- 作者: チャールズ・マレー,橘明美
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 2013/02/21
- メディア: 単行本
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チャールズ・マレーの本は「ベル・カーブ」以降は読んでいたのだが、この本について書きたくなったので、今日は少し書いてみよう。
マレーの指摘によると、アメリカの白人のIQ上位5%が住む架空の街ベルモントでは、ほとんどが結婚し、子どもを育て、離婚をせず、投票に行き、信仰を維持している。反対に、下位30%が住むフィッシュタウンでは、半数以上の子どもが片親に育てられ、半数以上が離婚をしており、半数が投票に行かず、30%が失業手当や障害者給付などを得て、ブラブラしたり、テレビを見たりして過ごしている。
ベルモントの住民は自分たちにとって住みやすい価値観を共有しているが、それをフィッシュタウンの住民にまで押し付けようとはしない。結果、アメリカの財政は破綻しつつある、ちょうどヨーロッパのように。それは、人生を有意義なものにするための努力を放棄することを国家が許して、生きがいを奪ってきたからなのだ、と。。。
さてボクが感じる所では、最後の主張を除いて、その通りだと実感している。それはアメリカに限らない話で、地球のどこでも同じなのだと思う。
最後の段があまり納得出来ないのは、物質的に豊かな社会はほとんど必然的にこうした状態になるんじゃないか? とボクが感じているからだ。豊かさは、必然的に再分配的な政府を要求・許容し、同時に、働きたくない人たちは働かなくなるのではないのだろうか?
さてこの本に関連した所で、ちょっと話しを広げてみよう。
保守主義者というのは、定義によって現状維持を望む人たちだ。とすると、ボクの人間認識は(マレーと同じように)現状の多くが変えられないものだと考える点で、保守主義のそれだと言えるだろう。
結局、人は誰しも、自分の持つ世界観の前提が、少しずつ異なっている。マルクスの時代には「あり得る」と考えられたことも、今は「あり得ない」と判断されることもあるだろう。それは、ある種の人間行動の利己性、教育の無限性の否定、などなど。
では、別の一例として、ボクはマレーの世界観とどこが違うのか? といえば、彼がキリスト教などの信仰を人間性の不可欠な一部だと考えるのに対して、ボクはそうは考えていない。もっとラディカルに合理主義、科学を突き詰める方が自然だと思う。
とは言え、多くの論文によって「信仰を持つものは持たないものより幸福である」「人生にも満足している」ことは示されている。この事実をどう解釈するべきか? ドーキンスは「信仰と神への崇拝に代えて、自然の神秘をwonderすればいい」と言うし、ボクもこれに同感だ。
しかし、人間性や知性が今あるものであるならば、それは難しいようにも思う。つまるところ、どういった科学論文も教科書も、聖書やコーランほどには熱意を持って読まれていない。ということは、自家撞着=ホコタテ?? という難問を提示して終わりにしたい。
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