kurakenyaのつれづれ日記

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自然権思想という公理系

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先日のLysander Spoonerの話ですが、ちょっとボクの書き方が間違っていてすいません。もともとの treason反逆 の由来は独立戦争ですが、彼が19世紀中葉のアメリカでの著作で言いたかったのは、

 

「合衆国憲法に対して、法的な契約書として“実際に”署名したアメリカ人は誰もいない。とするなら、合衆国政府に対して敵対的な行為をしたとしても、それは反逆ではなくて、単なる公然の敵対行為である」

 

 

ということ。ここで“反逆”というのは「自分が相手と同盟関係にあると見せかけ、その信頼を裏切ることである」と定義されます。もともと合衆国政府と契約したヤツなんていないんだから、単なる強盗団(政府)に対する反対活動をしても、それは自分の自然権を守っているだけ、というものです。

 

 

同時期に、フランスにはプルードンがいたのですが、それは集産的な無政府主義。まあプープル主権みたいなもので、実際には、所有権なんかをどう考えるのかは曖昧なままです。ロシア革命でもそうですが、実際には革命委員会の委員長のもの、というのが正しいのでしょう。

 

 

これに反して、スプーナー的=個人主義的な無政府主義は間違いなく、彼が最初だったわけです。

 

 

結局、問題は「何が究極的な前提なのか?」という点。これは数学で言えば、公理系の違いであり、「国家からスタートする」というのが、おそらく普通でしょう。この場合、「王国か、あるいは共和国か、共和国なら、どうやって代表を決めるのか、直接・関節民主主義、有権者は誰か」などの議論になります。

 

 

そうではなくて、「まず個人の自然権、つまり表現などの精神的自由、契約や営業などの経済的自由がまずあって、それを遮るものは存在しない」という公理系からスタートすると、まずもって抑圧的、あるいは包括委任的な政府はすべて否定されるでしょう。

 

 

多分ロック的な自然権思想を突き詰めるとスプーナーになり、ホッブズのように「秩序のためにリヴァイアサンが出現する」と考える人がノージックです。多くの常識人は、国家は個人とは独立の実在であり、政府がすべての個人活動を制約できるのは当然だと考えているので、おそらくそもそも、方法論的個人主義にも立脚していないのでしょう。

 

 

ということで、理屈がおかしいとか間違っているとかではなくて、おそらく公理系の違いがあります。ユークリッドロバチェフスキーみたい。つまり議論が噛み合うはずがなく、それ以上に重要なのは、議論している(と自分たちが思っている)人たちが、そうした前提の違いを認識していないことなのです。

 

 

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