ハイドの研究では、リバタリアンはリベラルとほとんど同じモラルの軸を持っていて、それは「自由・抑圧の否定」と、「加害の否定」だという。しかし、リベラルは共感を持っているが、リバタリアンはコンサバ以上に、共感を価値観だとしないのだという。
おそらく、政府の活動に否定的かどうかが、リベラルとリバタリアンを分けるているのだと思う。
リバタリアンは、アメリカでは共和党と一緒に活動することがほとんどだが、共和党の多くがキリスト教に帰依している点では、真逆になっている。
この点、面白いと思うのは、多くのリバタリアンが、まさに市場を「信仰」していると感じられる点だ。この点では、保守的な思想というのは、所有権論リバタリアンと比較的に親和的なのかもしれない。
僕は市場が常に最高の結果を与えてくれるとは思ってはいないが、それでも政府よりはマシなのではないかという実感からリバタリアンになっている。だから、効率市場仮説を始め、市場は完全だ、というような説を聞くと、むしろ不合理を感じてしまう。 市場を政府が出し抜くことはできないというだけだろう。
おそらく、完全なものはプラトンのイデア世界にしかなくて、我々の現実世界には不完全なものを比べ合うしかオプションがないのだろう。
リバタリアンな社会では、信仰も自由であり、そうした信仰集団が発展するのなら、自発的に参加すればいい。そうしたメタ・ユートピアこそが、真のユートピアだと思うのだが、、、、
なぜ、人は自分の価値観を他人に押し付けずにはいられないのか?? それが悲しい。