kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

My tenets

やや、コメントが相次ぐと言う不思議(笑)。


「自由」という概念が何を意味するのかについて
いろいろな意見があるのが難しいですが、
リバタリアンは当然に実力に対する防衛を認めますが、
それが「積極的自由」の行使なのかといえば
違うものだとカテゴライズされると思います。


消極的自由とは、他人の生活に自分の好みを強制しないことです。
対して積極的自由とは、国家に対する権利(つまりその国民に対しての強制)です。


とはいえ、現実にはフランソワさんがおっしゃるように
迷惑なことを勝手に要求してくる人々はたくさんいて、
そういった場合は降りかかってくる火の粉を振り払う必要があります。


Pro-lifeの押し付けが積極的自由なのかと言うと
fetusを人間とみなすかどうかにもよりますが、
みなせば人命の緊急避難に値するのかもしれないが、
みなさなければ、単なる価値観の押し付けで、自由の侵害でしょう。


もう少し、難しい問題では、例えば、
宗教活動の戸別訪問などが許されるか?
というものなどがあります。
人に話しかける程度が、果たして人権侵害たりえるのか?
いろいろと意見はあるようですが、ロスバードやノージック以来、
リバタリアンは「強制力」が行使されたか?
を区別とするので、話しかける程度では侵害は起こっていないと言います。


もちろん、D.フリードマンが指摘しているように、
どのような「物理力」から「強制」なのかを一義的に判断することはできません。
ので、こういった区別は現実には無理だと言う意見もあるでしょう。
アメリカや日本の刑事訴訟法判例にも、
警察力の講師をめぐって同様の論点があります。


こういった点は微妙なのですが、
大まかに言って、ほとんどの政治活動においては、
消極的自由と積極的自由の違いは明らかなので、
あまり問題にはならないのではないかと思っています。
少なくとも、僕のリバタリアンアジェンダには
そういった遠い先のことは(残念なことに)入っていないのです(苦笑)。


またコメントなさってください。


さて、小生はここ数日かけて、
ダラダラと以下の論を書いているうちに
フランソワさんからコメントをいただいたので、
急遽upすることにしました。



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なるほど、坂東αさんに再コメントを読み、感じることがあった。多少長くなってしまうが、昔からはっきりさせたかった小生個人のpeculiarな思想について、ここでまとめてみよう。


小生の世界観は、重要な点において、3段階にわかられると思う。
まず第一の論点は、

1.1、科学的合理主義と、それにともづく人間への進化論の適用
⇔ 
1.2、ほとんどの一般人の信じる宗教的な神や超自然的な力の存在


である。さて次に、進化論を人類に当てはめることは認めても、

2.1、個体変異が現在でもヒト集団内に大きく(あるいはある程度)存在し、それは集団の行動の違いを生み出している(行動遺伝学)
 ⇔ 
2.2、現生人類には遺伝的な差が集団レベルでは存在しない、というpolitically correct な考え。これはメディアでは完全に、さらに学会(主流の進化心理学)でも大多数に支持されている


のどちらを信じるかという問題がある。
 さらに、


3.1、無政府資本主義がもっとも経済効率が良く、人間の正義にかなっているというアナルコ・キャピタリズム  
⇔ 
3.2、政府が一定の役割を果たすべきだと考える、現代の常識となっている福祉国家主義


の対立がある。


 ここで、3の無政府主義は、別段1,2とは直接論理的な関係はないと思う。おそらく、直接に論理的なつながりないが、進化論から予想される利己的な人間性からは、「社会主義」的なegalitarianな存在へと教育、あるいは教化、洗脳することによっては現実的に機能する社会を作ることはできないだろう、という予想は成り立つかもしれない。
 つまり、「人間が自分のためにのほうが、他人のためよりも働くだろう」という利己的な経済学的な命題を認めるなら、基本的に資本主義を肯定することになるだろう。あるいは名誉や博愛精神も自発的な活動であることからは、効率性の条件を満たすので肯定されるが、強制力を背景とする「国家」、「政府」は非効率になると言うことになるだろう。
 これはもちろん、外部性、あるいは契約費用について、いくつかの仮定をおくとということである。圧倒的に多くの人は経済学者も含めて、政府の不可欠さについて、ほとんど暗黙の前提を置いており、それをよくよく考えてみることはないようだ。



 さて、3は利己主義という存在を前提にする社会制度についての当為概念を含んでいるが、1、2、は自然の事実についての存在概念だ。1.1は日本の知的サークルにはかなりの支持者がいるが、2.1については小生の思想は完全に異端であって、主流派からは完全に無視されている。


 坂東αさんの疑問は、2.1についてのもので、人類(の特に知性の特徴)には統計的な差はないというものである。これは、知的なサークルでも説得力がある。僕はこれは間違っていると思っているわけだが、おそらく主観的な体験を述べるのはいうまでもなく、例示的に歴史的な事項を挙げあったすることさえも、単なる水掛け論になり、あまり意味がないだろう。


 一例として、例えば小生ブログで前掲のNisbettの'Geography of thought'のレヴューを読んでもらってもいい。こういう人間の思考の差が存在するという研究は必ず個人批判のレベルに落ちてしまうようだ。


 Cochran and Herpending の'10,000 years explosion'にいい例示があり、これは小生もかねがね思っていたので、ここで繰り返す程度にしたい。黒人と白人・アジア人は12万年前に、白人とアジア人は4万年前に分岐した。しかし、小生がイギリス人と日本人を間違えることはない。顔の特徴に見られるように、さまざまな形質が明確に異なっているからだ。


 さて、文化(行動様式や思考様式)は、神経回路の産物であり、その発生・発達は環境要因を取り込みながらも、その取り込み方自体がある程度遺伝的に決まっている。今チンプとヒトが同じ潜在的能力を持つと主張するものはいない。


 チンプとヒトは6百万年前に分岐した。10万年は、600万年の1%以上だ。遺伝子多型の数を調べてもヒト集団には変異があり、Cavalli-Sforzaなどの研究では、大まかな地理的な分布と、集団間の遺伝距離は相関している。


 顔が違っていて、それが統計的に明らかに識別ができるのであれば、筋肉骨格の組織の発達の違いは運動能力の違いになるだろうし、大脳神経の発達様式の差異は、それによって生み出される行動様式=文化もそれに応じて異なったものにするだろう。(もちろん、ここでは、どっちがいいとか、悪いとか、そういった価値判断はしていないし、価値判断に先回りすると、事実を否定したくなってしまう。)


 遺伝子解析やタンパク質解析の技術は日進月歩だから、長期的には対立遺伝子による行動傾向の差異がもっと明らかになるだろう。そうすれば、ドーパミン・レセプターの量によって新奇性追求の度合いが集団間で異なるように、あるいはすでに5000以上に上る遺伝病の頻度が集団において統計的に異なっているように、あまり歴史的な事実の羅列に終わらないような議論が成立するだろうと思う。

 
 ちなみに人類が今後混血を繰り返して、もっとなだらかな遺伝勾配を形成してゆく場合、人類の遺伝的多様性が高まることになるだろう。よって、より多くの天才や鬼才、偉人、すばらしいアーティストやアスリートが生まれると予想される。そうすれば、とても面白いと思っている。


 僕は3.1について、すでに本を書いたのだが、少なくとも、2.1については常識的な学者のように2.2の立場をとり、それによってより多くの共感を得ることを考えるべきなのだろう。が、残念ながら、2.1は僕の学者としての世界観の一部であるだけでなく、実際に分子生物学的な事実の発見は僕に味方してきていると思っている。いくらそれをとれば有利になると分かっていても、日和見主義的に世界観を変更できない。
 ちょうどパスカルの冗談のように、「神がいないなら、それを信じることは無害だ。神がいるなら、それを信じないことは損なので、信じたほうがいい」というのは、それこそ信念を欠いた空虚な論理だ。


 以下は、1、2、3についてもう少し私小説風に、かつドーキンスの『神は幻想である』へのオマージュとして書いてみるので、大方の人はここで、読むのをやめてもらいたい(笑)。ダラダラと思索してことにしようと思う。


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1、について

 僕は幼いころから理科教師(後の共産党員)の家に育ったので、神の存在について信じてはいなかったし、何か合理主義の心に反するものがあると直感していました。しかし本当の意味で神、あるいは超越的な絶対者の存在についてはっきりと否定し始めたのは、おそらく14歳の時にダーウィンの進化論を知ってからです。

 ダーウィン進化の概念は、僕らの高貴な感情もまた進化の産物であるはずだと教えるので、我われの良い面を体現した神などはいるはずがないと感じたからです。
 さて高校では、そういった議論を友人に吹っかけて楽しんだのですが、多くの友人は、「そんなことはどうでもいい」ということでした。で、大学でも同じだったので、僕はグールド、そしてドーキンスを読んだりして、楽しんでいました。


リチャード・ドーキンス

 ドーキンスは、僕がD.フリードマンとならんで個人的に最も影響を受けた知性の一人です。ドーキンスの主張し続けている、「人格を持つ、ユダヤ教以来の神」の否定の論理は2006年に出版された『神は幻想である』に詳しく書かれています。僕はこの本を読んで、西洋社会のキリスト教の絶大なる勢力を改めて理解し、それを否定しようとするドーキンスにたいへんに共感しています。
 なお、日本では、絶対神を信じる人は少数なので、僕は別にキリスト教に敵意を抱いたことはありません。大体のアジア人にとっては、絶対神などはそもそも最初から何の問題になっていないのだと思います。しかし、9.11以降は、こういた意見は誤りで、宗教は国家と同じ本質を持つことがよく理解できました。

 僕がここで協調したいテーマは、彼のキリスト教の否定は、僕の国家への否定とまったく相同な論理構造をしてなしていることです。あるいは僕はこれを「神と国家の双対性原理」とでも呼びたいと思っています。
 宗教はその一見した信仰心の高遇な外見に反して、残念なことに、異教徒を非人間化し、自分と異なったものを殺すことを正当化するために存在してきたのです。現在も続くテロリズムを見てください。
(ちなみにドーキンスは殺し合いをしてこなかった仏教や儒教を宗教だと批判していないのですが、この点はもう少しアジア史を詳しく見てみたいものです。権力抗争にかかわっている意味では、同じように感じますが、、、)
 さて驚くべきことは、こういった彼の宗教に対するネガティブな記述のほとんどすべてが、国家に対して、そのまま完全に当てはまります。ドーキンスにはぜひとも、3.2の常識を捨てて、アナルコ・キャピタリストになって欲しいものです(笑)。
 

2、について

進化心理学

 お分かりのように、僕はたいへん理屈好きでもあり、同時に懐疑主義者でもあるので、ヒトとチンプが違うのであれば、ヒト同士でもある程度は遺伝的に異なっているだろうと感じています。
 こういった意見はマイノリティで、僕が大学に入ってグールドの度外れた平等主義的な著作『人間の測り間違い』などを読んで、当然ながら、何が左翼主義として正しいものなのか、Politically correctなのかをよく理解しました。この左翼主義的な知的潮流は現在もピンカーなどにも続いています。もちろん、僕は進化心理学には当然に賛成しています。しかし、なぜか彼らのほとんどすべてが「集団の差は存在しない」というのを聞くと、アメリカでのマイノリティ差別への配慮をしているのではないのかと感じます。

 しかし、知的に誠実であろうとするなら、彼らのうち、どれだけが本音でそう思っているのかは、僕にははっきりしません。単なるリップ・サービスの部分もあるのでしょうか。
 なお、昔は頑固なフェミニストは、ボーヴォアール女史のように、「女はつくられたのだ」的なことをいいました。これはしかし、進化心理学が全盛になって、NHK特集でさえも、男女の適応戦略の違いについて語るようになって、現在はほとんどナリをひそめてしまってようです。
 もちろん、僕は、能力のある女性は、その人の性別と無関係に処遇されるべきだと言う考えは持っています。しかし、集団の真理特性に差がない、という古典的なフェミニズムの命題は明らかに誤りであると感じます。つまり存在と、当為の問題は別だと思っています。
 「神は幻想」では、フェミニストの啓発活動を賞賛しており、著作ではそういったことを目指していると書いています。僕も多くの制度的・法律的なな差別には反対しますが、さて結果としての完全な平等な状態を目指すべきなのかというと、それはよくわかりません。どの程度が望ましいのかの「結果」がよく分かっていないからです。これは、僕にとってのopen questionとなっています。


政治活動の難しさ

 2005年だったかに、ハーヴァード大学の学長をしていたローレンス・サマーズが「男性よりも女性大学教員が少ないのは、その知性による」というような発言をしたとして、物議をかもし出し、結局、辞任しました。実際には、サマーズは学者であり、もっと微妙な発言をしたのですが、ここではどうでもいいでしょう。
 あるいは、現代遺伝学の重鎮であるジェームズ・ワトソンが、黒人への差別発言をした、ということでメディアでは連日非難がされていました。

 もっと、最近に僕が興味深く感じたのは、The myth of ratinal voterを書いたBryan Caplanへの書評に、「彼は正しいのかもしれないが、それでは確かに選挙事務所を運営できないだろう」というものがあったことです。誰であれ、大衆の信念などが間違っている、というものは選挙に勝つのが難しいでしょう。

 学者であれば、自分の職業的な自滅への恐れを持たずに発言することができますが、それは民主主義の理念からは、ある意味でおかしなことではあります。(僕も含めて)学者の給料の多くの部分が、政府の強制力を通じて納税者、有権者の財布から捻出されているからです。
 おそらく、この点はUniversity of Marylandの経済学者John Lott Jr.の意見にあるように、「学者が政府によって養われていると言うことは、その言論の自由と大きく矛盾しているのではないか」ということなのだと思います。経済的に自立していないものは、本当のところ、自分の信念についても言論の自由を行使できないのでしょう。あるいは、少なくとも難しくはなるでしょう。

 さて、その昔、東大の佐倉統さんが「科学の製造物責任」について語っていました。つまり、僕のように「集団間には差がある」というものは、そのような知識が悪用されて、差別につながったような場合には、その責任を取るべきである、というのです。
 あるいは同じ流れで、長谷川真理子さんなども、進化論の持つ「差別」への潜在的な危険性について警鐘を鳴らしています。(長谷川さんは、僕が駒場で授業を受けたときから、ハヌマン・ラングールの子殺しの道徳性について懸念していたのを覚えています。)多くの人は、「差がある」というと、それを「差別をしてもいい」という当為的な正当性の証明と受け止めるので、学者はそれを意識して活動すべきだと言うわけです。
 こういった恐れを、僕は理解しないとは言いません。しかし、原子力でも、あるいはどういった力でも、善用することもできるし、悪用することもできます。知識を、人々がどのように使うのかを科学者が考えてから公表したりするべきだと言うのは、かえって科学者の選民思想のように思えて、どうも納得できない部分が残るのです。
 正直に言って、僕はどういった方向に遺伝学を利用するのかを決めるのは、個人だと思います。よって、自分の子どもに遺伝子操作によってどういった能力を授け、その代わりに何を失ってもかまわないと考えるのかは、個人が決めるべきことだと思います。
 この思想の問題点は、生まれてくる子どもの資質が親によってある程度コントロールされてしまうことです。が、シルヴァーも『複製されるヒト』で指摘しているように、人間は誰しも、親の与える教育から逃れることはできないのが現実です。ピアノやバレエ、スケートなどの場合、早期教育以外では大成することは現実には無理です。
 ちなみに僕の話している日本語も、僕にとって既定の制約です。それは日本の社会によって僕に与えられた教育によるのですが、あるいは英語での教育のほうが僕のような変わり者にはチャンスがあったのかもしれません。
 僕が「リバタリアン宣言」を書いたとき、葉緑素を入れた人間がいたら、ヴェジタリアンな理想にかなうだろう、と書きました。すると、編集長から、「子どもが遺伝子操作でいじめられたら、どうするんですか」との反論を受けて、長くなっていたこともあって、その記述は削除しました。
 しかし、なぜ親が与える教育ならば良くて、操作された遺伝子なら良くないのか?という疑問は残ります。つまり、そういう指摘をする人は、「理性というより単に感情的に遺伝子操作に反対している」、あるいは「いじめられないという大衆迎合を、自分の価値の追求に優先している」、のどちらか、あるいはその両方でしょう。
 国家なり、別の組織が、僕の子どもの教育に強制力を持って介入するのであれば、僕は反対します。では、子どもへの遺伝子操作は当然に国家が禁止するべきなのでしょうか?僕はこういった他人任せの価値観の押し付けには、リバタリアンとして断固反対します。

 
3、について

 リバタリアニズムを提唱する学者や思想家はアメリカには数多くいますが、日本にはほとんどいません。僕が難しいと思うのは、僕自身が上記2.1において、「集団には差異がある」という考えを持っていることです。
 これは、リバタリアニズムと言う西部戦線を戦いながら、politically incorrectという東部戦線にも火をつけることを意味します。(僕は別にヒトラーを尊敬もしていないし、アレキサンダーやチンギスハンのような征服者よりも軽蔑もしていない。)こういった無意味な戦線の拡大は戦略としては、やはり止めておくべきでしょう。日本でも、日中戦争をしているのに、パール・ハーバーを攻撃するのはやめるべきだったと思います。(もちろん、僕は戦争反対だし、枢軸のように最後に敗北する気もないので、これはあくまでも例示のため。)
  ここでも忌憚なく言えば、ドーキンスフリードマンも個人の差は存在すると思っていると僕は彼らの記述の節々から感じます。しかし、そういってしまうと、ドーキンスの場合、1.1の立場への共感が減ってしまうため、またフリードマンの場合、3.1の立場への共感が減ってしまうため、無意味な戦いを避けているのでしょう。
 ドーキンスは、「進化論を容認するキリスト教キリスト教原理主義を区別し、科学者は前者と共闘すべきだ」とするマイケル・ルースなどを、科学の「ネヴィル・チェンバレン派」と呼び、そういったキリスト教への融和的な態度を拒否しています。
 これには賛否両論ありますが、つまり「宗教はすべて非合理的な迷信であり、科学とは合理主義のある種の現れである」と言う立場からは、両者は両立し得ないと主張しているのです。
 僕はこれに共感するところがあります。同じように1.1の立場からは、ほとんど論理的必然として2.1が出てくると思います。もし出てこないと主張するのであれば、そう主張するほうが事実の立証責任を負うはずです。しかし、人々の中にある平等思想への思い入れは、2.1を否定する傾向を持つのでしょう。


物理学や論理学

 繰り返すなら、2.2からもアナルコ・キャピタリズムは完全に論理的に肯定できます。しかし、おそらく心理的な性質の問題としては、徹底的に既存の常識(西洋における神の実在や、政府の存在の正当性や効率性)を疑うなら、デフォールト仮説としては2.1に近づくのではないかと感じます。
 しかし、おそらく僕が最初に2.2のような常識に納得できていたのであれば、3.1にも行かず、むしろ3.2の普通の経済学者として、「政府の規制緩和策はこうあるべきだ」という程度で納得できていたのだと思います。
 もちろん、2の問題について考える必要などはそもそもまったく存在しません。2を省略することは可能であるに止まらず、メンタルにも健全であり、結構だと思います。
 例えば、僕には理解しきっていないし、考えきってもいない(あえて府番するなら)0番目の問題があります。それは

0.1、相対性理論量子力学は認めるとして、ストリングなどがそれらを統一するのか?

0.2、相対論と量子力学は当然だが、ストリングなどはすでにもう終わっているので、新たに異なった統一理論をさがすべき

 この問題は、あるいは僕がもっと時間をかけても面白いのでしょうが、すでに今の僕にはその能力も気力もありません。
 また、さらなる余談としては、0よりももう少し、僕自身の興味がある問題としては、虚数軸と呼ぶべきような問題群i「ゲーデルの定理と論理的知性」、「存在と当為の認知神経的な関係」、「形式論理的な理性・知性と意思決定の関係」などがあるのですが、これらも残り少ない人生ではほとんど追及する時間がなさそうです。


 
結論:読者の皆様へ

 というわけで、1から3の問題について、ダラダラと書いてみました。このサイトを読んでいる人は、ほとんどが3.1について共感してくれているからこそ、このサイトを知ったのだろうと思います。当然、2.1については、おそらくどうでもいいか、あるいは反感を持つことだろうと思います。
 エヴァンジェリストというものが、「目的のためには方法を選ばない」というのであれば、2.1の立場は、ふさわしくないことは間違いありません。この点は残念にも感じますが、しかし自分が信じていないことを人に語ることはできないので、やむを得ません。
 また、経済学という学問にしても、さらにその極端な思想であるリバタリアニズムにしても、情動的な要素よりも、理知的な要素のほうが強いと、僕は勝手に思っています。(日本では特に「自由」は、それ自体が情動的な価値を持つようには思えないので、)純粋に理性的に理解してもらえるなら、2.1はおかしな意見ではないとも思います。

 という程度で、それでは、今後ともよろしくご意見などお願いいたします。