kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

主観主義は、僕は好きなのだが、、、

今回はテクニカルな上に、僕がよっているので、やや論理がおかしいかも。ということで、すいません。


先日 「ミーゼス読書会」なるものに参加した。僕はミーゼスの「主観主義」については理解しているつもりだったのだが、つまるところ、それは主流の経済学の仮定する、効用関数の理論に吸収されている。ということで、ミーゼスによる Human action という著名な大作は読んだことがなかった。

で、國學院大学の尾近先生による、「オーストリア学派の経済学」の講義を聞いて、なるほどミーゼスは序数的効用関数 ordinary utility の理論を徹底した素晴らしい研究者だ、と再確認できた。


しかし、同時に僕は、主観主義というものが、実は合理主義の変形であることがよくよく理解できた。


理屈はこうだ。


<価値>とかいうものを考えるときに、マルクス経済学者は、<社会>から出発するので、「交換価値」だとか、最初から交換(あるいは他人の評価など)を前提にしたものを考える。対して、主観主義者=経済学者は、「消費」という属人的、主観的、非社会的、なもの、そしてそれのみが価値の究極なのだと考える。


つまり 「社会 vs 個人」、あるいは 「迷信・常識etc. vs 理性・内観」ということになる。


啓蒙主義以前の西洋社会では、常識的であることはキリスト教の価値や伝統を信じる事で、内観とは合理的に、自分の理性によって納得できることを指す。日本でも仏教や神道の常識 vs 合理主義と考えれば、よく理解できる。


ところがこの啓蒙的合理主義に反して、どんな選好であれ、他人の選好は自分の選好に影響を与えてしまう、というのが、現代の生物学のゲーム理論的な常識だ。


この場合、社会=性選択、であり、これに対して、個人=合理主義=環境への適応、だと考えるとわかりやすい。


ダーウィンは性選択を重視したが、その後の常識的な進化論的適応論者は、外界への適応=環境適応、のみを重視してきた。性選択が見直されたのは、ここ20年ぐらいのことだろう。この点は、グレイフェンやズックによる「性選択」の強調などが、とても興味深い。


性選択では、例えば、オスの価値として、メスがカッコイイと感じることそのものが価値である。なぜなら、それは次世代への適応価に影響しているためだ。性選択は、環境適応になっていてもいいが、必ずしも、そうなっていなくてもいい。


同じことが、経済学における価値論争にも言えていて、主観主義というのは合理主義=素朴な環境適応であり、理性的に理解できるものだが、反対に、マルクス経済学や社会学というのは、つまりは他人の効用関数が自分の効用関数に繰り込まれている、というところから出発する。これは効用関数の無限ループをつくりだしてしまう可能性があるという点で、難問だ。



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さて、僕は究極の合理主義者なので、自分の受け継ぐことになっている代々の墓を壊して、中身を散骨しようと思っている。もちろん、僕自身の散骨も望んでいる。果たして、他人の常識を超えて、坊主に何も頼まずに墓を廃棄するということ、僕にそんな大それたことができるのだろうか??


両親が鬼籍に入ったら、真面目に考えようと思っている。


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