今日は昔のゼミ生(すでに30才)と8年ぶりに会って、話した。その中で、彼が
「スピリチュアリティは、魂の存在を通じて、人を裏切らないと言う意味で、望ましいんじゃないのか?」
という通説を語ってくれた。僕はそれに対して、
「じゃあ、もし裏切っても地獄に落ちなんだったら、裏切るわけぇ?? 僕は人を裏切らないのは、単純な道徳な義務であって、それが地獄に行くからとか、仕返しをされるから、とかいうからだとは思わないなぁ。もし、そう思うとするなら、それは裏切らない行為をするのは、地獄に行きたくない、という損得勘定をしているからだということになるよね。僕はそういう考えは、嫌いだなぁ」
と返した。カントの義務論になるだろう。ここには、明らかに、功利主義や合理主義、義務論、その他を含んだ哲学的な議論があるが、僕は、ドーキンスに賛成していて、死後の世界はなくても、魂はなくても、人を裏切るのは良くないと思うし、裏切らないことからの(単なる個体の精神的な)利益を得ることの方が、まだマトモなんだろうと感じている。
むろん、こうした問題はアポリアであり、誰にも良い答えはないかもしれない。でも、僕は「人間の魂や霊魂、あの世も、何も要らない。進化の力が、自分の親族やDNAの増殖を通じて、僕の倫理性をもたらしたのだ」と考えるほうが、よっぽどスッキリするし、知的にスリリングでもある。
気が向いたら、明日は僕のultra non politically correct な西洋礼賛について書きたい。
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