kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

group selection を肯定すると、

Heidt は人間には6種類の道徳的な価値観があるという。

1、共感・加害

2、自由・抑圧

3、公平

4、忠誠・裏切り

5、権威・服従

6、神聖・堕落


リベラルは、圧倒的に前半3つの基準のみを使っている。1の共感・加害のモラルを使っており、2、3でのマイノリティの抑圧を問題視し、公平を実現しようとしているという。後半の3つは、合理性にそぐわないとして、否定する傾向がある。対して、コンサバはもっと合理性原理を重視せず、超自然を信じている。4によって、集団への帰属意識を重視して、5,自分のグループへの権威に忠誠を誓い、6,それが神聖なものであると信じているのだという。


ハイドの主張の中で、僕にとってだいぶ驚きだったのが、彼は個体の淘汰だけでなく、群淘汰もまた人間の進化には重要であったという、David Sloan Wilson の説を受け入れていることだ。進化論に詳しい人は知っているように、この群淘汰の考えは生物学者にはきわめて受けが悪い。少なくとも、1966年のウィリアムズからの20世紀中は。


しかし、このことをよく認識していながらも、ハイドは、他人の意図の理解と協働(白目の発達)などの、人間に独特な目的の共有された活動の進化、集団によるテリトリーの防衛の重要さ、農業革命以降の協力の重要さの増加によって、ヒトには集団淘汰があったのではないかという。


また、宗教に見られる、見えざる神や自業自得などという観念は、社会内の欺きを抑制し、協力も促進しただろうという。この文脈で、ここ10年のドーキンスデネットなど New Atheist の、宗教はby-product, あるいは parasite だという主張も否定している。


さて、宗教の意義はさておき、僕もまったく同感するのは、1万年も宗教が支配的な社会が続けば、それに適応した遺伝子が残るはずだ、という、遺伝子=文化の共進化が起こっただろう可能性だ。宗教ができてもう長らく経っているはずで、そうすると、すでに宗教的な遺伝子配列をもつ人間は、圧倒的に有利な立場にあるはずだ。



ということで、Heidtの主張は、コンサバのほうが宗教性を含むすべての道徳観を使っていて、人びとの支持を得ることが多い。対して、リベラルというのは、西洋的な高等教育を受けた、民主主義者(Western, Educated, Industrial, Rich, Democratic: WEIRD)に多いのだということになる。


なるほど、保守的な人びとは日本でもイスラムでも、土着の伝統を重視していて、あまり普遍的な原則にこだわってはいないようだ。そこは、僕にはまったく納得できなかったことだが、そうした普遍性への希求は、必然的に自由・共感以外にはないということなのだろう。


さて、結論として、ハイドは、「人間の幸福を増進するためには、宗教的な集団への帰属が重要である。なぜなら、人は集団として生きてきて、淘汰されてきたからだ」、という。あるいは、そうなのかもしれない。


僕のような変な人間はさておき、デュルケムもいうように、多くの人は安定して帰属する集団を持っていたほうが、精神的にも安定し、また幸福でもあるのだろう。デュルケムは、社会規範の存在しない社会は、アノミーであり、混乱によって人びとはむしろ満足度が下がってしまうとした。つまりは、啓蒙主義者のいう自由などというのは、限られた人しか求めていないということになるだろう。


ある程度の学術研究が示されているので、この点は否定しようがない部分もある。そうすると、例えば、自由貿易にしても、反対する必然性はあるのだろう。日本人がコメを輸入しないことで、彼らの物質的な幸福は減少しているが、しかし精神的な幸福は増大して、余りあるのかもしれない。


こうした集団主義を国家が行うのはどうにも賛成しがたいのがリバタリアンなのだが、もう少し、この問題について考えてみたい。