kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

デアル⇔ベキダ 2章

2、デアル→ベキダ、犯罪行為
 
実在論vs観念論
 デアルとベキダというような哲学的なことがらについて語る時、最初に避けて通れない論点がある。それは「そもそも一体どういったことが、思考の前提として最初に所与であり、議論をする必要がないと考えられるものなのか」という抽象的な問題である。これは、論理学的にいえば公理の問題であるし、哲学的にいえば、科学実在論と観念論の対立であるといってもいいだろう。
 科学実在論は、日常的な実践としては素朴実在論とか、あるいは実在論と呼ばれる。これは「我々が感覚的に認識する世界は、それを認識する自分がいてもいなくても、実際に物質として客観的に外界に実在している」と主張するものである。いうまでもなく、世界、あるいは自然についての、もっとも常識的な立場であろう。
 実際に生活している人々のほとんどすべてが、この素朴実在論を暗黙のうちに仮定していると思う。まさに、自分が死んでも世界は続くというのは、常識そのものだ。仮にこれに本気で反対する人、懐疑する人がいたとすれば、その人はよほどの真摯な哲学者であり、かつ特殊な信念を持っている人である。あるいは、変人呼ばわりされるだろう。
 ちなみに、そういった人は「独我論者」と呼ばれる。「認識主体があってこそ、外界は初めて存在するのであり、認識する主体がなければ、それが実在するかどうか考えるのは無意味である」というようなジョージ・バークレーに代表される考えである。これは、なるほど、哲学の議論としては面白いので、哲学史においても重要な位置を占めている。そして誰もが人生のどこかで出会う興味深い考えであるだろう。しかし、それを長い時間かけて考える価値があると考える人は、ほとんどいないだろう。
 私はたまたま、この自然的実在の問題について、個人的な思い出がある。
 高校に入学したときときに、田舎の高校にしては珍しいことに、イスラム教を信仰するというクラスメートがいた。私は彼との放課後の小さな論争で、「神などいるはずがないし、そう考える必要性もない」と主張した。当時の私の感じていた、無神論者としての常識とでもいうべきものを披歴したつもりだった。
 もちろん、イスラム教の彼は神の不存在について反論をしたが、それは彼の実感によるものであり、論理を重視する私の心にはあまり説得力がないように感じられた。これはこれで宗教的な態度としては、ごく当たり前のことなのだろう。
 驚いたことは、その時、仲裁に入った別のクラスメートが「神を信じる人には神がいて、神を信じない人には神はいないんじゃないか」といったことだった。私にとっては、この考え方は、イスラム教信仰以上に、さらに徹底的に納得できなかった。
 「外界は客観的に一義に実在していて、それらが認識主体であるチッポケな僕らの信念によって異なっているはずがないじゃないか!」と感じたのだ。
 ところで、唯我論とは「自分がいない自然世界は存在しない」とか、あるい「認識主体なき外界を観念することは無意味である」とかいうものである。これは「主観に応じて、異なった自然が存在する」という相対主義とは確かに異なったものではある。とはいえここには明らかに通底する、認識対象への懐疑主義的な論理がある。
 その後、大学に入ってからは多くの哲学的な議論に触れる機会を持った。今の私はかつてそうであったほどには、実在論を素朴には主張しなくなった。とはいえ、これ以外の思考方法は、今まで私には説得力があるようには思われなかったし、知的に興味深いだとも感じられない。よって、ここでこれ以上、議論することはやめにしよう。
 さて、このような極端な思想である独我論に比べると、はるかに一般的に支持されている考えには、いわゆる「観念論」がある。この観念論では、主観的なもの、あるいは精神的なもの、言語的なものが第一義的に重要であると考える。自然的な外界とは独立した精神性という考えは、カントやヘーゲルなどのドイツ観念論でも展開されている。
 特に興味深いのは、前述したカントによる、倫理的な当為命題であるベキダについての認識である。カントは、倫理的な命題体系の世界は、客観的な外界とは別の完全に独立した世界であると考えた。世界の自然状態に対して、超然と存在する抽象的な当為概念の体系を考えようとしたのだ。これは、私のような素朴実在論に帰依する人間にとって、実に興味深い発想だ。
 以下に説明するように、私の立場は徹頭徹尾、実在論に依拠している。そして、私の議論と世界観の中には、観念論的な要素はほとんどまったくない。これは私が中学生の時から帰依しているダーウィニズムの窓から見える世界観と、観念論の提示する世界観があまりにも異なっているからだ。
 私の考えるところでは、観念論が与えてくれるものはそれほど多くないし、その多くは専門的な用語に伴った特殊な視点に依存している。概念や言語の創造や精緻化などの至極小さな問題に注視していて、それを作り出す神経科学についての、はるかに重要な事実を見逃しているように思うのだ。
 例えば、ヘーゲルは〈世界精神〉という概念を使い、ときにベキダを含んでいるようにも感じられる観念的・思弁的な概念の運用に基づいて、人類の歴史という実在的なデアルを説明しようと試みた。あるいは後期ヴィトゲンシュタインやポスト・モダンの哲学者たちは、〈言語的転換〉とも呼ばれるような、言語重視の世界観を打ち出した。
 私はそういった方法は採らない。その反対に、実在すると感じられる外界のデアルによって、観念的な世界の一部を構成しているベキダを説明しようとする。それは自然の実在を、言語や概念、価値観などという人間のもつ観念に優先するものとして、論理展開の基礎に置く考えである。


人間心理の由来
 さて、私が本書を書いている究極的な狙いは、人間の感じるベキダの起源と現状について検討を加え、それによってどういった社会が可能なのかというデアルについて考えてみることである。とすれば、ヒュームやムーアが鋭くも指摘したように、「ベキダとデアルは無関係なので、混同して使用してはいけないよ」というだけでは、ミもフタもない。
 そこでまず私が目を向けるのは、「人間がどのような経緯から現在のような存在に至ったのか」という、自然科学的な人間の由来の問題である。これによって、その行動を決定する心理についても、なんらかの洞察を得ることが可能だろうと考えるのだ。
 そして、科学者の常識として、「人間とは、遠い昔に自然発生した、おそらくRNA=リボ核酸によって構成される自己複製体が、悠久の進化を経て到達した自己複製マシンである」という考えを受け入れる。これは現代科学においては極めて常識的で、日本の科学者においても異論の少ない正当な考えになっていると思う。
 この点について詳しく説明する必要はないかもしれないが、一つだけ強調しておきたいことがある。それは、日本でも西洋でも、多数派の人々は実利を与えてくれない科学に興味などはまったく持っていないのであって、「人間が単純な生命体から進化してきた」などとは信じてはいないということである。
 実際、ほとんどすべての宗教で、人間は特別な存在とされている。キリスト教イスラム教、ユダヤ教、仏教など、すべての宗教で、人間の精神、あるいは心理は、地質学的な時間をかけた進化の過程によって形づくられたなどとは考えられていないのだ。
 キリスト教では、安直に絶対神によって創造されたというし、仏教その他の宗教では、人間の由来自体がはっきりせず、そもそも進化という視点自体が存在しない。輪廻転生などの思想は、時間の始まりも終わりもなく、博物学的な動物種の類似性や相違についてなんらの興味もないようで、それらの存在のヒントも与えてはくれない。
 こういった宗教に帰依していない無神論的なマジョリティは、人間の霊性や自然の超常性などの特別な存在を感じつつも、その他の自然科学も同時に受け入れている。そこには、あるいは論理的な矛盾があるのだが、そんなことは「考えたことがない」、「どうでもいい」、「重要じゃない」、「自分に関係ない」ということであるようだ。
 さて、私のように中学生の時代から徹底的にダーウィニズムに洗脳されて育った人間には想像もできないが、一八五九年以前の真摯な思索家たちは、自然に対しての、あるいは社会に対しての思索をする際に、人間の由来と性質は聖書などの宗教書や、自分自身の社会学的な観察に基づくほかはなかった。
 例えば、フランス革命アメリカ独立戦争の思想的な基礎付けを与えた、18世紀の啓蒙思想家には、ホッブズジョン・ロックモンテスキューやルソーなどがいる。彼らは聖書を否定しない範囲で、人間の原始的な社会状況について、理性を使った想像を試みている。これはこれでキリスト教原理の枠内においては、理解可能な知的態度だといえるだろう。
 例えば、ジョン・ロックは聖書の歴史的な記述を歴史的科学的真実であるとみなして、考察をすすめている。これは20世紀の教育を受けた私には奇妙奇天烈な発想だが、地質学も未熟で、放射性同位元素による年代測定法もなかった当時には、やむを得ないことだった。むしろ驚くべきなのは、聖書の記述を前提としながら、現代に残るような社会哲学を展開できたその天才である。私はこれに対して、驚くほかない。
 あるいはまた、ヘーゲルは一八〇七年に『精神現象学』を著し、世界精神というような観念を導入し、歴史的な社会変化についての思索をなしている。この世界精神はきわめて抽象性の高い概念であり、また個人意識を超越しているという点では全体主義社会主義的でもある。
 こういったドイツ観念論は、当時としては大きな意味をもっていたのだろう。しかし、現在の自然的な人間の由来に鑑みれば、私には無意味に抽象的概念を濫用しているとしか思われない。むろん、神の意志についてのみ語る神学者に比べれば、世界精神というあらたな思考の概念を使って世界史を分析しようというのは、ある意味で理知的であり、評価に値するとはいえるかもしれない。
 多くの宗教を同列に論じることはできないだろうが、キリスト教原理主義においても、幸福の科学、あるいは統一教会においても、心身二元論的な立場がとられている。つまり、霊的な存在としての人間は独自の存在であり、自然科学から学ぶことはできないと考えるのである。おそらく心身二元論は、すべての振興カルト宗教に当てはまる一般的な主張であるだろう。
 心理学においてさえ、進化論が入り込んだのは一九九〇年代に入ってからである。
 例えば、一九三〇年代のフロイトの心理学は、生物学、あるいは進化論にインスピレーションを受けたものであったが、彼の進化論の理解はほとんど独断的な思い込みでもいう程度のものであった。その結果、彼は後年、人間にはタナトス(死への願望)が存在するというような、ひじょうに独自性の強い主張をしている。
 実際のところ、今日の科学史家の共通の認識では、初めて人間心理が進化の産物であると考えたのは、他ならぬチャールズ・ダーウィンであった。彼は著名な『種の起源』において生命の進化機構を説明したが、その後『人間の由来(The Decent of Man)』を著し、人間と他の野生動物の行動的な類似性について詳細な記述を残している。そこでは、人間の心理機構とそれと類似する動物の心理の多くが、人間あるいは動物にとって進化的な利益があることによって発達したという明確な視点が提示されている。
 ところが、不思議なことに、ダーウィンの進化論的な心理学は、一〇〇年以上もの間、日の目を見なかった。おそらく動物の利他行動の研究が進んだ一九七〇年代を経て、ついに人間の心理や倫理もまた進化論の光によって説明できるのではないかという考えが、再び広まり始めたのだ。
 後述するように、一九七五年にはエドワード・ウィルソンの『社会生物学』が、翌76年にはリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という二つの大きな啓蒙書がかかれた。これによって、現代の心理学や社会科学は長い方法論的な迷走から解き放たれることになったのだ。


残ったものが残った
 ここで、ひじょうに簡単にダーウィン進化論について説明しよう。
 生物の個体は多くの子どもを残すが、そのすべてが生き残って子孫を残すことは不可能である。この場合、外的な環境、あるいは種内の性的な競争によって、優れた資質を持つ個体が生き残ること、そして子孫を残すことにより成功する。その結果、そういった優れた資質は、種内のより多くの子孫に広がってゆくことになる。
 より多くの子孫を残せる個体は、定義によって、より適応的である、あるいは適応価が高いといわれる。古典的な例を挙げるなら、シマウマを狩るライオンの足の速さや学習能力の高さなどがあるだろう。
 ライオンの場合、より速い速度で走ることによって、あるいは風下から気付かれないように獲物に近づく技術が高いことによって、狩りの成功率は上がるだろう。その結果、より多くの子どもを育てることができるため、そういった資質、あるいは遺伝子は次第に種内に広がる。その結果、種としてのライオンはよりうまく狩りができるようになるだろう。これが、種の進化である。
 この考えは、時に「適者生存」と呼ばれるが、実際には「生存」が重要なわけではない。つまり「生存」するだけでは何の意味もなくて、「繁殖」の成功が重要なのだ。だから、生物学者が「適応価」について話すとき、それは原則的に残した子どもの数になるのである。ある個体が短命であったか、長生きしたかはほとんどどうでもいい。
 この考えは、様々な意味で「劣った」個体が繁殖に成功しないことを意味している。そのためだろう、「競争」が美徳であるとは思わない人びと、あるいは〈平等〉が重要な価値であると考える人びとにとっては、あまりウケの良いものではない。
 次章で詳述するように、「人間は平等であるべきだ」という考えは、我われの道徳観・価値観においてあまりにも大きなものである。そのため、ダーウィン的な進化論は間違っている「はずだ」という考えは、この一五〇年間、絶え間なく主張され続けてきたし、現在もそうである。間違いなく、今後もそうであり続けるだろう。
 あるいは科学哲学的、抽象的にはダーウィン進化論が誤りである可能性は存在しているといえるだろう。だが、私が知る限り、ダーウィニズム以外の進化論は論理的・実証的に破たんしているので、以下はダーウィン進化論を前提にして議論を進める。


遺伝子を中心に世界を見る
 よく知られているように、生物の遺伝子はデオキシリボ核酸(DNA)によってコード化されている。人間のDNAは30億もの塩基対によって構成される膨大なものだが、実際にタンパク質をコードしているイントロンと呼ばれる部分は3万ほど、あるいはもっと少ないと考えられている。
 このわずか3万の塩基対の配列はヒトであれば、ほとんどが同じである。そうでなくては、ヒトとして正常な個体発生をして、活動することはできない。しかし、これらのうち三〇〇ほどの遺伝子座は、各個人によって異なっている。そして、これらの異なった遺伝子は対立遺伝子と呼ばれ、ヒト集団内の個々人の遺伝的な差を生みだしている。
 過去、人びとの関心をもっとも強く引いてきたのは、一つの遺伝子の違いによって引き起こされる致命的な病気である。たとえば、東欧系ユダヤ人に保因者が多いテイ・サックス病がある。この致死的な病は、ガングリオシドという脂質が神経細胞内に蓄積することによって、歩行失調その他の神経活動の麻痺を引き起こし、最終的には死に至るというものである。
 この病気は遺伝子座が特定されているだけでなく、その遺伝子にコードされているタンパク(酵素)も判明している。つまり、15番染色体上にあるHEXA遺伝子は、β-N-アセチルヘキソサミニダーゼAという酵素を作り出すが、これに異常がある場合、神経細胞からガングリオシドが除去されなくなる。
 ヒトは、二つの対立遺伝子を持っているため、そのうち一つでも正常であれば、酵素が生成されて問題は生じない。つまりHEXA遺伝子の異常は、劣性の遺伝子となるのである。そして、この劣性遺伝子を、父と母の両方から受け継いで二つ持っている(ホモ結合)いる場合、病気になってしまうのである。
 この病気は中年期以降に発症することが多いため、保因者は青年期にすでに結婚して子供をつくっていることが多かった。そのため、この遺伝子がヒトの両方の染色体に存在する(ホモ結合が生じている)場合、その個体にとっては致死的であるにもかかわらず、その子どもはすでにある程度大きくなっていることが普通であった。そのため、このHEXA遺伝子の異常は、ヒトの遺伝子集団(遺伝子プール)内を生き残ってきたのだ。
 もっと興味深いのは、鎌型赤血球の生成遺伝子のホモ結合である。これはサハラ以南の黒人に多い遺伝子であり、ホモ結合すると致死的であるが、1つの染色体上にだけ持っている場合、マラリアに対して耐性をもつことができる。この場合、ホモ結合による死というの大きな危険を割り引いても、その遺伝子はマラリアへの耐性を持つため、集団内に広がるということになる。
 総じて言えることは、個人に悲惨な死をもたらすような遺伝子であっても、別の理由から若い時期により多くの子供を持つことを可能にするのであれば、結局は集団のなかで生き残ることができるということである。あるいは逆に、個人に安楽を与えるような遺伝子でも、それがその個体の生殖につながらないのであれば、地質学的な時間の中では淘汰されてしまう。
 進化論の帰結からすれば、遺伝子の多くは、人間は各個人が、人間として望ましいと思うような性質をもっているとはいえない。なぜなら、個人(個体)は遺伝子の作り出す入れ物に過ぎず、個人の精神的な安楽や死に方、長寿などの性質は、その個体を作りだした遺伝子の繁栄とは、完全には一致していないからだ。
 さて、19世紀にダーウィンが進化論を定式化したとき、自然淘汰の単位については漠然と種であるとか、あるいは集団、さらには個体であるとか考えられていた。これを決定的に遺伝子中心の視点に転換したのが、イギリスのウィリアム・D・ハミルトンと、アメリカのジョージ・ウィリアムズであった。
 彼らの理論をまとめてみよう。動物が利他的な行動をする際、相手はほとんどが近親個体であり、近親個体には自分と同じ遺伝子が近親度に応じた確率で入っている。例えば、通常の生物では、親と子ども、同じ父母を持つきょうだいは2分の1の遺伝子を共有している。おじやおば、祖父母では4分の1、いとこでは8分の1となる。よって、自分の受ける不利益を上回る十分な数の親族を助けることができるのなら、そのような利他行動は進化することになる。
 後述するように、人間の場合には、利他行動は親族以外にも広くみられ、それには多様な理由があると考えられている。そうはいっても、親戚同士の助け合いは、人間においてももっとも普通にみられるのも間違いない。
 さて、遺伝子中心にみると、自分が死んだとしても、二人以上のきょうだいが助かるのであれば、そういった行為は生物学的な進化的な存在基盤を持つことになる。このことはダーウィニズムを現代的な形で完成させた立役者の一人であるJ・B・S・ホールデンが50年以上も前に指摘している。
 鎌形赤血球貧血に関して前述したが、このことのもっとも重要で興味深い例は、一つ一つの遺伝子が、その果たす役割において多面的なことに関連している。この多面発現で予想されるのは、ある遺伝子が個体の死亡リスクを高めたとしても、それを上回る繁殖の可能性によって適応価を高めるのであれば、そういった遺伝子は集団内に広まるだろうというものである。
 例えば、男性ホルモンであるテストステロンは筋肉の発達を促進させるため、おそらくは男性同士の争いにおいて大きな価値をもってきたはずである。しかし、高濃度のテストステロンは免疫力を弱めるだけでなく、更年期以降における前立腺ガンの発ガン率を高めてしまう。つまり、男性が男性らしくあることには戦闘力を高めるという利益とともに、発ガンによる死亡リスクを高めるというコストがかかっているのだ。
 また別の例をあげてみよう。遺伝子の組み換えによって、センチュウを長生きさせることができたことは、多くの科学雑誌で紹介された。シカゴ大学生物学者は、センチュウの寿命を約2倍にまで伸ばしたし、すでにヒトについても4番染色体に長寿のカギを握る遺伝子の一つがあることが確かめられている。
 しかし、この遺伝子は同時に、繁殖を抑制するものであるようだ。適応価は大きく下がっているのである。長生きさせる遺伝子があったとしても、それが10分の1以下の子供しか残せないのでは、そういった遺伝子が集団の内部には広まることはない。
 遺伝子の視点からみると、個体が長生きすること自体には何の価値もない。より繁殖を成功させることができるのであれば、個体が若くして、惨たらしく死んだとしても、遺伝子は集団内に広まってゆくことになる。この考察は、進化を個体中心に見ることは、少なくとも生物学的な視点とは相いれないということを意味している。
 ドーキンスはこの遺伝子中心の視点を、「生物個体は遺伝子の乗り物でしかない」という刺激的な表現を使って、世に広めた。一九七六年の『利己的遺伝子』は、人文主義的な人間存在の意義をますます低いものとしたように思われる。我々の個体心理までもが自己複製マシーンのプログラムの発露であるというのは、知的にはともかく、意義ある人生というものを求める普通の人にとっては聞いていて面白い話ではないのだろう。
 

タブラ・ラサの仮説
 さて、ヒトは生まれてくるとき、なんらの先天的な行動傾向ももたず、その後の学習によってすべての行動を覚えるのだとしよう。こういった考えは、心が白紙のままにうまれてくるという意味で、タブラ・ラサの仮説と呼ばれる。
 このタブラという言葉は、英語のテーブルの語源となったラテン語である。いろいろなことを書き表す黒板のようなものを指していて、つまり、まっさらのノートというような意味がその原義である。
 この仮説は、前述したスコットランドの啓蒙哲学者であり、経験主義者であったジョン・ロックが主張したことでよく知られている。その後、この考えはロシアのパブロフによる条件反射の研究などを経て、アメリカで行動主義心理学として大きく花開いた。
 行動主義を完成させたジョン・B・ワトソンやスキナーたちは、人間心理をブラック・ボックスとして取り扱うという方法をつきつめて、生物の本質とは単なる反応の連鎖であると主張した。ついで、その自然な帰結として、条件付けによってどんな子どもでもどんな人格にでも訓育することができると考えたのである。
 ワトソンによる、一九三〇年の代表作『行動主義』における以下の文章は、彼の極端な立場を表わすものとして、心理学史において大変によく知られている。

 「12人の健康な乳児と彼らのための、よく計画された、私の特定するような養育環境を私に与えよ。私は、彼らのうち任意の一人を、私の選ぶどんなタイプの専門家にも育て上げることを約束しよう。それは医者であれ、弁護士であれ、社長であれ、そして、そう、たとえ乞食であれ、盗人であってもであり、そして子供の才能、好みや趣向、能力や適性、その祖先の人種にかかわらずである。このことは私のもっている実験結果を超えた主張であることは認めるが、それは反対意見の推進者たちも同じであり、彼らはそれを数千年にもわたって行ってきたのだ。」


 さて、当時に比べて圧倒的に多くの学問的な知見が集まった現在となっては、こういった考えの詳細を論じて、個々的にその主張に反対する必要はもはや存在しない。現在の心理学研究の主流となっている進化心理学では、生物学的な進化論からヒトの行動の意味を説明しようとする。そこでは、配偶行動をはじめとする、多くの重要な人間行動は先天的な傾向によって導かれると考えられている。
 ちなみに大分さかのぼったところでも、言語学者ノーム・チョムスキーは、言語の発達は、単なる条件反射では説明できないことを一九五〇年代に最初に主張している。ヒトの脳に言語を獲得するための先天的な言語回路が存在していないならば、条件反射のみでは、わずか数年でのヒトの言語の習得は不可能だからだ。
 彼の考えは、進化論的言語学者であるスティーブン・ピンカーによる『言語を生み出す本能』などに引き継がれている。実際に、脳にはブローカ野やウェルニッケ野などの言語活動に特化した部分が存在していること、そしてその発生や分化には遺伝子レベルの基礎付けがることは、現在ではよく知られている。
 あるいはまた、別々に育てられた双子研究をみてみよう。こういった研究は、アメリカやデンマークなどで行われてきた。一卵性双生児が異なった里親に育てられた場合、その性格や行動の違いと類似性を測ることによって、人間行動の差異に対する影響を、遺伝要因と環境要因に分けて考えることができる。
 一卵性双生児は遺伝的には同じであるが、養子縁組によって里親が異なっている場合には、その生育環境が異なることになる。成人後の人格の類似性はもともとの遺伝的な素因によるものであり、その違いは基本的には環境要因によって形作られると考えられるのである。
 これは現在、行動遺伝学と呼ばれる研究分野になっている。結論的には、人間一人ひとりには遺伝的に自然な個性があり、それは単に環境によってのみ決まるのではないことがわかっている。知性や各種の性格因子の遺伝率、つまり集団内変異のうち、遺伝によって説明される部分は50%程度になる。つまり、ヒト集団のなかの様々な個性、あるいは人格や能力のバラつきは、その50%程度が遺伝的に誘導されているといえるだろう。
 後述するように、右翼・左翼などの政治的な態度についても、遺伝率はそれなりに高いようである。とするなら、人間の倫理観にも先天的な基礎付けがあり、それは遺伝的に、脳内のニューロンの結合様式や神経伝達物質の分泌量や受容性、あるいはホルモンの分泌などに埋め込まれたものである、という前提をとることは自然な話になる。
 ここで理解してもらいたいのは、こういった行動の遺伝性という概念を考える際には、個人の行動や個性が遺伝によって完全に決まってしまうということではないことだ。「ある程度」というところがミソなのである。これはまた自由意志についての部分で後述するが、全体の議論に大きく関連してくるので、忘れないでもらいたい。


犯罪という行為概念の自然主義的基礎付け
 明らかに、われわれの社会には「殺すなかれ」、「盗むなかれ」、あるいは「犯すなかれ」といような基本的な犯罪への禁忌意識がある。私は、これらの道徳規範はほとんど直観的なものであって、神経科学的な、あるいはハードウェア的な配線が先天的に発生することが、遺伝レベルでプログラムされているのだろうと考えている。
 あるいは、そういった規範などはすべて社会的な構築物でしかないという人もいるかもしれない。こういった感覚が先天的なのか、あるいは後天的なのかについては、また後に考えることしても、こういった倫理観や道徳感情が広く一般に存在することだけは間違いない。
 さて、こういった道徳規範の存在に関連して、世の中でよく聞かれる素朴主義的な質問には、「なぜ人を殺してはいけないのか?」というものがある。いろいろと人文主義的、人道主義的、あるいは宗教的な返答があることは間違いないだろう。しかし、これらの説明はすべて、私が合理性の基準から考えて納得できるものではなかった。
 曖昧な説明に代わって、私はここで、多くの日本人にとってほとんどまったく聞いたことのないであろう、功利主義的な説明をしてみたい。これはアメリカで発達してきた「法の経済分析」という研究分野における、法律の功利主義的、あるいは経済学的な基礎付けである。聞きなれないに違いないが、その論理はクリアであり、ベキダという概念の基礎付けとして知的に興味深く感じられるはずである。
 まず典型的な犯罪行為として、殺人や傷害行為をめぐる規範について考えてみよう。
 AがBを殺す、という行為について検討しよう。その場合、AはBを殺すことによって精神的に満足を得ると考えることができる。ここで、このAによる殺人による満足、あるいは快感に価格をつけることを考えてみよう。これは100万円に値するかもしれないし、あるいは1億円になるかもしれない。
 しかし有限なある金額をもらうことによって、AはBを殺すことをやめることに同意するという金額が存在するだろう。これは、Aにとって、Bを殺すことと、その金銭をもらうことの価値が等しいこと(経済学者のいう無差別であること)を意味している。
 反対に、Bにとって自分が殺されないことには、間違いなく主観的には無限の、あるいは客観的にも、Bの生涯所得全体の最低限度の価値がある。Aが得た快楽の金銭換算値と、Bが被る被害の金銭換算値には大きな差があるのが普通である。とすれば、犯罪者の快楽額から、被害者の損害額を差し引きすると、結局は大きなマイナスになるだろう。つまりAとBによって構成される小さな社会全体からみると、AがBを殺すことからは、Aの利得よりもBの損失の方が、金銭的に大きいということになる。
 ミもフタもない表現なのだが、これが殺人が罪とされる理由である。
 同じ論理は傷害行為にも当てはまる。怨恨であれ、通り魔のような愉快犯であれ、傷害犯は相手に傷害を与えることで何らかの精神的な快感を得ている。それを金銭評価するなら、せいぜいが数万円から数百万円程度の価値しか持たないだろう。言い換えれば、それだけの金額をもらうのなら、その引き換えに犯人は傷害行為をやめることに同意するだろうということである。
 これに対して、傷害を受ける個人としては、傷害犯人の快楽よりもはるかに大きな被害を受けるのが普通である。いいかえれば、被害者は傷害を回避するために、犯人の快楽換算額以上の支払いをする用意があったはずだということである。
 ということは、被害者と加害者の二人についての社会的な利得は、傷害という行為によって全体としてマイナスになっている。これを「金銭的な」功利主義からみると、傷害行為は社会全体の幸福を減らしたことになるため、われわれはそれを犯罪として罰するのである。
 最後になるが、窃盗については、もっと理解しやすい。通常、もともとの所有者にとっての窃盗物の価値は、窃盗犯人にとっての価値に比べてはるかに大きい。仮に、窃盗犯人にとっての価値が、所有者にとっての価値よりも高いのであれば、犯人は所有者に売買を持ちかけることで、合法的に所有者の同意を得て、当該物を入手できるはずだからである。
 窃盗犯人のほとんどは、窃盗物をすぐに闇市場に売り払ってしまう。通常、その価格はもともと所有者が買った値段に比べて、はるかに低いものでしかない。さらに、窃盗行為には時間も労力もかかるのであるが、それはもっと別の生産的な仕事をすることにも使えた時間と労力なのである。
 窃盗行為は、犯人にとっても時間のかかる、しかし社会的には価値破壊的な行為となっている。このため、窃盗物を犯人が得ることは犯人の快楽になっているが、それ以上に所有者にとっての損失と窃盗行為は犯人の労力の総和は大きな価値を持っている。つまり窃盗行為は、社会全体の価値を毀損する行為であり、望ましくないものだといえるのである。
 実のところ、話はこれにとどまらない。殺人にしても、傷害、窃盗にしても、そういった行為が起こることが予想されるのなら、潜在的な被害者は、それに対抗するために、武器を持ったり、あるいは夜中の外出を控えたり、厳重な戸締りのための器具や防犯装置を購入する必要が生じてしまう。これらは、それ自体は何も生産的なものではなく、単なる純粋な社会的な損失である。
 実際、犯罪率の高いアメリカでは、日本でいうセコムのような警備会社と契約するのが、ごく一般的な家庭でも常識となっている。なるほど、セコムの活動は確かに顧客の生命や財産を守るというサービスを供給してはいる。
 しかしここで、そもそも犯罪行為をしようとする人間がいないとしよう。その場合、現在そういった警備会社に勤めている人たちは、工場で何かを生産するなり、高齢者介護をするなり、といった、何かもっと他の積極的に生産的な仕事に就くことができる。つまり、警備会社のサービスは消極的なものでしかなく、警備活動などが、そもそも必要ないのであれば、社会の総福祉を上げることができるはずなのである。
 以上のように、犯罪と呼ばれる行為は、ある程度は加害者にとっては満足度の増大につながっているかもしれないが、それ以上に被害者が迷惑を被っている場合なのだといえるだろう。これは、加害者と被害者の両方の利益を金銭的に考えたものだが、もっと常識的に加害者と被害者がほとんど同じような境遇にあると考えれば、そのまま精神的な満足度の増減についての功利主義哲学として理解できるのである。


犯罪のゲーム状況
 ここでの記述的な説明を、もう少し厳密にゲーム理論をつかってあらわしてみよう。A、B二人のプレイヤーによる社会において、それぞれが犯罪的な行動、ここでは盗み、をする場合としない場合について、各人の得る利得を考える。


                     プレイヤーAの行動

                  盗む         盗まない


 (−10、−10)

  (−20、10)

 (10、−20)

   ( 5、 5)



 表の中にかっこであらわされた数値は、それぞれAとBの利益値を示している。Aが盗みをしてBが盗まない状況は、4つの数値行列のうち、左下に表れている。Aは盗みをするために10の利益を得るが、Bとしてはそれ以上の20という大きな損失を被ることになる。Bが盗み、Aは盗まないのであれば、状況は反対になる。
 AもBも窃盗をはたらけば、お互いのものを取り合うために、それぞれが20を失って10を得るため、結局は二人ともに10を失うことになる。最後に、二人ともが盗みをしないのであれば、その時間を別の生産的な活動に充てることができるため、両者は5の利益を得ることになる。
 犯罪の状況論理とは、まさに加害者と被害者の利得を足し合わせた場合に、負の値をとるということにある。加害者はなんらかのものを得るのだが、その正の値は、被害者の負担する負の値によりもはるかに小さいのである。
 この場合、両者が事前に話し合って、盗みをしないという協定を結ぶことが、双方にとって有利になるだろう。このために、犯罪をしないということが暗黙の社会契約であるという考えや、犯罪行為を社会契約上の契約の不履行とみなされることがあるのだ。
 犯罪行為は罰されるということが事前に約束されていれば、各人が犯罪を行うインセンティブはなくすことができる。ここで示した場合であれば、盗みに対して、例えば10の罰を与えることが事前に約束されているということになるだろう。窃盗行為が必ず罰されるというのであれば、AもBも窃盗の後に罰を受けることによって結局は0の利益を得るよりも、普通に働いた方が5の利益を確保できるだけマシになるのである。
 10の利益のある犯罪に対して、10単位の罰が与えられるという刑法的な社会契約を実行することと、盗まれた被害者やその他の第三者が、加害者に対して10単位以上の復讐をすることとは、犯罪抑止効果の点からみると、同じであろう。このことが、後述するように、実際には社会契約という論理的な解決法をとる代わりに、われわれが道徳感情と、それに伴う犯罪への憎しみと応報感情によって、犯罪の発生を抑止している理由なのだ。
 さて、殺人について考えてみるのは、思考実験としては窃盗よりも興味深い。AがBを殺すというのであれば、Bの被害は通常は無限大だといえる。この場合、Aが感じる満足が有限のものであれば、つまり、有限の金額の金銭に置き換えられるというのであれば、それだけでAとBの利得の総和は無限にマイナスとなる。
 総和の値がマイナスの大きな数字であればある程、その行為の反社会性は高いと考えられるし、同時にそういった行為に対する道徳的な非難と物理的な懲罰の程度は上昇する。このように、通常の個人生活のなかで、他人との共同生活に対して破壊的であるものが犯罪なのであり、そういった行為が起こらないように罰する必要が生じるのだ。
 さらにここで注目に値するのは、実質的な社会的損害が生じていない場合には、犯罪は違法ではなくなるという、一般的な法制上の特例である。これは前述の利得行列でいえば、Aが窃盗をして、Bが窃盗をしない場合の利得が、それぞれ20と−10であるような場合である。
 例えば、AがBの別荘に入ってパンを盗んだが、Aは遭難していたために餓死しそうな状態にあり、反面、Bは別荘にはおらず、その別荘である山小屋に多くのパンを蓄えていたとしよう。この場合、刑法では「緊急避難」行為として、このような住居侵入や窃盗の違法性は阻却され、犯罪として罰せられなくなると考えられている。
 具体的には、日本の刑法では、第37条に「自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。」とある。
 要するに、緊急の場合には、犯罪に当たるような行為であっても、もっと重要な利益を守るためであれば、それを実行することは道徳的な非難を受けたり、罰を受けたりしないということである。これはまさに、刑罰や倫理観がその根底に功利主義的な論理を持っていることによるのである。
 似たようなことだが、同等の利益(法律用語では法益と呼ばれる)を守るために、犯罪に当たるような行為を行うのもまた許されている。例えば、自分を殺そうとしてきた相手を逆に殺してしまうというような、正当防衛である。
 刑法36条には「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。」とある。これもまた犯罪とされるべき行為が実質的にもたらす利益を考えると、しないよりもした場合の方がより大きいという例外規定なのである。
 このような緊急避難や、あるいは正当防衛の制度について考えると、法が犯罪行為を規定し、処罰しようとすることは、功利主義的な考察によって説明できることが納得できるだろう。ついで、このようなデアルという状況論理が、どのようにしてベキダという感覚に転化していったのかを検討しよう。


進化的適応環境が心理機構に反映されるまで
 ここまでに述べた説明は、功利主義的な哲学に基づくものであり、いわば状況論理を考察したわけである。だから、個人が「道徳的直観」を持って、殺人が悪いと感じることの説明というよりも、むしろ、「どうして殺人が悪いことなのか」についての論理的な説明である。
 では、こういった論理は、1、一体なぜ我々の直観、あるいは実感にまでなっており、2、さらに強い感情を伴うのだろうか。ここで、進化的な議論の出番になる。
 まず1について考えてみよう。
 後述するように、道徳感情はおそらく哺乳類程度の知能があれば、共通して持っていると考えられる。しかし種の単位での行動の変化は速やかなので、ここでは特に、人間がゴリラやチンパンジーから分岐して独自に進化してきた過去500万年以上の歴史を考えてみよう。その進化的な生活環境というのは、せいぜいが数十人程度の小さな集団であったと考えられている。
 貨幣のない状況においても、殺人や傷害、食べ物や衣服の窃盗などは価値破壊的、非生産的な活動であるため、集団内部の軋轢を高める。どういった集団においても、殺人や盗みといった活動が恒常的に存在するのであれば、それに備えるための物質的・心理的な負担は大きなものとなるだろう。
 集団にとって破壊的な行為は、行為者を罰する必要がある。そういった行為は犯罪と認識され、懲罰が下されることになるべきである。これは、ヒトの進化の過程で、状況によって変化することのない普遍的な行為規範となるため、ヒトの脳内には犯罪を見出し、罰を与えるような回路が発達することになる。
 地質学的な時間の中で、状況論理は道徳判断の専用モデュールとして脳に配線され、その実行には、大脳の一般的な論理的な思考をほとんど必要としなくなる。実際、内省的に考えても、常識的な犯罪行為に対しての道徳的な非難には、ほとんど論理的な要素は含まれてないように思われる。
 経済犯罪などの特殊犯を除けば、殺人や窃盗などの自然的な犯罪は、どういった社会でも、あるいはどういった状況でも、犯罪として認識される。そして、それらに対しては憎しみや嫌悪などの感情をもって、公的、あるいは私的な懲罰が与えられる。こうした一連の犯罪に対する一般人の道徳判断には、一般論理的な思考はほとんどまったく入っていないのが普通なのだ。
 たとえを持ち出すなら、大脳における論理的な思考というのは、コンピューター上を走る一般的なソフトウェアのようなものだといえるだろう。それを実行するために時間もエネルギーも必要となる。時代や場所に関係なく、常に同じ判断を下すべきなのであれば、ソフトウェア的に後天的な学習をするよりも、特殊で小さなハードウェアとして埋め込んでおいた方が、処理速度も速いし、エネルギーも少なくて済む。
 コンピューターに明るい人は、CPUには通常無線LAN専用の補助チップが付いていることや、あるいは高速でリアリティのある描画のためには専用のグラフィック回路が付いていることを知っているだろう。比較的にルーティーンになるような情報処理に対しては、専用の回路があった方が効率がいいのである。
 次に、2の問題に移ろう。なぜ犯罪への道徳判断には感情が伴うのだろうか。
 犯罪は通常加害者には何らかの利益を与え、被害者を害する行為である。それを罰するというのは契約としてはもっともなものだが、実際にその懲罰を実行するためには、何らかの労力が必要となる。
 小さな部族集団で生きていたヒトの進化的な環境では、被害者は自分で、あるいは自分の家族や友人と一緒になって、直接に加害者に対して懲罰を加える必要がある場合が多かったはずである。あるいは、長老のような仲裁役に対して、加害者の懲罰を訴える必要があったかもしれない。
 どちらにしても、加害者にしてもなんらかの言い分はあるだろうし、素直に懲罰を受けるかどうかは明らかでない。懲罰を逃れるために逃げようとするかもしれないし、あるいは応戦してくるかもしれない。犯罪はすでに起こってしまい、被害は回復することができないのであるから、逆に懲罰行為をあきらめる方が「合理的」であると言える場合も多いだろう。
 そういった場合に、懲罰を与えようとするものに、断固とした感情が伴わってはいないとしよう。その場の一時的な合理性を優先して懲罰行為をあきらめる個人は、次回からナメられてしまい、いっそう犯罪の被害に遭いやすくなってしまう。
 だから、一時的には懲罰を与えようとすることで、さらなる被害が生じたとしても、断固として復習をすることが、長期的には有利になる。このことを可能にするためには、合理的な判断を超えた懲罰欲求を生じさせるための、理性を超えた強い感情が必要になる。これが犯罪を非難する際に、なぜ強い感情を伴うのかについての理由となるのである。
 実際、復讐のような強い感情を伴う場合、ヒトの全身にはアドレナリンという戦闘準備を行うホルモンが行き渡り、顔は紅潮すると共に、意識的にはコントロールできない非随意筋が怒りの感情を作り出す。こういった状態を作り出すためにはそれなりの肉体的なエネルギーを必要とするため、ヒトの意図の真剣さを表す重要なシグナルとなるのである。
 自分よりも肉体的、あるいは社会的に優勢な犯罪者に対して、不退転の決意で復習をするためには、合理性を超えた尋常ではない憎しみが必要であろう。それを成し遂げるために、ヒトの心の中で、犯罪への非難は強い感情をもってなされるように進化してきたのだ。
 なお、最近目覚ましく発達してきた大脳活動のイメージング技術であるfMRIやPETなどを使ってみても、このことは明らかである。論理的な判断は、頭の前側にある前頭葉が活性化して実行される。これに対して、倫理的な判断は、扁桃体で発生する感情を伴いつつ、前頭葉などに比べてもっと原始的な脳部位である大脳視床下部によって行われている。
 さらにまた、このことからは、集団内の道徳感情というのは、ヒトが他の類人猿と分岐するはるか以前から持っていたことが示唆される。当たり前のことだが、集団生活をする動物であれば、なんらかの人間に似たような行動規範が存在しており、それを破れば他の個体からの罰を受けることになる。
 例えば、チンパンジーの研究で有名なオランダの霊長類学者であるフランス・ド・ヴァールには、『政治をするサル――チンパンジーの権力と性』という著作がある。彼は、ヒトと同じようにチンパンジーも他の個体を欺いたり、仲間を作って攻撃したり、政治をしたりして、メスとの交尾の機会を確保しようとすることを報告している。集団の行動規範に反した場合には、仲間の怒りを引き起こし、サンクションが与えられるのも人間社会と同じなのである。


ウェイソン・カード問題
 さて、進化心理学では、社会規範に反するものを直感的に理解するため、人間の大脳には専用の回路があると考えるのが常識的な発想となっている。そして、その証拠として、例えば、まったく同じ論理構造をもつ純粋な論理問題を解くのに比べて、それを社会規範の違反の問題に置き換えると、人々が容易に問題を解くことができることがあげられている。
 その典型的な問題は、4カード問題、あるいは報告者の名前をとって、ウェイソン・カード問題と呼ばれるものだ。これはまず、4枚のカードがあり、その表にはアルファベット、裏には数字が書いてある。そして今、目の前には、A、B、4、7、の4つカードがあるとしよう。この場合、論理ルール「カードの表に母音が書かれているなら、裏には偶数が書かれている」について考えてみよう。このルールがこれらのカードには当てはまっていないことを確かめるためには、どの2枚のカードを裏返せばいいだろうか?
 ここで少し、読者の皆さんにもしばらくの間、考えてみてほしい。












 実際、この問題を解くためは、それなりに高度な論理能力を要求する。半数を超える人が、Aと4を選ぶのである。しかし、これは間違っている。なぜなら、4の裏をみて、それが子音であったとしよう。その場合でも、そもそもここで問題となっているルールは、母音の裏についてのみ語っているのであり、子音の裏の数字については何も語っていない。よって、4の裏を見ても、ルールが守られているかは確かめることはできない。
 しかし、7の裏を見て母音が書いてあったとすれば、ルールは破られていることが分かる。よって。ここでは、Aと7を選ぶのが正解なのである。このように論理を解説すれば、別に難しい問題ではないように聞こえるかもしれないが、直感的に即答できるようなやさしい問題でないことは間違いない。
 今度は、この問題を論理には変えないままに、社会規範の問題にしてみよう。
 酒場で合計4人の男がいて、飲み物を飲んでいるとしよう。左側の二人はそれぞれビールとコークを飲んでいるが、その隣には18歳、22歳の2人の男がビールあるいはコークを飲んでいる。この場合に、規範ルール「ビールを飲んでいるなら、その人は20歳以上である」を彼らが守っているのかどうかを知るためには、どの2人を調べればいいのだろうか?
 もう一度、少しばかり考えてみてもらいたい。











 過半数の人が、ビールを飲んでいる男性と18歳の男性の2人をを調べればいいことを即座に回答する。ここでは何も難しいことはない。ビールを飲んでいる男を調べるのは当然として、22歳の男が飲んでいるものを調べても、何の意味もないことは明らかだ。18歳の男が飲んでいるのがビールかどうかだけが重要なのだ。
 しかし、この問題は論理的には、カードの問題と同じなのである。にもかかわらず、このような社会規範の問題を解くことは、純粋な論理問題を解くのに比べて、ひじょうに易しく感じられるという事実がある。
 ここから、カリフォルニア大学の進化心理学者であるレダ・コズミデスとジョン・トゥービィは、人間の脳には社会規範の判断のための特別な回路が用意されていて、規範の違反に対して懲罰を加えることを容易にしているのだろうと結論している。
 正直に言って、私にはこれが本当であるのかどうかには確証が持てない。論理問題は抽象化されているが、アルコール飲料が許されるような状況は、われわれになじみが深いため、単なる「問題に対する慣れ」である可能性も完全には否定できなさそうだからである。
 この問題は、fMRIのような大脳イメージング技術を使わなければ、はっきりとしたことは言えないように感じられる。とはいえ私も、理論的なレベルでは、社会規範専用の脳回路があっても不思議ではないと思う。よって、ここでは、彼らの意見を取り入れて、ここでいうウェイソン・カード問題に表れているように、人間には単なる論理を超えた社会規範の順守・違反などに特化した回路があると結論付けてもかまわないだろう。
 ここでの結論は、我々の原始的な進化環境では、多くの破壊的、反規範的な行動があり、それを相互に禁止するための規範心理が脳内に発達した。それらの社会規範回路は、純粋に論理的な思考をパスして、もっと直感的に善悪を理解することを可能にして、我々の行動の指針であるベキダを受け持っているということなgtのである。
 

デアルがベキダをつくりだした
 さてここで、以上の議論から明らかになったことを、もう一度確認してみよう。
 犯罪と呼ばれる行為は、基本的に集団内の他の個体にとって害悪をもたらす行為なのであり、犯人の得るものよりも、被害者の失うものの方が多いような行為類型を指す。これはしかし、ある種の行動をめぐる状況について説明しただけだ。つまり犯罪行為とは負の結果をもたらすという結果についての、デアルでしかない。ここから、直接には犯罪行為は行うべきではないというベキダは導き出すことができるわけではない。
 しかし、「こういった犯罪行為を行うべきではない」、あるいは「これらの行為は罰するべきだ」という当為概念を持たない個人ばかりが存在していたとしよう。そういう社会では、社会的に不利益となる行為が罰せされることがない。
 この場合、犯罪行為を実行するものは有形無形の利益を得るが、被害者はその利益以上の被害を被ることになる。長い時間のうちには、集団内にはそういう犯罪行為を行う個体は徐々に増えていくことになってしまう。犯罪者になる可能性も被害者になる可能性も同じようにあるというような状況では、その社会は結局、誰もが損失を被るようなものになってしまう。
 犯罪行為を許すような相互関係よりも、そういった極度に利己的な行為を罰するような心理を獲得した家族や小集団があったとしよう。それは、各個人が犯罪から得られる利益を減らすことになり、それによって相互に破壊的な犯罪行為を抑止することが可能になる。ここでの仮定は、これは合理的・意識的というよりは、進化の過程で生じた心理機構の結果だというものである。
 こういった進化論的な議論では、普通に人が「殺人は悪であり、罰されねばならない」と感じるとき、そこには今説明したような背後に存在する功利主義的な利益衡量などが意識される必要はまったくない。むしろ論理を超えた道徳的直観として、「殺人はするべきではなく、殺人者は罰されるべきだ」という、行動についての当為概念として、脳内に特別な配線が、進化によって形成されるようになっていると考えるのだ。
 以上説明したような形で、犯罪行為の生み出す状況というデアルと、犯罪行為についての価値判断であるベキダが結びつくことになる。犯罪という行為がもたらす状況はあくまでも、社会の構成員の不利益であるというデアルにすぎないのだが、そのような状態の発生に対して我々が心理的に対処してこなければならなかったことが、われわれの脳内にベキダという行為規範の生成回路を進化させることになったのである。
 これは法の経済分析において功利主義から規範理論を導き出す際に使われる論理を、私が進化論に当てはめたものである。後述するように、一九七〇年代にはすでに、ウィリアム・ハミルトンやロバート・トリヴァース、エドワード・ウィルソンなどの社会生物学者たちは、動物の相互利他性を支える社会規範の進化について盛んに論じていた。
 人間も動物の一種だと考えれば、別にヒトだけが特別な存在ではない以上、人間の道徳規範の進化についてもチンパンジーやヒヒと同じ分析が可能になる。エドワード・ウィルソンによる1975年の大著『社会生物学』には、すでに人間の社会行動の分析は、進化論に整合する形で、生物学と統合されるだろうとまで断言されているのである。
 もちろん、この意見に対しては多くの社会科学者が強硬に反対した。人間の学習能力はほとんど無限といえるほどに高く、生物学の方法はそのままでは人間社会の研究に適用できないという反論がなされたのである。
 また人間行動の遺伝的・先天性を強調することが、これまでの社会に存在する保守的な行動様式を擁護しようとする試みだと感じられたことも大きい。このため、アメリカの生物学会ではいわゆる「社会生物学論争」が起こり、しばらくの間ウィルソンは個人的な誹謗中傷さえも受けることになった。
 生物学の社会科学への影響は1980年代には顕著とは言えなかったものの、1990年代には次第に多くの若手の心理学者が、人間心理の進化理論的な基礎付けを展開するようになった。21世紀にはいって主流化したといえるレダ・コズミデスとジョン・トゥービィによる進化心理学の発展は、社会生物学という言葉は政治的な配慮から回避しているものの、その論理の展開は、社会生物学と基本的に同じである。
 社会規範の生成についてのゲーム理論的な研究の発展と並行して、法の経済分析もまた進歩してきた。法の経済分析はまた「法と経済学」とも呼ばれるが、当初そこでは、議会で制定される実定法が、誰に対してどういった経済効果を持つのかが主に議論の対象であった。
 しかし、現在の方の経済分析はそれにとどまらず、もっと自然法的な法規範の基盤についても、功利主義的な分析を加えるようになっている。私が、法の功利主義的な基礎付けについてはっきりと知ったのは、デイヴィド・フリードマンによる『自由のためのメカニズム』を読んだときであった。功利主義から規範理論を導出できるという考え方を知った時、私はたいへんに驚いたし、それに完全に納得した。
 フリードマンの近著である『法の秩序(law’s order)』には、ここで取り上げたような自然犯だけでなく、経済取引を含めた、はるかに多様な法規範の経済分析が提示されている。興味のある方は、ぜひともご覧いただきたい。
 さて、私は高校時代に倫理社会の科目を学習して以来、長らく存在と当為の関係について悩んでいた。大学時代に読んだ多くの人文系、社会科学系の思索は、前述したようにヒュームの時代から、大きな理論的な進展はないと感じた。哲学者や思想家の分析は、単なる言葉遊びの域を出ておらず、私の論理的な直観からはまったく納得できなかったのである。
 そんな折、規範の進化ゲーム的な考察と、犯罪法の功利主義的な分析は、私がこれまでに知りえた中で、もっとも重要で堅牢な論理を提供してくれた。読者が私と同じように、ヒトの進化的適応環境を取り巻く状況論理から、我々に内在する規範意識を説明するやり方に納得してくれるかどうか、私には正直なところはっきりしない。ここではしかし、そうであると考えることにしよう。


懲罰が存在しない社会、あるいは犯罪行為が存在しない社会では
 さて、議論を先に進める前に、ちょっとした脱線をしてみよう。
 まず、もしも犯罪行為に有形無形の罰がまったく与えられなかったら、どうなるのだろうか。殺人が禁忌行為でないのであれば、人々はちょっと都合の悪い人がいればすぐにその人を殺すことを考えるだろう。われわれの誰しもが、誰かにとっては都合の悪い人に違いない以上、哲学者ホッブズが言うように「万人の万人に対する闘争」が状態となり、ほとんどの人はすぐにこの世からいなくなってしまうだろう。これでは、安定な社会とはなりえない。
 盗みが許されている社会ではどうだろうか。自分が他人の食べ物なり、着るものなりを勝手に利用できるのはありがたいかもしれないが、自分のものもまた他人が利用するため、所有権の概念は、単なる占有と同じになってしまう。そもそも、誰もが他人のものを勝手に占有できるのであれば、いかなる財であれ、それを作り出す労力を差し出す人も、交換取引をする人もいなくなってしまう。これでは、誰もが生きてゆくことはできないだろう。
 これとは反対に、盗みも殺人も存在しない、理想の社会を考えてみよう。そこには、犯罪行為を実行しようとする人が、何らかの理由からまったく存在しないのである。
 そこではまず、盗みをする働こうとする人がいないため、盗みによって生きる人はいない。現実の社会では盗みによって生計を立てている人も、架空の犯罪のない世界では必ず何かを生産して、それを交換すること、あるいは何らかのサービスの提供によって日々の糧を得る必要がある。これだけでも、社会全体としての福利厚生は大きく増えることになる。
 それだけではない。盗みがないのだから、家に鍵をかけるという精神的・肉体的な労力もいらなければ、監視機器を設置する必要もない分、より多くの別の生産物がつくられることになる。また盗みに対する警察の取り締まり、窃盗犯に対する刑事裁判、さらに懲罰としての刑務所の維持といった、多様な物的・人的な負担がすべて必要なくなる。
 これは殺人や傷害といった暴力犯罪に対しても当てはまる。人々は暴力を恐れる必要がなくなるだけでなく、犯罪によって生じる肉体的な被害もなくなり、同時に犯罪者を罰するための負担もすべてがなくなり、その分だけ、別の生産活動が行われて、社会全体はより豊かになる。
 こういったことを考えてみると、なるほど、犯罪行為というものが確かに反社会的であるということの意味が、直感的な倫理感情を超えて、論理的にもはっきりとしてくる。実際に犯罪は高度の害悪を社会に与えているのであり、「犯罪は悪であり、罰する必要がある」と感じる必要があるのだ。


道徳意識をもたないサイコパス
 犯罪は相互に破壊的な行為であるため、ヒトの大脳には犯罪を発見し、罰しようとする規範回路が発達してきた。あるいは同時にこの回路は、相手の立場について共感することを通じて、利他的にふるまうことも可能にしているかもしれない。
 もし社会規範を守り、他人にもそれを強要しようとするような回路があるとすれば、逆説的に、そういった回路が十分に発達しないような、何らかの先天的・遺伝的な異常もある可能性があるだろう。いや、むしろ、あると予測するほうが自然だ。
 これは道徳回路以外についてのほうが、はっきりと分かっている。
 例えば、人間が言語を操る能力は、極めてヒトという種に特殊的であるようだ。ゴリラやチンパンジーが複文などの高度な文章は作れないことについては、多くの識者の意見が一致している。これに対応して、ヒト大脳のブローカ野では文法的に正しい文章の作成に関連しており、ブローカ野へのダメージがあると、対話者の発言の意味は比較的よく理解できても、それに対して適切な文法構造をもつ発話を行えなくなってしまう。発話が不明瞭かつ困難に理由の一つには、ブローカ野が、ちょうど唇やのどなどの運動真剣に近接しており、話すために必要な筋肉の協調が難しくなることにあると考えられている。
 これとは反対に、ウェルニッケ野に損傷が生じた場合には、発話は流ちょうなままであるが、相手の発言の意味を理解することなできなくなり、意味の通らない発言をするようになることが多い。つまりウェルニッケ野は、言語の文法的な理解を可能にしている領域だと考えられるのだ。
 これと並行して、自閉症もまた対人的なコミュニケーションを受け持つ回路の、先天的な異常であると考えられることが多くなってきている。大脳には他人のまねをするためのミラー・ニューロンと呼ばれる特殊な部位があるが、自閉症のすべてを説明するわけではないとはいえ、自閉症患者には、この部分に異常があることが多いのである。
 このため、自閉症の場合、「〜してあげようか?」と質問されると「〜してあげて」と答えたり、相手が自分にさよならの手振りをすると、同じように自分に向って手を振ってしまったりすることがある。
 こういった特殊な回路に問題があるという考えは、大脳活動のイメージングや神経科学の発達によって急速に進歩した。今となってはちょっと信じられないことだが、1950,60年代には、自閉症は「冷蔵庫のような冷たい母親」によって引き起こされると考えられていた。親の養育方法という環境要因で極端に重要であると考えるのは、フロイト理論の影響を色濃く受けたものだったのだろう。これはしかし、当時の自閉症の親にとってはたいへんなストレスを与えるような人格攻撃になっていたといえるだろう。
 さて、本題に戻ると、道徳回路が、特化した機能を持つ脳の特定領域であるとしよう。すると、通常人がもっているような道徳感情が、遺伝的であれ、環境要因からであれ、何らかの理由からほとんど発達しない人がいることが予想される。
 こういった人々は、サイコパス、あるいはソシオパスと呼ばれ、主に犯罪心理学者によって研究されてきた。よく知られているのは、『診断名サイコパス』(原題『良心の欠如(wihtout conscience)』)という著作である。著者のロバート・ヘアは、カナダのヴァンクーヴァーにあるブリティッシュ・コロンビア大学の犯罪学者である。
 サイコパスの研究と診断については、クレックレーが16問からなる問診表を作ったことに始まる。ヘアはそれを20問に拡張して、より客観性を高めた。彼の質問群はアメリカ心理学会の公式人格問診表であるDSM−Vに取り入れられている。DSM−Vは、現在のDSM−IVから2011年に改正される予定になっているものである。
 サイコパスの典型的な例は、連続猟奇殺人者、大量強姦殺人者などに見られる。そういった人たちの多くは、犯罪を行うことや次々と軽薄な嘘をつくことになんら罪悪感情を持たない、あるいは、他人の感情に対する共感や同情をほとんど持たず、自分の立場から一方的に相手や社会状況を非難する、といった人格障害を持っている。
 ヘアによると、サイコパスが必ずしも犯罪者になるわけではない。犯罪に走るものも多いが、むしろ知的で会話がうまく、一般社会の中で、周囲の人々を傷つけながらも自分の立場をうまく保身して立ち回り、社会でも成功している人も多いという。
 こういったサイコパスというのは、利己性・衝動性の程度が弱くなれば、単なる自分勝手な人という程度の性格になる。人間には、他人に強く共感することのできる利他的な性格から、自分の都合しか考えない自分勝手ない人にいたるまでの、連続した人格スペクトラムがある。その中でもっとも利己性が極端な人々なのである。
 サイコパスは犯罪者になることが多いのは、もちろん極端に利己的だからであるが、犯罪は見つかれば、普通は自分の社会的地位をすべて失ってしまう。そのため知的な人間であれば、罪悪感からではなく、純粋に理性的・論理的な理由から犯罪をしないということも十分に考えられる。
 おそらく、これはもともとヒトが犯罪を忌避するような行動を進化させてきた状況論理を、知的に理解することを意味している。犯罪をすることは罰を受ける可能性が高いため、利己的な人間であっても、「犯罪は割に合わない」と理性的に判断するのである。だから、道徳感情が完全に欠落したサイコパスであったとしても、科学捜査が発達して犯罪検挙率が上がった現代社会では、合理的な意思決定から犯罪行為まではしないというのも、それほど不思議なことではない。
 犯罪に至らないまでも、日常生活において自分に有利な嘘をつきまくり、同時に他人の悪評などを聞き手を信用させてしまうというのはよくある話であるようだ。そういった「困った人たち」については多くの本がかかれているが、ヘアは

「精神病質がもっとも顕著なかたちで現れる場合、社会の規範を破るという非道な犯罪というかたちを取る。当然のことながら、多くのサイコパスは犯罪者だが、刑務所の外にいて魅力を振りまき、カメレオンのような才能を発揮して社会に甚大な被害を与え、破壊の爪痕をのこしていくものも大勢いる。
 社会の構成員でもあるこうしたパズルの一片は、全般に、人と気持ちを分かちあったり他人とあたたかな情を交わしあったりする能力に欠け、自己中心的で、無神経で、後悔の念のない人間というイメージをみずからつくりあげている。良心に押しとどめられることなくなんでもしてしまう人間と。ようするに、この病にかかった者にそっくり抜け落ちているのは、人間として社会の中で調和して生きてゆく資質なのだ。」

という。
 ヘアによれば、サイコパスの多くは、サイコセラピーを受けても、もともと自分の人格に問題があるとは思っていないため、望ましい効果があることはあまりないという。むしろ、セラピーの中で使われる言葉をうまく知的に理解して、「自分が着実に更生した」というもっともらしいウソをつくのを逆に助けてしまう結果、彼らの多くは保釈され、さらなる犠牲者を生むことになる。
 また、サイコパスは感情面をつかさどる脳神経系が未発達であることが多く、これが他人に対する共感の乏しさと関係しているのだと考えられている。脳科学的な知見としては、ヘアが指摘しているような脳波の異常も存在しているが、もっと最近のハリリなどによる研究によると、サイコパス扁桃体の活性が低く、感情の起伏に乏しいことが報告されている。おそらく、他人への同情や共感が発達していなということなのだ。
 私のサイコパスの存在に対しての、進化論的な究極の理由づけは、ヘアが社会生物学者の説として紹介しているものと同じである。サイコパスとは、周囲のほとんどの人が道徳回路を持っている場合に、それらの人々を食い物にして生きるという、頻度依存型の適応戦略なのだというものだ。他人を虫けらのように殺たり、搾取したりしながら、その言い訳をウソをならべながらつける人は普通はそんなにいない。そのため、彼らはその行動にも関わらず、一定の人々から逆説的な共感をもって迎え入れられる。そして、その人たちから、さらに奪うことを繰り返すというわけである。
 この仮説は、サイコパスが男性に多く、その魅力的な外見や流暢な軽薄なウソとホメ言葉によって多くの女性をたぶらかしながら、子供ができると妻子ともに遺棄しているという事実にも間接的に裏付けられるだろう。進化の流れにおいては、どういった理由であれ、子供を次世代に残すような資質は、次世代の遺伝子プールに引き継がれることになる。
 ところで、もっと一般向けの本としては、マーサ・スタウトの『良心をもたない人たち――25人に1人という恐怖』がある。良心をもたない人間が存在することに対する彼女の意見は、戦争などでは共感のない兵士のほうが効率的な殺し屋になれるという利点があるからだろうという。
 だが、私はこの意見にはあまり賛成ではない。私の理解では、ナチスの将校や旧日本軍の行為などを見れば明らかなように、戦争などの極限状況では、本当の常人でも十分に残虐になれる。マイナーな存在であるサイコパスには、もっと日常的な利点があるに違いない。
 同じように、精神科医のスコット・ペックによる『平気でうそをつく人たち――虚偽と邪悪の心理学』もよく知られているサイコパス関係の著作である。ペックは精神科医だが、ウソを平気で付くような人格の陰には「悪魔」がいるという。ストレートにキリスト教の伝統に従った解釈である。
 もちろん、こういった例は日本の著作でも『サイコパスという名の怖い人々−あなたの隣にもいる仮面をかぶった異常人格者の素顔とは』や、あるいは『サイコパスのすべて――山崎正友の「捕食」人生』などに詳しく描かれている。中身はちょっとしたB級ホラーのような内容なのだが、こういった報告を読むと、サイコパスは日本にも数多くいることは間違いない。
 私自身もカリフォルニア大学で教務助手をしているときに、毎回オフィスアワーに訪ねてきて、自分の置かれている状況がいかに大きな問題を抱えており、自分がすべての課題から逃れることが正当であるのかばかりを強調する学生に出会った。彼は、すべての課題についてそういった主張するため、その評価に大変に困ったのである。
 同僚との会話から明らかになったことは、彼の話は非常に誇張されていて、客観的な記述だとは到底思えないということであった。結局、彼の主張は適度に間引く形で処理せざるをえなかった。
 すべての状況を自分の都合がよいように解釈し、それを自慢しながら、都合が悪い他人を徹底的に人格非難するという異常人格を持つ人は、どんな社会にも少なからずいる。上述した書籍などでは、そういったサイコパスとの生活訓も指南している。
 簡単にいってしまうと、残念なことだが、彼らの行動や性格を説得などによって変えることはできない。サイコパスであることに気づいた場合は、なるべくその人との関係を深くしないで、彼らから離れるに限るということらしい。


 
ベキダとデアル:再論
 この章では、犯罪のような明白な禁止行為類型について、どうして我々のほとんどがそれらを嫌悪・処罰しようする感情を持ち、同時にそれらを禁忌行為としてさけるベキダと考えるようになっているのかを説明した。
 それは、基本的に「犯罪行為をしないベキダ」、あるいは「犯罪は罰せられるベキダ」と考えるような心理機構を持つ個体が、そうでない個体よりも適応価が高く、より繁栄することができたということであった。
 犯罪に対する否定的な感情のような非常に基本的なベキダは、言語能力のようにほとんどすべての人に生まれつき備わっており、それはすでに、もともとそういった心理機構を発達させた状況論理とは独立したものになっている。
 これは例えば、飽食の飼いネコが時折見せるネズミやスズメなどに対する殺傷行動を見ればわかる。人に飼われているネコは、食べものとしてはネズミを捕る必要がない場合でも、小さなネズミやスズメを捕まえてなぶり殺しにしていることがある。ネコには、そういった捕獲殺傷の本能的なメカニズムがあって、直接的に食料として必要ではない場合にも、行動が発現するということなのだ。
 あるいはまた、女性のファッションへの興味や、化粧といった活動も同じように考えられる。進化の状況の中で女性が自らを着飾るのは、男性に対しての魅力を高めるためであったことは疑いないだろう。しかし、現在の女性心理においては、男性の目がまったくないような場合においてさえも、ファッションや化粧それ自体を楽しむようになっていることも間違いない。
 つまり、ある種類の行動が、状況的に長期にわたって安定的に必要であったとしよう。その場合、進化の過程を通じて、個体の中にはその行動のための心理的・神経的な回路が進化・発達する。そして、個体の置かれた状況と、過去の状況とは大きく異なっている場合でも、すでに遺伝的にプログラムされた行動はそれ自体が自己目的となって、不必要であった場合にも発現するのだ。
 ちなみに、進化生物学では前者を「究極ultimate」の要因と呼び、後者を「至近proximate」の要因であるという。これについての理解しやすい一例には、体内のホルモン濃度を変えることによって、行動が変化する場合がある。例えば、男性の攻撃性が高い至近の理由は、体内にテストステロンという男性ホルモンの高濃度に分泌されるからだが、そもそもなぜ男性がテストステロンによって攻撃的であるのかについての究極の理由は、男性が性的な競争の中で暴力的である必要があったからなのである。
 前述した道徳哲学者のカントは、道徳律は自然界の現象とは全く独立の世界を形成しており、道徳感情をもつ者だけに特殊な地位を認めようとした。あるいは経済学の父アダム・スミスもまた、『道徳情操論』を著し、人間は道徳感情に基づく共感という、独自の美徳を持つと主張している。
 彼らが長い思索の末に結論付けたように、我々の道徳感情は、すでに過去の功利主義的な状況論理からは完全に独立して、それ自体が独立した価値観となっている。私はこのことを事実として疑わないし、感覚的にも確かに独立していると感じている。
 逆説的ではあるが、だからこそ、ベキダという概念はデアルとは独立して、個々人に特有のものなのである。つまり、現在の状況であれ、歴史的、あるいは進化的な状況であれ、いかなるデアルからも、現代に生きる個人レベルのベキダを導き出すことはできない。
 この二つの観念は、発生において相互に関連はしているが、しかし現在の存在としては完全に独立しているのである。このことは、次のような状況を考えれば、その問題ともどもよく理解してもらえると思う。
 ここに、「殺人は素晴らしい行為であり、我々はお互いに常に殺人、あるいは決闘をしあって、その結果、生き残ったものが、世界のすべてを支配するべきだ」という倫理観をもつ、(おそらく、いや間違いなく)男がいたとしよう。お気楽なたとえとしては、北斗の拳ラオウのような人物を考えればいいだろう。世界を己の実力、あるいは武力で支配するのである。
 我々は、彼に対して、そういった価値観、あるいは彼の信じるベキダが「どうして生産的でないのか」、「なぜ他の人々の生活にとって破壊的であるか」というデアルについては説明することができる。しかし、なぜ「道徳的、倫理的に間違っている」のかというベキダの点について説明、説得することは決してできない。
 ちなみに、トドやライオン、ゴリラなどのオスは、メスのハーレムを基本的に支配しているが、その支配者はオス同士の直接的な決闘において決められる。これは、まったく北斗の拳の世界そのものである。おそらく、彼らの心理においては、ハーレムとメスをめぐる争いは「聖戦」であって、そこにはヒトの感じる左翼的な平和主義の入り込む余地は、まったくないのではないだろうか。
 人間においても、一人ひとりの心の中にあるベキダについての信念は、その先天的・後天的に形成された神経回路から生じるものである。それについては、どういった状況的なデアルの説明からも、彼の感じるベキダの世界における「ある行為は道徳的に正しい」という結論は、論理的に否定することなどできないのだ。
 こういった破滅的な倫理観に対しては、よく社会契約論の立場から、「そういった倫理観では、社会は成り立たない」、あるいは「そういう道徳では、あなたも危険にさらされるし、生産的でない」という反論が為される。しかし、これは確信的な破壊的倫理観を持つ者への説得を考えれば、完全に的外れであることがわかるだろう。
 ベキダを直観させる倫理観は、すでに我々の心の中で、デアルからは完全に独立した実体をもっている。生産的でない特殊なベキダの信念を持つ個人は、通常の社会的状況において成功することはないかもしれないが、それでも過去の特殊な状況へ適応していたことはあったかもしれない。そのために、そういった変異的な倫理観の持ち主が現代社会に存在する可能性はあるだろう。
 その一例が、前述のサイコパスその他の異常人格なのだ。あくまで。ベキダとデアルは異なったものであり、それは犯罪行為のような多くの人にとって疑う必要のない、「悪」についてさえもあてはまることを理解しなければならない。
 つまり、我々の心の中に、共通の画一的な道徳感情があり、それはすべての人間にとって同じであるはずだというのは、一つの幻想なのだろう。猟奇的な犯罪が報道されるたびに、マスコミでは、繰り返し「加害者の心の闇の解明」を関係機関に要求し、同時にその原因を「現代社会に内在する病理」に求める。
 それはそれで、平均的な倫理的直感を持っている読者・視聴者には受けるのだろう。同時に、「ベキダ>デアル」の章で詳しく述べるように、マスコミ従事者の行動戦略としては、自分たちの存在意義と地位や収入を高めるという点で、猟奇的事件の現代性・特異性を宣伝するのは、大変に合理的なことである。しかし私の正直な感想では、例えばかつてのサカキバラ事件のような完全に常軌を逸した犯罪については、何らかの社会的な制度や矛盾が犯罪につながる「加害者の心の闇」を作り出したとは到底思われないのである。