kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

「聖なるもの」はあるのか??

飽きもせずに、Better Angels に触発されて考え続けている。


ピンカーは、合理主義を標榜しながら、「社会にはある程度の聖なる sacred もの」がタブーその他の形で残り続けるだろうという。


これを機会に、合理主義者である僕は、昔から何となく考えてきたことをダラダラと考えてみた。僕は、合理主義を超えた何か「聖なるもの」を感じているのだろうか? いいかえるなら、個人の幸福を犠牲にしても守るべき、それを上回る、あるいは同列に扱うべき他の価値を感じているだろうか?


正直なところ、考えてもちょっと思いつかなかったが、


1,例えば、死体への冒涜。 もちろん、憎くて殺したあとに、さらに切り刻むとか言うのは理解できるが、問題は、死体をただの肉片として片付けても、構わないのか? という微妙な点。


これは刑法の論点でもあるが、死体遺棄罪なんかは、その保護法益が死体の安静・静謐のようなものだから、殆どの人は死体を肉片として扱うのはタブーだと感じているのだろう。果たして、僕も若干はそう感じるが、刑法で罰するほどのものとは思われない。死体を相続人の所有物として、器物損壊と同じように、その精神的な被害を賠償する程度でいいように思う。


2,聖なるもの、は通常はもっと抽象的な存在で、例えば、国家そのもの。
よく「国家の存続が云々」というが、それは一応は国家を構成する個人の利益を超えた国家の実在なんかを仮定している発言だろう。


若かった頃は、僕も愛国的であり、この考えに同調していた。でも、僕にはもうそういった個人を超えた集団的な価値に対して僕は共感できない。進化的には有意義な心理機構だったのだろうが、無政府主義者となった今では、まさに非合理だと心底思っている。


3,もっと微妙な問題だろうが、天皇家への敬意や愛着。
僕は昔から共産党員の息子だったこともあって、まったく敬意は持っていない。例えば、オランダやスウェーデンの王様と同じだと思っている。違いは、日本の王家は僕の税金で生きていることだろう。だから不敬罪なんかがあった戦前だと、今頃はとっくに牢獄にいることは疑いない。

20年ほど前に、タイに行った時、友人(タイ人)がプーミポン国王の王宮の前をタクシーで通った時、王宮方向を向いて深く礼をしていたのが奇妙な気がした。なんで、ただの人をありがたがるのか?(もちろん、かれらの王への土着信仰は抽象的には理解しているつもりだが、、、) 皇居前で記帳する時間があるなら、僕は何か好きなことをするか、もっと恵まれない人のためのボランティアをしたい。

そもそも、すべて人は平等に生まれていて、その権利義務に違いがあるべきではない!


ということで、僕はインセストでも個人が同意していれば、それで結構だと思うし、厳密なutilitarian なので個人を超えた価値は全否定していることが、今回自覚できた。


ピンカーは、すでに化学兵器はタブーとなったと主張し、核兵器も同じようにタブー化するだろうという。それはそうなるかもしれないが、しかし、そうした考え自体が合理主義の精神と反しているように感じられ、啓蒙主義とは相容れないように思うのは、僕がヘソ曲がりだからだろう。