では他に覚えるべき重要な科学知識が爆発的に増加している反面、道徳教育を座学として行ってもほとんど効果は上がらないと感じるからだ。
 私は、利他行動もまたある程度生得的なものであり、それほどには各種の学習の影響を受けないのではないかと考えている。上述したサイコパスの存在のように、価値観や当為概念であるベキダを人に教育するということは、特に難しいことであることを示す状況証拠もある。
 以下に、利他行為をめぐる道徳について、進化生物学で主流となる理論を簡単に説明してみたい。ここで指摘しておきたいのは、道徳理論は犯罪とは異なって、もっと緩やかな規範であるということだ。
 犯罪行為では、加害者が被害者とはなんに関係もないままに「場当たり的に」被害者に存在を与える。これに対して、道徳的な行為のほとんどは、相手との関係はすでに存在していて、その状況でどう行動するのかということになる。共同行為の一方は、相手を選ぶことができるという意味で犯罪行為とは異なっているし、また共同行為が相互の裏切りになるという最悪の帰結でさえも、単に投下した時間やエネルギーを失うだけで、犯罪行為ほどには大きな被害が生じることはない。
 このことが、社会破壊的な犯罪に対しては強制力を通じての懲罰が必要であるが、その反面、単に非生産的であるに留まる非道徳的な行為に対しては、その後の共同行為の拒絶という弱い意味のサンクションで十分だと人々が考える理由であろう。


血縁選択説
 生物の行動を考える際に、最も基本となるのは個体行動である。そこで、個体の行動が自分の利益を促進する場合は利己的行動であり、自分に不利益でありながら自分以外の利益になることをするのが利他的行動であると定義することにしよう。
 すると、あら不思議、自然界ももっとも頻繁に見られる行動の一つである、子育てが利他的な行動であるということになってしまう。親が子供を育てるのはあまりにも当たり前である。そのため、育児が利他的な行動であり、説明を必要とするということ自体が、ウィリアム・D・ハミルトンによる一九六四年の論文まで、見過ごされていたのだ。
 ハミルトンは、個体を造り出した遺伝子の視点から見ることによって、どの個体に対する利他行動が進化するはずであるかについて考察した。通常の生物は倍数体と呼ばれ、一対の染色体を両親から一つずつ受け継いでいるため、親との遺伝的な共有度(血縁度)は2分の1である。親が子供を育てるのは、遺伝子的には、半分の自分を育てるということに等しいため、能率は直接に自分の利益になる利己的な行為よりも悪い。
 しかし、子供は幼少時に世話を必要としており、親が子の世話をする労力は自分を不利にするが、それ以上の利益を子供に与える。そして、親が子供を養育するのは、基本的に親が先に成熟して能力が高いからである。この点、きょうだい間の血縁度も親子と同じく2分の1で同じである。このため、親の代わりに上のきょうだいが下のきょうだいの世話をするということも、多くの種でごく自然にみられることが理由づけられる。
 もっと一般的には、利他行動についての「ハミルトンの法則」によれば、

     個体への行動のコストC < 血縁度R X 行動の受益者の利益B

が成り立てば、その行動は進化すると考えられる。例えば、3人の子どもを救うために親が自分の命を投げ出す行為は、Cが1であるのに対して、血縁度は0.5の3倍の1.5であり、その利益は1.5となるため、適応的な行動であるといえるのだ。
 アリやハチなどの社会性昆虫は特殊な遺伝をしており、そのオスは半数体と呼ばれて、生まれてくるメス同士の血縁度は4分の3になる。当時は、この繁殖様式によって決定される血縁度の高さ自体が、社会性昆虫においては女王のみによる繁殖を説明するのだと考えられてきた。彼らの社会では、女王以外のメスはワーカー(不妊カースト)となって、女王の世話、卵や幼虫の世話をするのみで、自分では繁殖はしないという真社会性(eusocial)と呼ばれる生物なのである。
 この理論が正しいとするなら、きょうだい間の近縁度が0.5になってしまう(倍数体である)哺乳類では、真社会性の動物はいないのではないかということになりそうだ。しかし考えてみると、ゴキブリに近いといわれているシロアリは倍数体の昆虫であるにもかかわらず、不妊カーストがいる。つまり一般論として、血縁度が高い集団を作って生きるのであれば、不妊カーストは進化しうるのである。
 実際、90年代以降の研究では、アフリカの地中にすむハダカデバネズミは、一個体のメスのみが繁殖し、その他のメスは子供を協力して育てる真社会性動物であることが報告されている。ハダカデバネズミの群れの血縁度をDNA検査して調べたところ、78%であったという。これはハチやアリの75%を超えており、おそらくこのような高い近親性が、彼らの特殊な生活様式の基礎となっているのだろうと考えられている。
 さてこの血縁選択、あるいは血縁淘汰説がベキダに与えている影響は、少なくとも現代の日本ではそれほど大きなものではない。誰でもそれなりに自分の子供を育てるのは当然の義務だと感じているし、ほとんどの親が毎日実行していることだからだ。
 とはいえ、まったく道徳感情と関係がないとまでは言えないだろう。子供の養育を遺棄する親はいるし、特に父親が養育にかかわらないというのは離婚後の母子家庭ではかなり普通なようだが、そういった行為はそれなりに非難されてもいる。
 子供の養育に資源やエネルギーを持ち出さない親は、なぜ非難されるのだろうか?おそらくは、親の養育を十分に受けられない子どもは、物質的にも精神的にも満ち足りないため、反社会的な逸脱行動に走りやすく、それが社会の他の構成員に負担をかける可能性が高まるからなのだろう。あるいは、親以外の遠い親族が世話をすることにでもなれば、彼らにはもっと直接的な不利益があるとも考えられよう。
 すべての親が子どもの養育に責任を持つ社会のほうが、そうでない社会よりも(当の親以外の)誰にとっても望ましいことは間違いない。今後の日本では、離婚とそれに伴う父親の養育放棄がもっと頻繁に起こるだろう。とすれば、日本でもアメリカと同じように「父親であること」から生じる養育義務を、人間的な道徳としてもっと強調する時代が来るのかもしれない。


互恵的な利他行動
 親子やきょうだいよりも遠い血縁関係にある個体への利他行動は、人間の場合はネポティズム(親戚びいき)と呼ばれるが、これは通常は利他的な行動だとはみなされないようである。血縁度についての理論を構築するはるかに以前から、人々は、親戚というのは延長された自分自身であるという直観的な感覚を持っていたからだろう。
 よって普通、人間が利他的な行動という場合、親戚ではない人に対する利益となるような行為をさすことになる。おそらくは、隣人であるか、あるいは地域社会の一員、あるいは会社などの同僚だろう。当然、これには組織を共にしない友人も含まれる。
 倫理規範では「利他的であるべきだ」と抽象的に表現したとしても、それは誰に対してもというよりは、互いに助け合えるような人に対してであるということが普通である。隣人や知人と互いに助け合うことができれば、食べ物の一時的な欠乏や病気などのリスクをどれだけかヘッジすることができるからだ。
 こういった互恵的な利他行動というのは、ある種の黙示的な契約であり、そう考えれば、それが履行されなかった場合の怒りというのも納得できる。キリスト教でいう隣人愛のような理想的で完全な利他行動であれば、そもそも相手が助けを返してくれなくても、それに対して怒りを感じることはないはずである。
 こういった互恵的な利他行動は、すでに一九七一年にアメリカの進化生物学者ロバート・トリヴァースによってヒトを含む動物一般に当てはまることが示唆されている。その後、人間以外のいくつかの動物で互恵的利他行動が報告されている。
 もっともよく知られているのは、南米アマゾンのジャングルに生きるチスイコウモリの例である。チスイコウモリはウマやロバ、ヒツジなどの大型動物の肌を噛み破って、そこから吸血することで生きている。血液は栄養価の高い食べ物であるが、獲物となるような動物から、十分に多くの血液を吸える日ばかりではない。チスイコウモリは2,3日の間、食事が取れない場合には、餓死の危険に直面することになる。
 十分に血液を吸った時には、ねぐらを近くにする個体に血を吐き出して分け与える。そして、自分が十分に採食できなかった別の機会にそのお返しをしてもらうのである。個体識別が発達したコウモリは、過去に血を分けてくれなかった個体に対しては、相手が飢餓に瀕している場合でも血を分けてやらないことが報告されている。
 この例でよくわかるように、互恵的な利他行動もまた、純粋に利他的というよりも、共同でリスクを減らすための利己的な利益にそった行動であると考えられるだろう。ここで重要なのは、相手がお返しをしてくれる個体なのか、あるいはくれない個体なのかを知ることなのだ。
 

評判の意義
 ヒトが社会性動物であったことは間違いないから、数百万年以上も昔から、狩りや採集などでの共同作業をしていたはずである。獲得した成果を分け合うとするなら、自分は手抜きをして働いて、他人にはきちんと働いてもらうのが自分にとっては都合がいい。だが、これは誰にとっても同じ状況だ。
 完全に他人の活動を監視することはできないから、ある程度は他人を信頼して、自分に割り当てられた活動に励むしかない。ここでは手抜きをすること「サボリ」と呼び、全力を尽くすことを「マジメ」と呼ぼう。ここでの状況は、以下のように表わされる。


                サボリ        マジメ


  (0、0)

 (−4、6)


  (6、−4)


  (5、5)


 Aの行動戦略は上に書かれた「サボリ」と「マジメ」であり、Bは左に書かれた「サボリ」と「マジメ」である。ここでは、AとBの2人がひと組にならないと狩りができないとしよう。両者が一日に10の労力を出せば30の収穫があがり、各自の利益は収穫の分け前である15から労力の10を差し引いた5となる。
 しかし、一方が怠けて、片一方がマジメに働いた場合には12の収穫が上がり、それは等分されるので、結局怠けたほうは6を得て、マジメな方は−4を得ることになる。双方が怠ければ、収穫はないし、労力も投下されていないので、両者が0を得る。
 これは、両者が異なった場所で、異なった役割を果たす場合、例えば、一方が獲物を追い出し、もう一方が谷の向かい側で待っていて捕獲するような場面だと考えればいいだろう。二人ともがマジメにやれば、二人の総利得は10となって望ましいのだが、一方がサボることによって、サボった方はより多くの利得を得る。相手がさぼった場合も、自分もサボる方がマジメにやるよりも良い。
 こういった狩りを一度だけするのであれば、相手がサボろうが、マジメに働こうが、自分がサボリを選ぶのが有利になる。つまり、双方がサボリを選ぶことが安定的なナッシュ均衡となってしまう。
 このゲームは「囚人のジレンマ」と呼ばれ、ゲーム理論家がもっとも重視するものである。それは両方のプレイヤーにとって、相手の行動にかかわらず、相手との協調行動をとらないことが有利になる。しかし、両方が強調すれば、はるかに大きな利益を双方が得るという特質をもっているからである。
 このゲームを行うのが一度だけであるとするなら、サボりが有利になることは先の利得表から、定義によって間違いないことになる。しかし、ヒトの人生は十分に長く、多くの共同作業は反復されて行われることがほとんどだろう。
 囚人のジレンマ・ゲームでは、1980年代から、ミシガン大学政治学者であるアクセルロッドによって、何度もコンピューター・プログラムを使ったトーナメントが行われている。そこで安定的に強いのは、「しっぺ返し(tit for tat)」と呼ばれる戦略であった。
 しっぺ返しは、まず相手に対して協力的にふるまうが、相手が協力しない場合には、その次の回には協力しないことによって、相手を1度だけ罰する。その後、相手と再び協力しようとし、相手も協力し続ける限り、協力をし続けるというものだ。
 非常に簡単なルールであるが、しっぺ返しは、我々のもつ倫理の多くを体現している。

1、まず相手を信頼する。
2、相手が裏切るのなら、それに対しては罰を与える。
3、相手が協力的なら、自分も協力的であり続ける。

これらはすべて、我々の基本的な道徳観と一致するものであることは興味深い。そしてこれほどに単純な戦略が強力であるというのは、ほとんどの研究者にとって意外なこととして受け止められたのだ。
 最近のこの種のトーナメントでは、異なったプラグラムと対戦する時には、そのプログラムの過去の行動をモニターすることができるようになっている。過去に協力してきたかどうかによって、相手の「誠実さ」を測り、その予測値に応じてこちらの対応を変えるのである。これによって、相手が誠実なタイプであれば協力的に振る舞い、裏切りを多くするようなタイプであれば、用心して、安易に協力行動をとらないという、もっと複雑な行動戦略が可能になる。
 これはちょうど、クレジットカード会社や消費者金融会社が、消費者と契約するかどうかを決める際には、過去のクレジット・ヒストリーを参考にするようなものだ。実際、過去に自己破産していればクレジット・カードを持つことは難しいが、それはクレジットカード会社からみると、カードを使わせることのリスクが高いからだ。
 現代社会では、こういった「評判」の多くはデータベースの中にデジタル情報として蓄積されていることが多い。しかし、ヒトが進化してきた環境は、せいぜいが数十人程度の部族社会である。そこでは、各人の評判はほとんどの構成員によって共有されており、正反対の評価や、あるいは参考になる情報がないということはなかっただろう。
 噂は個々人の人格についての情報であり、そのために人々はこんなにもウワサ話が好きなのだろう。そういった情報には、誰を信じるべきか、誰を信じないべきかについての、大きな価値があったと考えられるのである。
 評判の価値の高さについては、現代社会でも重要であり続けている。
 世界の大企業の経営者の多くは他の会社から転職してきているが、それも必ずしも同じ業界からではないことが多い。しかし、彼らは全員、過去の職業的な実績において、高い経営能力を持っていることを証明してきている。だからこそ、大きな上場企業の経営を40歳代の若さで、株主から任されるのだ。
 特殊な分野でベンチャー企業を興す場合でも、その道ではすでに評判を確立した人の場合は、資金も集まりやすいし、多くの賛同者を得ることも容易だ。シリコン・ヴァレーには、大企業の技術者からヴェンチャー企業を興す人が多いが、その理由は過去の実績があるためだろう。
 あるいは、学歴偏重と批判されることの多い日本や韓国、中国の大学レベルでの差別がある。これもまた、ほとんど無意味なまでの過去の努力や、限られた試験時間内の事務処理能力の高さを、多くの企業が評価しているために出来上がったものだろう。民間企業であれば、採用から出世に至るまで、人事的な昇進過程がどこかに明記されているわけでもなければ、法律で仔細に強制されているわけでもないのに、学歴が重視されているのだ。
 現代的な評判の重要性の例の中でも私がお気に入りのものは、オープンソース・ソフトウェアの開発についての自生的な秩序についてだ。現在、多くの人々に無償で提供されているリナックスやオープン・オフィスであるが、そういった大規模なオープンソース・ソフトウェアの開発には何万人もの並行的な作業が要求される。
 このとき、誰がどういったパートのまとめ役になって、方向性を決定しているのだろうか。
 実際には、リナックスの場合、開発方向のグランドデザインを決めるのは、もちろんライナス・トーバルズである。その下の階層では、最重要なカーネルの開発から、周辺機器のデバイス・ドライバーの開発まで、多くのセクションに分かれて、担当のリーダーがいる。これは誰かが命令したものというよりも、長い間のオープンソースソフトの開発から自然に発生したものである。
 実績や人望のない個人が何かを開発すると発言しても、それに協力する人はいないため、実績のある評判の高い人物の意見を中心にして、自然と自生的なまとまりができあがる。これはサイバースペース内の最も大規模な組織的活動における、評判の持つ素晴らしい意義を表わしている。
 ヒトの持つ高い言語能力は、個人についての評判を伝達することによって、社会倫理的に望ましい人格を有利にしてきたはずである。我々のおしゃべりがいかにゴシップにあふれているか、あるいは政治家がいかに政治活動以外で評価されがちであるのか、を考えてみよう。皆にとって望ましいような社会規範を強く持つ個体が良い評判を得て、より高い適応価を誇ってきたとしても、それほど驚くべきことではない。


人格の予測とサイコパス
 前章でも書いたように、病理的な犯罪人格者はサイコパスと呼ばれるが、彼らのほとんどに見られる特徴は、ウソをつくことに対してまったく罪悪感をもたないうえに、他人に対して共感も持たず、ひじょうに流暢に大量のウソをつくということである。
 通常、見え透いたウソをつくことは大きな勇気がいるし、なかなか話のつじつまを合わせるのも難しいものだが、彼らは躊躇することなく、大きなウソをつく。それも矛盾したウソをつくことがほとんどなのだが、それを指摘されても、すばやく話を変えたり、ごまかしたりして、まったく悪びれず、狼狽もしない。こういったことは、なるほど、サイコパスであるかどうかの大きな判断要因となる。
 あるいは、通常ウソをついていたり、やましいことがある人は相手の目を直視できないものだが、サイコパスはむしろ不自然なほどに相手の目を直視して、自分の言っていることを信用させる。
 私は、ヒトラーサイコパスであったとはあまり思っていない。しかし、感情の果たしている意思決定上の重要性を説く経済学者のフランクは、ウソの心理研究をしてきたエクマンによるのヒトラー研究を引用して、

「アドフル・ヒトラーはもっともらしく嘘をつくことができた。一九三八年九月の会談で、ヒットラーはイギリスの首相チェンバレンに対して、チェコスロヴァキアの国境を書き換えられるという要求が認められば、戦争に突入する意志はないと約束した。会談の後、チェンバレンは姉に宛てた手紙の中で、こう記している。『彼の顔に手強さや冷酷さを見たような気がしたが、今ここにいるのは約束を守る人であるという印象だった。』」

と記している。
 病理的な人格を持つ人間のついたウソが、本当のことであるのか、あるいはウソであるのかを見極めることは、通常人にはきわめて難しい。ウソをつくことによって発言者はその利益を高めるため、ウソは見つかる可能性との兼ね合いで、均衡行動として進化してきた。簡単に見破られるのであれば逆効果になるため、難しい戦略なのだ。
 前章で述べたように、おそらくはウソをつくというのは我々の行動戦略の中に、多かれ少なかれ入り込んでいる。しかし、それが客観的に異常なレベルにまで高まり、同時に相手への共感が欠如しているような場合、その人は人格障害に分類されることになる。
 サイコパスは、囚人のジレンマ状況において常に裏切り続けるため、良い評判を得ることができない。彼らのウソは、数か月で周囲のだれかに見破られる。そのため、数か月の単位で居場所を転々と変えて、次々と別の人間たちをだまし、彼らから利益を掠めて生き続けるという生活パターンが普通になる。
 この意味で、移動が簡単になり、自由に頻繁に多くの人が移り住む現代社会は、サイコパスにとっては、過去のいかなる状況よりもその生活を維持しやすくなっている。部族社会でよそ者に対する処遇が厳しかった過去のどの時代よりも、サイコパスにとっては有利な状況が現出しており、彼らは急速に増殖できる環境にあるだろう。


社会道徳と法律は違うが
 東京駅の駅前を歩いていたら、前を行く人がタバコの吸いがらを捨てたとしよう。これは軽犯罪法やあるいは都の条例には抵触しているのかもしれないが、あまりにも軽微な罪なので、誰も真剣には告発しない。この意味で、タバコのポイ捨ては道徳違反ではあっても、刑事法的な犯罪ではないといえよう。
 では、社会道徳に違反するのと、犯罪を行うのはどこが違うのだろうか。犯罪の場合、被害者の同意がないだけでなく、その行為の加害者と被害者はもともと何の共同行為も企てていない。にもかかわらず、一方的に加害者は害を加えているのだから、被害者には帰責できるような要素はまったく存在しない。結論として、そういった一方的で被害の大きな行為については、抑止するために適正に処罰される必要が生じる。
 これに対して、最初に契約を交わしたりして、相互に協力するべき状況にある二人のうち、一人がサボる場合を考えよう。この場合、よほど明白に詐欺的な行為でない限り、契約に違反しているということで処理されるだろう。こういった社会規範への違反では、処罰されることこそないが、将来的に一緒に働かないという不利益が生じることになる。
 これは犯罪の処罰ほどには厳格で絶対的なものではないかもしれないが、その長期的な効果においては同じような機能を果たしている。
 小さな共同体で生きていた時代には、社会規範への違反と犯罪行為はほとんど同じだっただろう。現代社会でさえも、ほとんどすべての職業の維持や成功には、社会規範としての相手に対する互恵的な配慮が不可欠である。
 さて、タバコをポイ捨てした行為者と私は協働関係にはないため、状況は少し違っている。軽犯罪などはその害悪はひじょうに小さいので、それは犯罪として罰するほどの、社会的なエネルギーを投入する価値がない。人の行為を証明して問責するには、大きな人的エネルギーが必要となるが、それに見合うだけの大きな害悪でなければ、処罰すること自体がますます我々を窮乏化させてしまうだろうからだ。
 さて、どういった行為が犯罪として処罰されるのかが事前に告知されていなければ、人々の活動は委縮してしまい、行動の自由は実質的に保障されなくなる。このため近代国家では、害悪の顕著に大きな行為のみが、犯罪として処罰されることが規定されている。自由を標榜する現代国家では、実際に逮捕されたり、処罰されたりするほどの犯罪行為が少ないのはそのためでもある。
 とはいえ、軽犯罪であっても、そういった行為を公然と繰り返す人物は、社会規範への違反者と同じように長期的には人望を失っていくことになる。ある行為への直接的な処罰こそなくても、社会規範違反と軽犯罪行為は共通して、未来においての生産的な活動に参加する機会を失うというペナルティを受けているだろう。
 この意味で、倫理の違反もまた軽度の懲罰を受けている。観念的には、倫理違反と法律違反の違いは質的なものであるとも考えることもできるが、それすらも自然科学的には、不利益の程度の違いに過ぎないのだろう。