ボクがとっている立場は、
1, 世界の認識については、遺伝決定論に近く、各種の能力の遺伝的な不平等が実在する、
2, あるべき政府の活動については、最小限度で、現実に発生する格差の容認、
と要約されるだろう。いつもこうしたことについて考えるのだが、通常、もっともサヨク的な人たちは、
1, 世界の認識については、環境決定論に近く、各種の能力の違いはほとんど生育環境による、
2, 政府の活動は、個人間の格差が発生しないほどに大規模であるべき、
と考える傾向がある。しかし、これらのデアルとベキダには論理必然的な関係があるわけではない。遺伝決定論であっても、再分配は徹底的に行うべきだ、というのもありだろう。これは実際に、あり得る立場だと思う。
反対に、環境決定論をとり、しかし政府はその矯正を試みないほどに小さなものを、というのは、論理的にはあり得ても、実在しないように思う。少なくとも、ボクはそういう論者に出会ったことがない。
さて、ヒュームの自然主義的誤謬からすると、人間はどうもベキダからデアルを演繹する傾向があることがよく分かる。これは、本来なら科学的にはおかしいのだが、人間に認知能力は科学のためではなくて、自分の主張の正しさ、正当性を弁護するために発達してきた以上、やむを得ない傾向なのだろう。
ということで、リバタリアンはベキダで国家活動を否定するため、デアルでも、政府が環境を変えても格差は依然として残ってしまう、という見解を採ることが多い。その理由としては、マレーのように遺伝決定論というのもありだろうし、あるいはM.フリードマン政府活動の非効率性というのもありだろう。
反対に、デカイ政府がすきな人たちは、自然と環境決定論を採ることになる。実際に赤旗を読むと、犯罪から貧困、イジメまですべての問題は社会にあり、それを国家が直せば、完全な世界になると主張している。原因のどれだけかは、本人にあるはずだろうことまでも「どういった社会のヤミが、少年の心をそうした残虐行為に向かわせたのか?」みたいな。。。 いやー単なる猫殺しの嗜虐性までも、そう言っちゃうんだから、手に負えない。
無論、ボクにもボクなりの偏向があるのは当然だが、データはよく見る必用がある。どちらのデアルが、より現実を説明しているのか? 自然の現状についての認識からスタートしたほうが、最初からベキダを議論するより少しはマトモな議論になると思うのだが。
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