kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

大学の会社化

ボクがいつもフシギに思うことの一つには、
なぜ教育機関が会社経営になっていないのか? というものがある。


教育ということそのものが営利目的の組織には難しい、あるいはcompetitive advantageがないのだ、という考えは最初に思いつくが、これは一体本当なのだろうか?


教育というと、普通は何か特殊な人格教育のようなものを考えるかもしれないが、少なくとも、高等教育である大学ではクラスもないし、あるのは特殊な知識の伝達と、そこに集う若者同士の交流であるのみだ。まちがいなく、ほとんどの大学教員は、学生と別段の人格的なレベルでの接触をしていない。


フシギさを一層感じさせるのは、ボクも含めて大学教員という人たちが、所属組織の明確なヴィジョンを持っていることもないということだ。ボクの見立てでは、半数ほどが昔からの大学教育の理想像にこだわって、学生への不干渉主義を標榜している。中世からの学術の伝統を考えれば、これは尤もな姿勢だ。知的に恵まれた学生層を抱える大学は、これでいいように思われる。


残りの半分ほどは、もっと学生の生活指導をするように心がけ、大学の初等教育化、保護施設化を訴えている。これもまた、現実の私学の学生層の学力低下を考えれば、なるほど、もっともな意見だ。


もちろん、これらを混ぜた考えや、あるいは全く他のやり方や、指針も存在するかもしれない。どちらにしても、大学教員は経営のプロでもないし、自分の業務以外には興味もないのが普通だ。とすれば、大学経営はプロに任せて、研究や教育に専念するというやり方のほうが、分業としては効率的であるように思わる。


あるいは、現状でこれを阻んでいるのは、教育の受け手の父母が、こうした大学への信頼を寄せていないからのように思われる。しかし、こうした状況は永遠に続くのだろうか? アメリカでも大学はまったく会社化されていないから、こうした中世以来の大学制度は永続するようにも思われる。 が、ここで、病院経営を見ると、また違った風景が見えてくる。


アメリカの病院、スウェーデンの病院、ドイツの病院では、どれだけが営利企業によって経営されている。タイのメディカルツーリズムでも、病院は会社が経営している。とすると、今後はこうした流れが主流化するのではないのだろうか? 


それにつけても、今ウェブをザッピングしてみると、全般的な医療の神聖視には驚かされる。本当に多くの医師やジャーナリストが、会社経営による病院を侮蔑・否定しているのだ。


おそらく、これがシステム1=直感の結論なのだろう。金儲けの目的=結果も悪い、という、ごく人間的な常識の結論。


これを越えるのは現存の人類では難しいようだし、これから次第に低下する知性となるヨーロッパ人にも、今後ははるかに難しくなっていくに違いない。





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