kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

偏見はもちろん不合理だよ by definition

そういえば、京アニ事件を思い出したので、一筆。

 

近代の啓蒙主義や合理性という概念は、もちろん多様性を内包しているのだろうが、それでも「理性」に照らして各種の活動の意味を判断するという点では一致しているだろう。

 

常識的な平等主義の要請からすると、社会的弱者、例えば障害者などへの偏見は「合理的ではない」ということになる。しかし、実際にはほとんどの「偏見」には、むしろ合理性がある。

 

例えば、京アニ事件は 統合失調症患者による被害妄想から引き起こされた。このことが、まったく報道されていないのは奇妙すぎる。偏見の助長という恐れが、報道の自主規制を生んだのは疑いないが、それってアリなの?? 日頃は「市民の知る権利」をうたうマスコミが、自分たちの都合が悪い事実は隠してもいいわけ?? それって国民をバカにするエリート主義ではないの??

 

実際、統合失調症の男性の暴力犯罪率は、健常者に比べれば圧倒的だ。どの研究を見ても、少なくとも5倍を超えている。例えば、

 

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2606714/#targetText=1.,offending%20among%20persons%20with%20schizophrenia&targetText=The%20risk%20of%20a%20violent,Brennan%20et%20al.%202000).

 

これは別に秘密でもなんでもなくて、犯罪学や心理学をほんの少しでもマトモに勉強した人たちには、よく知られている。常識的に考えても、一般的にある種の猜疑心が別人格を構成している場合がもっとも普通なのだ。自分を攻撃する幻覚・幻聴から周囲の人間を攻撃するというのは、ひじょうにありそうな心理機序である。いや、そうじゃなかったら不思議というものだろう。

 

(実際に、ボクの人生でも同僚が突然に暴行を受けている。あと余談だが、おそらく陰謀理論というのは、誰もが持っているような潜在的な猜疑心から支持されているのだと思う。)

 

さて、「実際に」犯罪率が高いのは事実だが、ところで、そういった「偏見」は合理化されるのかといえば、ボクにはよくわからない。そもそも偏見という呼び方そのものが価値判断を含んでいて、「望ましくない見方・好ましくない思い込み」という意味が含まれているからだ。よって論理的には統合失調症患者への警戒は「偏見」ではなくて、ヒトに組み込まれた自然な反応なのだ。しかし、現代の平等カルト思想からすると、そのような反応は不合理で、根拠がないとか教えられる。

 

まあ こうした平等カルトが望ましいと考えるかどうかも難しい。おそらく庶民の知性をバカにしている人ほど、「そうした考えは危険だ」というし、それはそれで正しい部分もあるだろう。

 

もっと微妙な問題は無限にある。離婚をした親を持つ子供、軽犯罪を犯した少年や非行少年を望ましくないと感じること、各種の障害者を忌避しようとすること、果ては美女、イケメンを好むことだって公式見解では不合理なのだろう。実際には、どのような人間の性質や活動にも、ある程度の遺伝的な基盤がある。実は、とても合理的なのだ。

 

さてこうした「合理性」の定義には納得しない人も多いだろう。

 

ここでこのことをよく考えれば、合理性という言葉自体が、また「望ましい考え方」というような価値判断を含んでいることがわかる。そしてさらによくよく考えれば、結局は、近代の啓蒙思想全体が1つの神話体系であることが了解されてしまう。(もちろんボクは啓蒙思想が好きだが、)ハテサテ、どこまで近代的な価値観というものが強制されるべきなのか、望ましいのかはよくわからない。

 

ああ無情! 自然の状態・実態と、その望ましさとは、まったく(論理的に)無関係なのだ。