kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

公会計

先日の吉田さんの公会計で思うことなのだが、どうも僕自身の考え方も硬直化していて良くない部分がある。つまり、多くの断定的リバタリアンのご多分にもれないことだが、政府活動はどれも「非効率的に決まっている」というような決め付け。


河川の堤防工事を考えてみよう。どれだけの人が、どの程度の洪水の潜在的な被害にあう可能性があるのか、を、費用と突き合わせるのが、経済学でいう効率だ。


しかし、現実にこれは難しいから、どうしても「政府の活動は、利権団体である土木会社に操られて、非効率的な水準になっているに違いない」という決め付けをしたくなる。


さらには堤防工事を政府以外が行う可能性についても、取引費用を少なく見積もってしまう傾向があるだろう。


殆どの場合、これで問題はないと僕は思うが、中にはそうではない場合もあるだろうことも間違いない。そういう時にこそ、なんらかの基準が必要になる。


公会計というものが、それの大まかなやり方になるのは間違いない。民間企業に会計制度があり、それが多くの粉飾を含む不完全なものであっても、ないよりはマシなように、政府活動にも会計制度が必要で、それがないよりもはるかにマシな議論ができることは間違いない。

吉田さんの講演会には多くの政治家がききに来ていたが、これはとても、とても、すばらしいことだ。実務的に考えれば、どの公務が必要で、どれが必要でないのかに優先順位をつけるためには、数値化が不可欠だし、はなから政治活動を否定する人間に、政治活動を実践する人は寄り付かないのは、しごく当然のことだ。

なるほど会計制度の国家権力への適用というのは、政治活動の謙抑性を担保するために不可欠な発想なのだろう。


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