近代啓蒙主義のテーゼの一つに、
「合理的ではない差別は、理性に照らして肯定されない」
というような、ある種の平等主義がある。
僕はこれにひじょうに納得しているし、
自分はかなり教科書的な生き方をしていると思っているのだが、
問題は随所で起こってしまう。
例えば、
1、美貌を理由に人を愛したり、差別したりすることは「合理的」なのか?
これは、僕が中学生入学のころから問題を感じていたものなのだが、
「なぜ感覚器官の配列および形状などに、それほど重要な意義を与えるのか?」
と言いかえてもいいだろう。
「別に目が二つついていれば機能的には同じじゃないか」という考えも成り立つ。
しかし進化理論では、顔の造形は様々な逆境刺激への遺伝的な耐性を表わしている、
というfluctuating asymmetryの考えなども出てきている。
これは、一時期ほど流行らなくなったが、それなりに説得的な説ではあり続けている。
おそらくは我々の遺伝的な資質を見抜こうとする試みが容貌を重視するに違いない。
道徳的な是非はともかく、これは明らかに進化的に「合理的」な要素をもっている。
このラインの考え方の怖いところは、
「現状に存在する差別、区別はすべて合目的的な理由がある」
という保守主義的な結論につながることがほとんどなことだ。
しかし、ほとんど自明なことに、
江戸時代や西洋中世の身分差別などはどう考えても倫理的にもおかしく、
同時に、経済的、あるいは功利主義的にも非効率だ。
この点は結局、強制力を通じての国家による法的な差別は許されないが、
個人の好みによる差別(区別)は、
恋愛や結婚の対象を含めて認められるべきだということになるだろう。
少なくとも現状の私見では、そうなる。
だいぶ難しいのは、
2、ポリオによる小児まひの子どもへの偏見は許されるのか?
という問題で、これは左翼、平等主義者だけでなく、
ほとんどの保守主義者が反対するだろう。
ダメ押しの困難は、
3、不特定多数とのセックスのしすぎでエイズにかかった個人を嫌うのはありか?というものだろう。
不特定多数との性行為は、おそらく保守主義者のもっとも侮蔑するものだからだ。
これは、血友病でエイズにかかってしまったという人たちへの偏見とも相まって超難問である。
結局、古典的な「理性に照らした合理性」という直観的な基準では、
現代の問題の多くがなかなかスッキリとした回答ができないという程度になってしまうのだろう。
というわけで、難しいことも実に多いわけで残念なことである(苦)