こんにちは。
今日、大学で学生から質問を受けました。「なんで会社に入るのに、実際には役に立たないテストを受ける必要があるのか?」 興味深いので、このポストでは質問を一般化して、「なぜ、社会でテストが重視されているのか?」 というものに変えて考えましょう。
おそらく過去にも書いたと思いますが、ズバリ言って「テストの具体的な内容は、なんの役にも立たなくても、テストを通じて知的な能力と性格を見るのに役立つからです。」
入試の内容(特に社会科)なんて、全くのムダ。それはわかっていますが、
1.まずは擬似的な知能検査にはなる。回答の速さ、正確さなどは教科テストと、IQテストで高く相関しています。
2.それだけではなくて、会社に必要な作業という面白くもないことを根気よく続けるという真面目さconscientiousnessを測るのも役に立ちます。
だから会社は偏差値の高い大学から優先的に学生を採るのです。
3.ついでに、不条理の横行する日本の企業社会では、体育会出身であることも重要なポイントです。先輩後輩関係がバカらしいものであればあるほど、従順な性格を意味しており、会社にとって都合がいいからです。
これらの条件を満たす学生が優先的に採用されます。日本の企業は個性なんて求めていません、勘違いしないように。
こうした事実は、社会のあるべき方向としては否定したいところですが、日本人のメンタリティを前提とすると極めて「合理的」です。こうした望ましい特性を統計的に選び出す差別を、経済学では、統計的差別とか呼んでいます。これにはアローやベッカーなどからの長い伝統があります。
まあ今でも、例えば、女性は実際に結婚、妊娠出産によって離職することが多いので、会社として、あるいは教育機関として採らない(e.g.日本医科大学)というやつですね。
さて、こうした差別に「合理的」な理由があるとして、どう考えるべきなのかはボクにはよくわかりません。まあアエラのように「学歴偏重はなぜ?」などと書きながら、朝日新聞社には東大卒ばかりというのはよくある欺瞞の典型ですwww
興味深いのは、これが社会の問題とはみなされない程度に本能となるなら、人びとはもう問題とは思わなくなること。例えば、「なぜ背が高かったり、顔が美しかったりすれば、異性にモテるのか」という問いにしてしまうと、不合理も何も問われなくなって、単なる本能、あるいは当然ということになります。
(これらは生物としてのヒトの性選択であり、動物界に普遍的に見られる行動の人間ヴァージョンだからです。これも疑うことができますが、それを主張するのは、おそらく筋金入りの構築主義的社会学者だけでしょう。あるいはフェミニスト?? 高名なる上野千鶴子先生 )
脱線しましたが、つまり、ある区別、あるいは差別には大体の場合に「合理的」な理由があります。例えば、中国人を侮蔑する日本人にだって、あるいは日本人を軽蔑する韓国人にも、排他主義という合理的な理由が存在しています。しかし「それが望ましい」のかは、また別の問題です。
もう一度 よくよく考える必要があります。何が「合理的な区別」であり、何が「不合理な差別」なのか? 単なるレトリックに流されて、人の価値判断の受け売りをしているのではありませんか?
_