kurakenyaのつれづれ日記

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「積極的な」自由とは??

こんにちは。

 

自由という概念の区分として有名なものに、消極的自由と、積極的自由という二分法があります。こうした自由論で有名なのがアイザイア・バーリンでしょう。

 

 

自由論【新装版】

自由論【新装版】

 

 

 

さて高校のときには、こうした2つの自由論に納得していた(というより、丸暗記していただけww)のですが、いったん大学で古典的自由主義を知ると、どう考えても考えてもオカシイ。当然今では、積極的自由というのは言葉の遊び、というかレトリックというものなのだと理解しています。

 

で、バスティアのどこが良いって言うと、すでに1850年に消極的自由しか、自由ではありえないというテーゼを完全に展開していることです。ボクがバスティアを知ったのは、帰国して自由な時間ができたので、オーストリア学派を読むようになってからです。それまでは新古典派(というか数学モデル)ばかり読んでいたので、古典的自由論がバスティアまで遡ることを、単純に知らなかったのです。

 

なんで1850年という時点で、こんなに明快に自由論を展開し、公共政策も否定し、一般均衡についても先取りしているのに、現在の経済学にはまったく引用されないんだろう?? とても不思議なので、まあダラダラと適当に翻訳したりしているわけです。

 

考えてみても、その後の200年近い経済学の中で、本質的な議論が進んでいるようにはまったく思えません。いや、完全にくるくると繰り返しているだけではないだろうか。

 

ただ、「正義」という概念は難しい。「美」と同じで、単なる同語反復に陥るのは当然です。つまり言葉に主観的な色合いが強すぎるので、価値判断のみずかけ論になってしまうからです。

 

でも少なくとも、どういった公理系=議論の前提から出発するのかは、明確にすべきではあります。そうすれば、個々人の正義が異なる理由は明らかになるし、相互に感情的に「納得」することはできなくても、知的に「理解」することは可能だからです。

 

おそらくバスティアの「法」は、少しでも積極的自由を認めたい人には、まったく納得できないでしょう。でも、理解はできると思います。ちょうどボクが積極的自由の概念を理解できるように。

 

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