kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

日本のリバタリアン 越後和典

最近はあまりブログを更新していないが、近く いくつかの英文学術論文を発表するために、ほとんどの時間をさいてしまっているため、僕的にはやむを得ない。スイマセンm(__)m


ところで、僕の先達とも言えるリバタリアンの一人に、50才過ぎからオーストリア学徒となった、滋賀大学名誉教授の越後和典先生がいる。ウェブでもいくつもの論文が読めるが、彼の知性の本当に素晴らしい点は、アメリカの学術の流れとは大分離れたところから、自分の力で、「人間の能力の開放のためには無政府しかない」、という結論に辿り着いたという点だ。


もちろん、ロスバードやホッペなどは参考にしているのだが、そうした文献も、そもそも彼の知的な探究心の結果として邂逅したものであり、「自分の先生が言ったから」というような安直なものではない。この点は本当に尊敬している。


今日、越後先生から手紙をいただいた。昨年の暮、アナーキズムの英語書籍をいくつか推薦したのだが、もう高齢のためにそれらの書籍を通じての研究は続けられないとの、やや悲観的なトーンであった。しかし、同時に未来のリバタリアニズムへの熱い思いが伝わってきた、ジーン。


僕は今、「知能や人間の家督能力がどの程度、そもそも遺伝的に与えられているのか」という科学的な命題と格闘しているが、いつかまた、その知見を利用してリバタリアニズムに立ち戻りたい。人間は平等には生まれていないが、それを前提にしても自由それ自体に大きな意義があるということを示したいと思っている。


自分の「ベキダ」に都合のいい「である」を採用するというのは、人間の陥りがちなワナだ。それは自然と我々の論説に忍び込んでいるのだが、よほど注意すべきことであると思っている。


ともかく、僕も人の子なので、敬愛する人にはできるだけ長く健やかに生きてもらいたい。皆さんとは、越後先生の今後とものご健勝を祈念したい。



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