kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

僕は間違っていました

昨日、募金の成果に不確実性があれば、複数のものへの寄付は利己的ではないのでは?と書いたが、
今日、車の中で良く考えてみると、僕が間違っていた。

不確実な貢献しかできなくても、その期待的な社会福祉への貢献度が一意的に決定される場合、やはり、多くの種類の寄付をするのは「自分の寄付金が役に立って欲しい」という利己的な効用関数からしか説明できない。

論理的に考えると間違いなくそうなのだが、結局は、僕らは他人のためとは言っても、自分の視点からしか評価していないことがよくわかる。しかし、だからといって、それが悪いとも言えないだろう。つまるところ、人間の活動とは、神の視点からではなく、ある特定の個人の視点からしか行えないのだから。


とはいえ、これはある個人にとっての、「社会厚生関数」というものを仮定しての議論だ。


そう考えると、ますますリバタリアンの思想の方が、共産主義全体主義の統合された価値の序列付けよりも望ましいものだと結論できそうだ。多くの人が、自らの価値観で多元的な社会福祉を目指すほうが、一元化されたものよりも、各種のリスクへの偏りが少なそうだからだ。


共産主義では、国家によってのみ救済が与えられるのだから、何らかの理由によって、そこからもれてしまえば救いようはない。救援が多元的であれば、ネットから落ちる可能性は減りそうだ。


http://response.jp/article/2011/04/20/155227.html