kurakenyaのつれづれ日記

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日本の国語教育はクソだ!

僕は職業柄、年間7日以上も大学入試監督をしているが、暇な時間には問題を読んでみることもある。国語の問題を読んで、その何が嫌かっていうと、エラい短い文章の断片を読ませた後に、

問? 下線部4について、この時 筆者の心境に最も近いものを次の中から選びなさい。

みたいなクソな問題が多いこと、多いこと。


わずかな文章の行間から読み取れる、土人の共通了解を問う、あんまり知性とは関係の無さそうな問題と、それを支える少ない文章の量。1時間あるなら、少なくても10ページくらいは原文を読ませないと、、、、


そもそも国語教育では、覚えるべき単語も、文法も、論理の整合性さえもなんら系統的に教えられていない。やることと言ったら、過去の「偉大な作家」の流麗な日本語作品を読むというだけだ。だから、「国語は勉強しても、ムダ」などと、ぼくの頃からの受験常識ができ上がってしまうのだ。


対して先日、僕の学生がTOIECを受けてきて、「文章を全部読む時間がないのに驚きました」、と言ってきた。
そうだ、それなんだよ!! 


欧米の英語は多読速読をベースにしていて、問題が出る。ところが日本では、大学入試まで徹底的に甘やかされて、わずかな文章しか読まないから、実社会に出た時に必要な、正確かつ早く読むという情報処理の必要性、重要性がまったく理解できないのだ。


だいたい、センター入試でも国語の時間はあまりにも長いために、多くの学生が最後の時間をボーッと過ごしている。寝ているのもいるほどだ。なんで、もっと問題を多くしないのか、どうして「時間がなかった」というわけのわからないクレームを恐れるのか?


さて昨日 図書館で週刊東洋経済を読んでいたら、子どもの教育のためにマレーシアに移住、という話題があった。なるほど、マレーシア、シンガポールのイギリス式の教育には魅力がある。


日本で教育を受けても、日本人社会の一員となるパスポートは手に入るが、実体的な知識や訓練は伴っていないことが、多くのエリートビジネスマンは骨身に染みているのだろう。僕だって、そうした所得があるなら、ぜひとも子どもには英語での教育を受けさせてやりたい。


この問題は、地区の教育委員会、御用国語学者保守主義者の既得権益とも深く関わっていて、簡単には変化しないだろう。


とはいえ、インドやフィリピンで英語を話すことが高学歴の証明であるように、日本でも近いうちに灘や開成の学生の多くがアメリカ大学に流れて、英語を理解するのは主に知的なエリートで、オンリー日本語使用者はドメスティックな公務員と低学歴者という風になっていくのだろう。


今世紀の終わりにそうなっていないはずはないだろうが、果たして僕が死ぬ30年後にそうなっているのだろうか? 孫の成長が見れるなら、意外と早く常識はそうなっていることを祈りたい。



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