kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

typeAさんへ

今 LJPでのtypeAさんからの宿題を読みました。


警察に民営化が起こるとするなら、それはちょうどNTTが民営化して、いくつかの通信会社がライバルとして市場参入した場合とおなじになるのではないかと思います。おそらくは、より低価格と、顧客の要望への真摯な対応という戦略や、あるいは富裕者層への手厚い警備という戦略で、いくつかの警備保障会社が新規参入することになるでしょう。


ところで、僕はここで、無限のかなたの警察機構の民営化過程よりも、むしろ、それ以前にあるはずの最小国家に至る道筋の上に、我々がまったくのっていないのはなぜなのかについての分析を、書かせていただきたい。

それは「我々の価値観」が自由を重視していく方向にないからです。今現在も、あれやこれやの有害無益な政策のおかげで我々の自由は蝕まれているが、そういったことが当然だと感じる人が圧倒的に多いのなら、そもそも最小国家、あるいは無政府社会など実現するはずがないでしょう。つまり現状では、我々の自由を重視しないような価値観が、そもそも無政府社会の存在などを許さないのです。


かつて織田信長ルイ14世はまったく民主主義など信じていなかった。だから天下布武の思想で、もっとも強いものが絶対者(神の代理)として治める。これはこれでひとつの自然な価値観だと思います。

しかし、近代以降、独裁というのは次第に人気がなくなってきた。独裁の方が民主主義よりも効率的でありえる、という可能性は理論的には確かにあると思います。しかし、民主主義者のプロパガンダのおかげか、人々はそれを「不正義」だと感じるようになってきたのです。


今、自衛隊と警察が、かつての2・26事件のようにクーデタを企てる可能性があるでしょうか?僕は、まったくないと思います。なぜ、戦前はあったことが、今は可能性もなくなったのかといえば、それは人々が「民主主義」という価値観に、より強く帰依するようになったからです。先進国民はどこであれ、民主主義に反する政治は悪だという考えで一致しており、各国の軍隊の構成員にもそれは共有されているのです。押し付けられたとはいえ、普通選挙制の民主主義はすでに価値観として、間違いなく揺ぎ無いものになっています。


僕は、民主主義と同じような価値観として、「自由」をもっと日本人に賞賛してもらいたい。自由を重視しない社会では、税金は上がり、社会保障に釘付けされ、規制の非効率に喘ぎ、物質的にも精神的にも悲惨な状態になってしまう。自由を重視する価値観が高まれば高まるほど、規制は正当性を失い、自由貿易は促進され、各種の政府機関は廃止され、僕たちはより豊かに満ち足りて暮らせるはずです。


確か、Jeffrey-Rogers Hammel はこういった自由の価値観こそが「社会資本」なのであり、それを増やしていくことこそがリバタリアンの役目だということを書いています。僕も、まったくこれに同感します。今、日本にないのは、個人的な経済的・精神的な自由を脅かすような制度改革は、独裁政治と同じように望ましくないものなのだ、という価値観だと思います。


よって、いつの日か、最小国家が実現した場合には、その構成員は現在よりもはるかに「自由」という価値観に帰依しているはずで、その時には無政府も実現する可能性が高いでしょう。逆に言えば、現状の日本人の価値観を前提として、警察の民営化や無政府の可能性を論じれば、それは単なる不可能であるだろうと思います。

slumlordさんはこの点を危惧しているのだと思いますし、あるいはハマちゃんというかたの公然たる発言の存在自体が、日本人の中に自由の価値観が十分に醸成されてはいないことを示しています。

もちろん今は不可能だからといって、無限に不可能かどうかはわかりません。ちょうど12世紀に民主主義がなかったのに、今は主流になっているように。それは結局、我々が正義であると確信する価値観そのもののに依存しているのです。だから、僕はできる限り、そういった価値観を広めたいのです。