kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

リバタリアン宣言

リバタリアン宣言

1、日本の政治とリバタリアニズム

  小泉構造改革リバタリアン
  「小さな政府論」の背後にあるもの
  社民リベラル VS リバタリアン
  事前規制から事後調停へ
  民主党の迷走
  日本人とクニガキチントの罠

2、リバタリアンな社会とは

  現代国家の役割
  古典的リベラリズムの変質
  リバタリアニズムとは
  ノラン・チャート
  福祉国家から夜警国家最小国家へ逆戻り?
  ではなぜ夜警国家が必要なのか
  世界で再評価されるリバタリアンな政策
  最小国家での医療制度
  民間で認定される医師資格
  公的年金制度の解体
  教育制度の持つ特殊性
  耐震偽装をどう考えるか

3、リバタリアンの倫理

  リバタリアンは身勝手な人たちなのか
  慈善事業は自発的に
  日本人はお上頼みなのか
  どんな団体に寄付するべきか
  個人の人格的独立とアイン・ランドの客観主義
  格差社会の到来
  所得の不平等が問題なのか
  所得の再配分は道徳的に許されるのか
  国家という権力システムの寄生者たち
  医療行為という聖域
  薬害エイズ事件
  国家の権威をかさにきる
  BSEと農産物ナショナリズム
  政治活動という大いなるムダ
  国家はかならず官僚の食い物になる


4、国家の起源とアナーキズム
 
  ダーウィン以前の社会哲学の曖昧な前提
  それでは利他行動はどこからくるのか
知識社会と民族主義
  民族主義と領域国家の意味
  知識社会と民族主義
  国産スタンダードの構築というムダ
  ウィキペディアのように
  左翼的アナーキズム
  アナルコ・キャピタリズム
  ディヴィッド・ヒュームの指摘するアポリア
  国家がなければ戦争もない

5 出現する脱国家主義

  国際社会という言葉と主権国家
  個人の力の増大が生んだヘッジ・ファンド
  為替レートの固定の何が問題なのか?
  世界的な企業家や投機家というスターたち
  価値は一元的であってはならない
  年金制度の崩壊と金持ち本
  タックス・ヘイブンの繁栄
  永遠の旅行者PT
  財政破綻が日本脱出を加速する
  各種の格付け機関と国家
  主権国家の並存の意味
  主権国家の国際社会とは擬似的な無政府状態

6、社会契約説を再考する

  植物のような人類
  人工授精と遺伝子操作
  ここからそこへ行く道はあるのか?




1、日本の政治の現状とリバタリアニズム

小泉構造改革の勝利とリバタリアン
  2005年9月11日は、日本の政治において重要な節目だったといえるでしょう。小泉首相の率いる自民党が歴史的な大勝利を収め、政権与党としての安定多数をはるかにうわまわる296にものぼる議席を獲得した日だからです。これはまた、いわゆる「改革路線」を国民が支持したといえるでしょう。
 そもそもこの選挙は、郵政民営化法案が衆議院で可決された後に、参議院で否決されるというきわめてまれな事態の後におこりました。法案を提出した小泉内閣は、民意を問うためとはいえ、法案に賛成した衆議院を解散するという、前例のない行為に出たのです。この衆議院解散は「郵政解散」、あるいは俗に「小泉劇場」と呼ばれました。
 そこで小泉首相は、「郵政民営化、賛成か、反対か?」というわかりやすい選挙スローガンを打ち出し、それのみを選挙の論点とすることに成功しました。結果として、自民党過半数をとる大躍進をとげ、いわゆる「改革路線」は晴れて、国民の圧倒的な支持をえたのです。
 それではいったい、ここでいう改革路線の「改革」とは何の改革を意味しているのでしょうか。
 それまでの自民党の政治は、地方では大きな公共事業をばら撒くために大きな支持を受けるが、都会からは金を集めるばかりであるためにあまり受けないという、地方利権を重視した政治だったといえます。こういった地方偏重の利益配分型の政治に対して、大きな危機感を抱いたのが小泉首相です。
 このままでは近いうちに自民党は支持されなくなる、そうなる前により公平で、効率的な政府をつくろうと考えたわけです。都市住民重視型の政治だといってもいいでしょう。彼は、利権をあまねく地方に分配するという自民党の体質について、大きな変革が必要だと主張しました。その結果、就任時には「自民党が変わらなければ、私がぶっつぶす!」とまで息巻いたのです。
 彼は就任時に公約していた、郵便局や道路公団の民営化を断行しました。これを実現するために電撃的に「郵政民営化大臣」というポストをつくり、慶応大学教授とはいえ、民間の経済学者でしかなかった竹中平蔵を入閣させました。
 いうまでもなく一般的にいって、経済学者は経済効率を重視する人びとです。経済学者であった竹中平蔵のような人物が、ほかの派閥を無視した形で大臣になったというのは驚きです。それだけ、行政改革というものには、旧来型の政治手法と決別する必要があったのだといえるでしょう。
 全国津々浦々まで張り巡らされた郵便局というシステムは、いうまでもなく都会から地方に金銭を再配分する公共システムです。全国均一料金の郵便という制度は、人口が多く、人が密にすんでいる都会では明らかに黒字となります。その反面、広い地域にまばらに人がすむような過疎の地方では、当然ながら赤字になります。さらにいえば、そういった地域に、世襲が可能な特定郵便局というネットワークを維持することが大赤字であることは、まちがいないでしょう。
 道路公団にしても、採算の合うはずのない有料高速道路を整備するのが、おもな仕事となっていました。道路の維持管理というよりも、あまねく辺鄙な地方にいたるまで、有料道路をえんえんと整備するという計画を着々と実行していたのです。これでは、もはや地方の一般住民への利益誘導でさえありません。それは単なる地方の土建業者の利権を温存するためにおこなっていたとしか言えないでしょう。
 こういった「大きな政府」による旧態然とした国民経済への過大な干渉は、日本経済全体としてみれば明らかに非効率的なものです。国民、とくに若年層もそのことをある程度理解して、小泉首相による過大な政府活動に対する「改革」をある種、熱狂的に支持したのだといっていいのではないでしょうか。
 ところで、このような小泉首相の政治をどのように呼ぶべきかについては、いろいろな意見が出ています。いわく、新自由主義新保守主義、などなどです。ここで、日本経済新聞社の前政治部長であった芹川洋一編集委員が、2005年の10月3日に日経センターの政治講演会でおこなった次のようなスピーチがあります。

 小泉首相が掲げている理念は、新保守だとか新自由主義だとかいろんな名前で呼ばれているけれども、実はアメリカでいう「リバタリアン」がもっともしっくりいくのではないか。つまり究極の「小さな政府」主義というか、個人の自由を尊重する考え方である。小泉さんが来年引退したら、小泉チルドレン自民党を割って「リバタリアン新党」を作るというのも面白いかもしれない。

 ここでいう「リバタリアン」が本書のキーワードです。リバタリアンは個人の自発的な活動を重視するという社会哲学です。私は小泉首相リバタリアンだとはあまり思いません。それは彼が、「個人の自由を尊重する考え方」を強く意識しているとはいえないと思うからです。とはいえ、たしかに「小さな政府」は目指しているとはいえるでしょう。
 小泉首相の目指すところの、「民間でできることは民間にまかせる」というスローガンがあります。これが、経済活動という市民の自発的な行動への政府の過剰な介入を排除するべきだというものだとするなら、やはりそれはリバタリアン指向だといえると思います。
 そしてまた、日本の有権者の多くが既得権益を守る守旧派に愛想をつかし、より効率的で小さな政府を目指す方向への大きな政策転換を望んでいるのかもしれません。この意味では、日本において、徐々ではあっても次第にリバタリアンな思考様式が広がりつつあるといえるのではないでしょうか。

「小さな政府論」の背後にあるもの
 「民間でできることは民間にまかせる」という考え方は、いうまでもなく小泉首相がその創始者なわけではなく、ずっ以前からあったものです。少なくとも戦後の社会哲学には一貫して、力強く存在し続けてきたものだといっていいでしょう。それが80年代から、世界的な規模で急速に力を増してきたのです。
 その背景には、大きく分けて二つの考えがあります。
 まず第一の考え方は、政府と民間を比べると、同じ業務をするのに必要な費用が政府の場合には2倍になってしまう、というものです。これは時に、フリードマンの法則と呼ばれることもあります。これは、「同じことをするのに必要な費用」という、純粋に経済的な効率の観点からものをいっていることに注意してください。
 たとえば、私立と市立の幼稚園・保育園は完全に同一の業務を行っているといっていいでしょう。しかし、現実にはこれらの2種類の施設には、ほぼ2倍の運営費用の差があるのです。なぜでしょうか。
 答えは単純で、人件費がおよそ2倍かかっているのです。勤続15年の保育士の給与は、公務員である公立の場合には年功賃金となっているのに対して、私立の場合にはそれほどには新卒とかわりがないのです。
 もちろん、私立の保育士というのは短大を卒業してすぐに採用されることが多く、結婚を機に退職を強制されているような側面はあり、それが私立の保育園の保育費を押し下げているのでしょう。これはこれで別に論じるべき問題だと思いますが、ここで重要なのは民間がやれば半額でやれるという事実なのです。
 おそらく県庁や市役所などの業務も、そのほとんどを外注(アウトソーシング)してゆけば、公務員の人件費が現在の派遣業界の水準にまで下がり、費用は半額になるでしょう。現に、自治体が直接にゴミの収集をしている場合と民間業者に委託した場合を比べてみると、やはりおよそ2倍の格差が存在するのです。
 昭和の時代を生きた読者のみなさんに思い出してもらいたい例は、それこそ山のようにあります。日本電電公社が分割民営化されてNTTになってからは、毎年のように新規参入業者が相次いで通信の自由競争が激化しました。その結果、かつて3分300円もした東京大阪間の通話料金は3分8円にまで下がっているのです。
 JRの分割民営化しかり、国際通話のKDDしかり、携帯電話のドコモしかり、です。およそすべての公営事業の民営化によって、公営の時代よりも低価格のサービスをより満足のいくレベルで供給しているのがおわかりになるかと思います。
 これらが純粋に経済効率的な面からみた、「小さな政府」の意義です。けれども小さな政府には、単純に物質的な基準で物事をはかるという経済効率などとは比べられない、はるかに重要な意義があります。
 それは「個人の自由」です。
 私たち個人が、自由に他者と契約を結び、それを実行するという経済活動の自由は、小さな政府によってのみ実現されるのです。このことについてももう少し考えて見ましょう。
 今ここに、ハガキや手紙の配達という郵便事業を始めたい企業家がいるとしましょう。こういった信書の類は、都市部では数多く配達されるべき大きな需要があります。ある運送業者がすでに配達ネットワークを持っているとすれば、信書の配達業務、つまり郵便業務に参入することはそれほど難しいことではないはずです。
 郵便局が郵政公社になり、さらに郵便株式会社になる前の法律では、信書の集配という業務は郵便局のみがおこなうことができました。その他の一般運送業者は、信書の集配は法律的にできないということになっていたのです。とするなら、これは日本国憲法22条に定められた職業選択の自由を侵害しているのではないでしょうか。
 念のために、憲法22条第1項の文言をみてみましょう。

 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転、及び職業選択の自由を有する。

この文章を素直に読めば、「公共の福祉に反しない限り」という留保がついてはいますが、原則的に職業選択の自由が国民に保障されていることは明白です。
 信書の集配はあまりにも公共性が高いために、その業務を民間業者が行うことは公共の福祉に反するのでしょうか。たしかにそういう側面もあるかもしれません。そもそも民間業者は営利の追求を目的としていますから、もうからない過疎の地方は信書の配達ネットワークから切り捨てられてしまうかもしれないからです。
 しかし、それは「公共の福祉に反する」とまではいえないと思います。過疎地に関してのみ、信書集配を行う政府機関があってもいいでしょうし、あるいは過疎地の信書集配業務に対してはなんらかの補助金をつけることも可能なはずです。
 憲法で保障している職業選択という自由は、そもそも人間の自己実現・幸福追求権の一環として存在するほどに重要なものなのです。安易に「公共の福祉」という名の下に制限されるべきではありません。
 知識人階層の中には、一般的な職業選択の自由が自己人格の実現にとってそれほど重要なものだとは思われない、というように感じる方もいるかもしれません。しかし、考えてほしいのです。大学で教鞭をとるなり、新聞社などのマスコミで報道関係の職業につくなり、といった職業はほとんど精神の自由そのもの、自己人格の陶冶そのものではないでしょうか。
 巷間、職業に貴賎なしといいます。知的な職業に負けず劣らず、多くの職業に生きがいを見出している人は多いものです。プロスポーツ選手などはいうまでもないでしょう。宅配業務であっても、「真心を運ぶ」という宣伝文句にあるような、高いこころざしをもって働いている人は多いのではないかと思います。彼らが郵便局の職員に比べて、職業意識が低いとは誰も思っていないでしょう。現実に、彼らに信書の配達を許すならば、みずからの社会的意義に関する自尊心を著しく高めるのではないでしょうか。
 2006年現在、郵便業務を行うためには全国に10万本以上の郵便ポストの設置を義務付ける法律が存在するため、業界への参入が相次いでいるとはいえません。
 しかし、いやしくも自由な社会を標榜するのであれば、個人がその責任において他人の信書を集配する業務をすることを禁止する必要などないはずです。こうしたことからすれば、個人の自由は小さな政府でなくては実現できませんし、逆に大きな政府は必ず民間業者の経済活動を制限する、つまり自由を尊重しない社会にならざるをえないのです。
 この意味で、小さな政府論の背後にあるのは、経済活動の効率性の議論と共に、個人の自由のできるかぎりの尊重なのです。
 後でより詳しく述べますが、国家的な医療保険制度とは、「自分は完全に健康であり、また仮に病気にかかったとしても医療を受ける気はまったくない」という確信をもった個人に対しても、国家がその人の財布から無理やりにお金を集めて保険に加入させる制度です。こういった行為が、個人の自由な経済活動とは相容れない強制的な要素を持っていることは、いうまでもなく明らかでしょう。
 同じように年金制度はさらにひどい制度です。自由主義社会の建前では、私が今現在において、個人的にかせいだ金をどのように使うのかは、そもそも完全に自由なはずです。しかし国家はまたしても私の財布から金銭を無理やりに供出させて、ほとんどは現在の高齢者年金にばら撒き、わずかな残りもたいして利率の高くない日本国債等の金融資産としているのです。これもまた全体としてみれば、私たちの財産権の処分の自由を著しく制限していることです。
 自由な社会では、個人財産はそもそも自由に処分できるはずです。しかし大きな政府の持つ意味は必然的に私たちの生活全体への干渉にならざるを得ません。どのみち政府が何らかの活動するためには、税金を使って官僚機構を整備、運用する必要があるからです。
 それにもましてさらに悪いのは、「私たち国民のために」という後見主義的な(パターナリスティックな)干渉は、医者しかり、弁護士しかり、放送免許しかりで、私たちの職業選択の自由を事実上奪うことが多いということです。そしてそのような職業選択の不自由は、個人の職業選択の自由を侵しているだけにはとどまりません。それらの制限された職業では、一般的にいって高価格のサービスを購入せざるえないことになります。つまり消費者としての私たちをも苦しめるという、二重の愚をおかしているのです。
 以上をまとめるなら、小さな政府論の目指すものは、経済効率の上昇と、それにもまして個人の職業選択、幸福追求の自由という精神的な自由の尊重だといえるでしょう。

社民リベラル VS リバタリアン
 ここでやや原理的な議論をしたいと思います。端的にいって、現代の資本主義社会には、基本的に2種類の類型があります。
 まず自分自身に質問してみましょう。
 あなたは社会規制が多く、所得に対する税金が高くても、きちんと国家が福祉を制度運営してくれて、病気や老後の心配のない国がいいと思いますか?それともその反対に、社会規制が少なくて、大きな所得を得た場合にも税金が低い、そのかわりに福祉制度は国家によって制度化されていないような国がいいと思いますか?
 もちろん、この質問には正しい答えなどありません。答えは、私たち一人一人の価値観によって決まります。前者は高福祉型で、社民リベラルな多くの経済規制を持つ社会であり、後者は国家は福祉制度を行わないかわり、個人は経済的に自由な社会だといえるでしょう。
 社会的に分配、あるいは結果の平等を重視する人たちは、いわゆる社会民主主義的なリベラル層だといえます。そういう人たちは一般に、個人活動の自由を過剰に認めるならば、社会秩序や結果の平等が毀損されてしまうと憂える人たちなのです。これはこれで、一貫した正義の思想だといえると思います。
 その反対に、大きな政府による国家的な福祉制度は人間をスポイルしてダメにしてしまうから、望ましくない。そして個人の自由を尊重したほうが、一人一人の創意工夫が社会的に積み重ねられて経済成長も高くなり、結果的により豊かな社会になるのだと考えるのがリバタリアン、あるいは自由尊重主義者だといえるでしょう。
 大まかにいって、この二つの考え方が、現在の社会哲学で議論される国家理念の2大類系だといえます。
 ところが、これに民族主義が絡んでくると、とたんに話がややこしくなってしまいます。詳しくは後述しますが、一般に民族主義者は精神の自由を認めない傾向があるようです。これはつまり、自分たちと違ったものは民族的ではないから、ダメなものだ、あるいは違うやつらはこの地から出て行け、というような単純で排他的な考えにつながることが多いということです。
 現在の日本で吹き荒れている新自由主義運動などの民族主義では、国家教育などは喧伝されているようですが、あまり平等は重要な要素ではないようです。この意味で平等を重視してきた社会民主的なリベラリズムとは正反対の方向にあるといえるでしょう。
 実際、多くの民族主義者は右翼的守旧派です。彼らは、私有財産制度の打破を目指すマルクス主義を目の敵にしてきました。私有財産制度こそが不平等の根源としてが指弾されることが多かったことを考えれば、彼らは保守であって、リベラルではありません。
 とはいえ、民族主義者は通常、個人の人権よりも「国家」というものを重視します。この点について考えてみると、ナチス民族主義であったと同時に社会主義政党であったという事実が納得できます。現在の民族主義者たちは「愛国主義的国民教育」という合言葉をもっているように、多くの側面において多様な見解をもつという個人の自由をあまり尊重していません。
 また後述するように、BSE問題や遺伝子組み換え食品などに関しても、日本独自の安全基準を策定実施するべきだとしているようです。つまりこれは、経済活動に関しても、国民一人一人の自由な選択に基づく経済活動を制限するのは政府の当然の役割だと考えているという意味において、大きな政府を指向しているといえるでしょう。
 というわけで、民族主義大きな政府とも小さな政府とも結びつくことが可能である、つまり経済活動の自由とは異なった次元を持つ座標軸だということができるのです。これについては後ほど、図表を使ってもっと詳しく説明することにしましょう。

事前規制から事後調停へ
 前述したように、自民党は、1970年代の田中角栄首相の時代に、都市部から吸い上げた金を農村部に回すことによる、「列島大改造」をくわだてました。都会から集めた税金によって、地方にも発展の資金を均霑(きんてん) し、日本全国の「均衡の取れた」発展を目指していたということができるでしょう。
 日本全国を平等に発展させるのだという考えは、なるほど国民の琴線に触れたことはうたがいありません。小学校しか出ていなかった彼は、当時「今太閤」とまで呼ばれ、ロッキード事件収賄疑惑を受けて逮捕されるまで、国民の間では大人気だったのです。

田中角栄


 ロッキード事件の後においても、この分配ばら撒き型の政治は続きました。田中角栄の後継者として田中派を継承した竹下登首相は、「村おこし」運動と称して各地方自治体に対して一律に1億円をばら撒くという愚行に出ているのです。
 こういった農村政党としての流れが、自民党内の郵政民営化反対路線に続いていたのだといえるでしょう。民営化を憂えていたのは、いうまでのなく過疎地の人びとだからです。それを「ぶっ潰した」のが小泉純一郎です。
 彼は旧来の派閥による利権型政治を否定し、都市住民を中心にした支持を集め、自民党を都市政党へと転換させたといえるでしょう。それにともなって自民党の政治だけでなく、霞ヶ関の官僚の間でも事前規制を主だった手段とする規制型の大きな政府から、事後調停型の小さな政府へとむかう大きな意識の変化が生じているのです。
 戦後の日本の政治は、おもに事前の規制によって、各企業を直接に管理しようとする事前規制型だったといえます。なかでも金融機関の護送船団方式はつとに有名です。これは、もっとも船足の遅い、つまり体力のない地方金融機関をつぶさないために、各種の規制を都市銀行にも課すというものでした。
 その結果、日本の金融機関は、全体として足腰が弱ってしまいました。バブル処理にいたるまでには、金融先進地域である欧米の金融機関に対して、デリバティブを使った多様な取引の開発能力から、融資のための事業リスクの査定能力にいたるまで、大きな差をつけられてしまったのです。
 これは、この間にトヨタソニーなどといった、国家規制によって保護されていなかった製造業が、世界的にますます発展を遂げてグローバル企業になったのとは好対照です。何かを市場で試してみる前から、原則禁止的に、あれはしてもいいが、これはダメ、などと、市場競争のプレイヤーでもない官僚が決めること自体が、自由で健全な企業活動の発展を阻害してしまうということなのです。
 しかし、事前規制をやめてしまうなら、おそらく多様な問題が生じることもまた明らかです。たとえば、一律に証券業者が可能な取引の種類を決めてしまえば、取引相手にとって危険な行為はなくなるかもしれません。それに比べて、自由な取引形態を認めれば、どうしても事後的には法律問題を含む多くの問題が発生するでしょう。
 さらに話を具体的にして、銀行業務について考えてみましょう。かつて銀行の株式投資信託販売が禁止されていた頃は、「投資信託は銀行が取り扱っているのだから、元金保障の安全な商品だと思っていた。」などという投資信託の購入者からのクレームなどは、そもそも発生しようがありませんでした。よって損害賠償義務の発生を主張するような法律紛争も、原理的に起こるはずがなかったのです。
 ここで、将来的に銀行が、未上場株式や商品先物などを含む、すべての金融商品の販売を許されることになったとしましょう。商品ごとのリスクは格段に異なっている以上、おそらくは説明義務違反や、過剰な売り込みがあったと主張する訴訟事件が相次ぐ可能性はけっして低くはないでしょう。
 事前に、何ができるのか、を決めてしまえば、そのほかのことはできないのですから、紛争の発生する余地はありません。事前に何ができないのかを決めた場合には、実際に行われたグレーゾーンの取引が、できないと決められたことにあたるのかどうかをめぐって、法律紛争が頻発だろうことは、自由な社会における、やむをえない必要悪だといえるでしょう。
 政府自民党霞ヶ関の官僚はすでにこれを見越して、弁護士の合格者数を昭和時代の年間500人から、年間3000人へと大きく舵取りをしています。かつて1万人しかいなかった弁護士の数を今後は10万人にまで増員しようというのです。
 10万人といえば多いようにも思われますが、社会制度全体の事前規制型から事後調停型への
転換という大きな変化を考えれば、その程度の人数は最低限度の必要を満たすものでしかないでしょう。人類の科学技術が進歩すればするほど、経済活動、精神活動の多様性も増し、それが大きな社会問題となり、解決するための法律化が必要となるからです。
 たとえば、インターネットのサイト上での書き込みによる名誉毀損があります。ネット上では、誰にでも書き込みは可能であり、誰からも読める以上、名誉を毀損する表現がなされる可能性は、紙媒体しか存在しなかった時代に比べれば、飛躍的に高まっているのです。
 実際、アメリカのように典型的な事後調停型の社会では、弁護士の数は100万人にも上ります。これは人口300人に一人が弁護士であるということです。ひるがえって、日本においては人口1万人に1人が弁護士です。日本では弁護士費用が高すぎて自己破産もできないなどと揶揄されるのは、そもそも弁護士の数が少なすぎるからではないでしょうか。
 それはともかく政府自民党は、経済規制に関しては、ある意味で小さな政府を目指していることはまちがいありません。「間から民へ」という合言葉は、少なくとも法曹人口の増加という国策に反映されているといえるでしょう。
 もう一つ、政府自民党の変化をあらわしているのが、「外務省のラスプーチン」と呼ばれた、佐藤優の言葉です。彼はロシア通の外務省元主任分析官でしたが。鈴木宗男事件に関連して検察庁から逮捕され、500日以上も拘留された人物です。
 その著書『国家の罠』において、彼はいいます。鈴木宗男議員の逮捕は、そもそも国策捜査であった。内政的にはケインズ型の所得の公平な分配システムから、ハイエク型の自由主義へ、外交的には、国際協調主義から排外的なナショナリズムへの「時代のけじめ」であったのだと。
 このような視点が本当に正しいのかどうかは、正直なところ私にはそれほどはっきりしません。しかし、こういう見方をすることも可能であるということは重要だと思います。それこそ、官僚組織や政府内部での機運、あるいは常識というものが徐々に変化しつつあることを意味しているからです。

民主党の迷走
 さて2005年の衆院選挙では、衆議院を解散した自民党小泉首相は「郵政民営化賛成か、反対か?」というわかりやすい表現で国民に訴えかけ、スローガンとして「改革を止めるな。」と郵政民営化を錦の御旗としました。それを国民に訴えかけるため、自民党郵政民営化に反対する議員を公認からはずしたうえで、さらに彼らの選挙区に「刺客」と呼ばれた対立候補を擁立するという処分に出ました。
 これに対して、2大政党にさえなるべきだという国民的期待をもたれていた民主党はどのように対抗しようとしたのでしょうか。
 民主党は、当時、岡田代表を要して臨みました。衆議院選挙では「日本を、あきらめない。」をスローガンにして、公務員の2割削減から、年金の一元化、教育改革、地方分権の推進、自衛隊イラク撤退、などにいたる8項目のマニフェストをつくって、自民党に対抗したのです。
 マニフェストが多く、論点がわかりにくかったためでしょう、結果的にいえば、有権者岡田代表率いる民主党に対して厳しい判決を下しました。議席数は改選前の177から113に激減し、まさに大敗北を喫してしまったのです。これを受けて岡田代表は辞任し、前原誠司新代表が選出され、l現在は旧自由党小沢一郎が党首となっています。
 さて、政権与党としての地位を磐石なものとした自民党に対して、民主党は今後どうするべきなのでしょうか。あるいは、もはや民主党の将来などはないのでしょうか。
 前述の日本経済新聞の芹澤洋一解説委員は、2005年9月21日の論説「大機小機」において、

1、小泉はリバタリアンの御旗を掲げて戦って、自民党に勝利を呼び込んだ
2、菅直人民主党首であれば、社民リベラル対リバタリアンとなったかもしれない
3、しかし岡田民主党は改革合戦という理解しにくいスローガンで戦い、敗北した
4、とはいえ、自民党内には多くの守旧派が存在しており、ゆり戻しがある可能性は高い
5、そのときこそ前原民主党リバタリアンな政策を打ち出して勝利することができる可能性がある

という内容のことを書いています。
 この見解はつまり、民主党は前原代表の下で自民党以上に小さな政府を目指すことによって、その将来が開けるということです。これは前原氏以上に小さな政府を掲げる小沢代表に当てはまるものです。
 そもそも自民党には、大きな政府を指向する利権政治にどっぷりつかった古参議員も多く、彼らは小泉首相の目指す小さな政府に対して、内心では反感を持っているはずです。小泉首相が総理大臣でなくなるのは2006年秋のことです。
 その後、あるいはそういった守旧派が一致団結し、反動政策を実行するための首相を選び、内閣をつくるということも十分に考えられるでしょう。仮にそうなれば、郵政民営化反対を唱えて2005年の衆院選挙で自民党から追い出された議員たちも、古巣の自民党に戻って、反動政治はさらに強固なものになる可能性もあるかもしれません。
 これに対して、芹沢編集委員の意見は、民主党リバタリアンな政治、つまりは小さな政府を目指すべきだということになります。民主党自民党よりもさらに小さな政府を目指すことになれば、利権政治と大きな政府を目指す自民党との対立軸がはっきりして、民主党の将来が開けるというのです。
 これはいかにも、経済を重視する日本経済新聞社編集委員らしい考えだと思いますが、そのようにことがうまく運ぶのかについては、二つの疑問があると思います。
 まず第一の疑問は、はたして今後の民主党が小沢代表のもとで、小さな政府を標榜して一致団結することができるのか、というものです。いいかえれば、前原代表が偽メール問題で退陣し、国民の党への信頼が危機的な状況にある中で、本当に民主党リバタリアンな政策にコミットすることができるのかという疑問だといえるでしょう。
 そもそも民主党社会民主党新党さきがけのメンバーを中心として、鳩山由紀夫菅直人を中心として1996年に結成された政党です。議員の中には旧自由党であった小沢一郎から旧社会党であった横路孝弘まで、さまざまな考え方の人がいるのです。
 彼らに共通する政治理念は全く存在しないといえるでしょう。旧自由党はたしかに自民党よりも小さな政府を標榜していました。しかしその反対に、旧社会党は明らかに政府による所得の再分配などの大きな政府を求めていたのです。
 「自民憎し」というだけで集合した議員たちが、小さな政府の掛け声の下にまとまるというのは到底ありえないように思えてしまうのです。それはいくら小沢代表が百戦錬磨の豪腕政治家であっても、容易に解消しない問題ではないでしょうか。
 このことがはっきりと見て取れるのが、2005年の衆院選挙時のマニフェストの内容です。8つのマニフェストのうち、一番目こそ、「衆議院定数80の削減、議員年金廃止、国家公務員人件費2割削減など、3年間で10兆円のムダづかいを一掃します」と小さな政府をうたっています。しかし、3番目には「月額1万6000円の「子ども手当て」を支給します」と大きな政府に戻っているのです。
 さらに6番目にいたっては、農業の「10年後の自給率50%実現のため、「直接支払い制度1兆円」をスタートします」となっています。これはつまり、農業に限っての分配型政治に逆戻りを意味しているのです。とてもじゃないが、小さな政府を指向したものとはいえないことは明らかです。
 ありていにいってしまえば、民主党は政治理念がないといわれる自民党以上に理念のない政党なのです。そんな民主党が近い将来に一本化した政治的なビジョンを持つことなど、到底できないように思われます。
 第二の疑問は、はたして2005年の選挙で自民党が勝ったのは小泉首相リバタリアンな政策を公約に掲げたからなのか、というものです。いいかえるなら、小泉首相の個人的な人気が自民党の大勝を生んだのであって、国民は別にリバタリアンな小さな政府など求めていなかったのではないのか、という疑問が残っているのです。
 実際、朝日新聞社が選挙後に実施した緊急全国世論調査をみても、自民党が圧勝した理由のトップは58%で、「小泉首相が支持されたから」です。反対する議員に刺客を送るような、従来型の政治では予想できない行動をとる首相の、個人的な「小泉人気」が選挙に与えた影響こそが圧倒的に大きな勝因だったのです。逆にいえば、小さな政府を目指す郵政民営化などの政策は、それほど有権者に支持されていなかったといえるでしょう。
 この問題は根深く、かつ深刻です。私がみるところでは、日本人は以下に述べる「クニガキチント」の罠からいまだに抜け出していません。そして小さな政府を声高に求めているとは到底思われないのです。

クニガキチントの罠
  私はごく普通の日本人です。もっと具体的にいえば、1966年に富山に生まれて、東京で4年間の大学生活を過ごしました。それからアメリカにしばらく遊学、留学してから、今は岐阜の大学に勤めています。こういう私の両親は地方公務員でした。
 ですから、国家がさまざまな制度を、国民のためによかれと考えて政治的に実行するということは、高校時代まではしごく当然のことだと思っていました。大学にはいってハイエクなどに代表される自由主義的な、あるいはリバタリアンな政治哲学を知るまでは、むしろそういった考えの礼賛者でさえあったのです。21世紀に入った今でも、こういった後見主義的な考えは、日本全国の片田舎で地道にはたらいている公務員をはじめ、多くの年配の知識人にとっては当然といえるものだと思います。
 いわく、高齢になってもきちんと生活できるように年金制度は国が運営するべきだ。子どもを育てながら働く母親をサポートするためには、国や地方自治体がだれでも利用できるような保育施設をきちんと用意するべきだ。すべての家庭の子どもになるべく平等な初等教育を受けさせるように、国がきちんと教育制度を立案して実行するべきだ。高齢者の福祉の増進のために、国や地方自治体が特別養護老人ホームなどをもっとつくるべきだ、などなど。
 ここでのキーワードは、国民生活の向上のために、すべての制度を「国がきちんと」整えることです。本書を通じて、このような国家による個人に対する後見主義的な考えを、「クニガキチント」
の誤りと呼ぶことにします。
 私はこのような考えは、私たちの精神的経済的自由への脅威だと考えています。さらに悪いことには、このような国家主義(statism)は経済的な自由を束縛するだけではなく、物質的にも社会における集権的な資源の分配を肯定し、結果的に精神の自由の束縛へとつながる危険思想なのです。
 すでにハイエクは、社会主義が世界的に広く蔓延する以前の1943年に、その著書『隷従への道』を著しました。ここでいう「隷従」とは、支配者、資源の分配者という権力者に対しての、一般市民である人びとの奴隷的な状態を指しています。ハイエクは、すべての国家主義思想、社会主義思想は、必然的に資源を権力的に配分することを要求し、それは表現の自由を束縛する可能性が高いことに、強く警鐘を打ち鳴らしたのです。
 その後60年以上がたちました。ハイエクの指摘がまごうことなく正しかったことは、誰の目にも明らかになりました。精神の自由、表現の自由を維持するためには、それを行うために表現者が生存する必要があるのです。そして、そのためには生存のための食べ物や衣服と、表現するための紙やパソコンなどの物質が必要なのです。表現の自由は空虚な形而上の存在ではなく、肉体を持つ私たち一人一人が実行する必要があるものだからです。

ハイエク


 ソヴィエト時代のロシアが誇った芸術は、バレエ、クラシック音楽など、帝政ロシア時代のものばかりです。これだけでも、表現や芸術が花開くためには、いかに多くの質的に異なったなパトロンが必要かを物語っていると思います。
 まとめてみましょう。クニガキチントすべてを行うことは二重に誤っています。
 一つは資源が効率的に使われないという誤りです。公務員が民間企業と同じことをすれば、2倍の人件費や施設費が必要であることは経験則からよく知られています。業務が非効率的でも自分の給料とは関係がない公務員では、効率的に仕事をしようとするインセンティブがそもそも存在しません。経済効率を上げるための創意工夫をする必要など、そもそも存在しないからです。
 これに対して、非効率的な運営をNPOがすることはあまりないでしょう。NPOの資金は、親方日の丸ではないので、そもそも有限です。組織とそこにはたらく個人自体が、ほとんどの資金をできるだけ目的の実現に効果的に使うようなインセンティブを持っているのです。
 また、クニガキチント社会福祉をするためには、そういった活動に対して疑義をさしはさむ市民からも税金を徴収する必要があります。私にとっての障害者福祉の意義は別の人の障害者福祉の意義とは異なっていて、使うべきだと考える税金の量も違います。それを集権的・強制的に決定して徴収しようとするから、節税活動などのバカげた行為がおこなわれるのです。
 国家がやれば効率が悪いのです。社会福祉などはそれを重要だと思う人が、自らの責任と資源を持ってすればいいのです。なんでもお上がやってくれる、あるいはやるべきだなどという人は、根本的に誤っています。それならば、そもそも自分が率先して社会福祉のような意義のある活動をするべきです。どれだけの労力を差し出し、寄付金をする気があるのかを、自ら口先ではなく、行動で示すべきなのです。
 もう一つ、もっと重要なことがあります。それはクニガキチントいろんなことをすればするほど私たちの経済活動、そして自己実現の自由が失われていくということです。クニガキチント銀行業務をおこなうなら、どういった産業が優先的に融資を受けることになるのかを国が決定し、それを強制的に、あるいは税金からの補助金つきで実施することになります。クニガキチント義務教育をおこなうなら、ほとんど必然的にどのような内容の教育を受けるべきかを国家が決定し、それを強制することになります。クニガキチント保育をおこなえば、どんな境遇の子どもがいくらの保育料で何時から何時まで、どんな場所で保育されるのかを議会が集権的に決定して、それを税金の補助でおこなことになるのです。
 これらの国の決定からもれた人びとは、たとえば郵便業務や医療行為のように行為が禁止されるか、あるいは、住宅金融公庫を使わない納税者や私立学校での子女の教育を望む親のように、自らの収入を他人のために税金投入として、強制的に使わせられることになってしまいます。どちらにしても、私たちの精神活動の自由や経済活動の自由を侵害してしまうのです。
 クニガキチント医者や弁護士になれる人を決めてしまえば、医者や弁護士のおこなうような業務をすることで社会に貢献したいのに、国の基準からもれてしまい、それらをおこなうことを禁止された人たちの職業生活を通じての自己実現を阻害してしまいます。なぜある人が自らの責任でおこなおうとする社会的行為を、クニガキチント制限してしまう必要があるのでしょうか。
 詳しくは、また後で詳しく論じることにしましょう。
 とにもかくにも、日本人はクニガキチントの呪縛から逃れる必要があります。クニガキチントの縛りがある限り、私たちは急増する外国人労働者などを含めた、誰に対しても開かれた自由な社会をつくることができないのです。
 かつて中高生のとき、クニガキチントの忠実な信奉者であった私は、10代の終わりから20代をへてリバタリアンになりました。私のようなリバタリアンが信奉するリバタリアニズムとはどういう考えか、それはどこから来て、どこへと私たちをつれていくのか、それをこれから説明していきたいのです。ぜひとも、お付き合いください。


2、リバタリアンな社会とは

現代国家の役割
 まずここで、私が日本の知識人の間の常識だと考える、日本という国家と私という個人の関係について、あるいは私の国家への義務について考えてみましょう。
 国家は私から税金をとります。これには直接的な所得税もありますし、日々の消費によって支払う消費税もあります。また、固定資産税などや住民税も忘れることはできません。それから国家ではありませんが、私は国家の定めるところによって共済保険や共済年金制度に強制的に加入させられています。
 これらの明らかな金銭的な負担に対して、私の権利はどのようなものでしょうか。
 私が犯罪の被害にあった場合には、警察が犯人を捕まえて、罰してくれます。またケガや病気の際には医療費の自己負担を3割にしてくれていますし、老後にはある程度の共済年金ももらえるということになっています。また医師法や弁護司法などの各種の法律によって、私が詐欺的な診療行為や取引話に引っかかったりしないように、後見的な保護もしてくれています。
 また、忘れてはいけないのは、外国に旅行したときなどに、災害やテロなどの緊急事態などでは日本国民としての現地国の政府から相応の待遇を受けるということです。そして、これらの関係は、私がごく普通の日本人として生きてゆく際にはほとんど自明なことだと思います。
 これらが、ちょっと考えてみて思いつく、私の国家への第一義的な義務と権利です。
 ここで注意してもらいたいのは、国家はひじょうに多くの権利や義務を、私をはじめとする国民の「明示的な同意」を得ないままに一方的に与えたり、課していたりするという点です。
 もちろん日本は民主主義にのっとった現代国家ですから、私は有権者として国会議員に投票し、その結果として成立してきたこれらの国民の権利義務に黙示的に同意を与えているいうように考えることもできるかもしれません。
 しかし現実的に考えれば、やはり私は共済制度が任意加入であれば加入しないでしょうし、その他の税金についても納得して支払っているとは到底いえません。また消費者保護のためという名目でおこなわれ、その実、各種の業界保護のためにしかなっていない規制などにもうんざりです。これらの意味において、国家は私に直接的・間接的な多くの「強制」をおこなっているといえるでしょう。
 リバタリアニズムはこのような肥大化した、後見主義的な国家の役割を否定します。人びとは自らの意思によって行動する自由と権利があり、それに伴う結果についても責任を負います。それが大多数の人間から見て愚かしい行為であったとしても、それを他人から強制されない自由な意思によって行うのであるかぎり、それを愚行権として認め、他人が物理的な強制力をもってやめさせるべきではないと考えるのです。
 
古典的リベラリズムの変質
 さてリバタリアニズムという言葉は比較的新しい政治用語だといえるでしょう。
 これに対してリベラリズムという言葉は皆さんもご存知だと思います。リベラリズムはいうまでもなく、人間の自由というものを重視した思想で、近代市民社会を形作ってきた自由主義思想だといえるでしょう。
 19世紀までのリベラリズムを古典的リベラリズムと呼ぶなら、古典的リベラリズムは政府からの自由を標榜していました。あるいは政府という強制権力になるべく拘束されないという意味での、純粋な消極的自由主義であったといえるでしょう。
 しかし20世紀にはいると第一次世界大戦が勃発し、ホーエンツォレルン家によるドイツ帝国は革命によって崩壊し、ヴァイマル共和国が成立します。この頃から、個人に対して国家が最低限の生活を保障するという社会権もまた、基本的人権のひとつとして加えられるようになってゆくのです。
 同じ頃、ロシアでも社会主義革命が勃発し、人間の個人的な自由よりも、むしろ社会的な平等を第一義的な政治目標とする政治体制が成立しました。レーニンによって指導されたロシアの社会主義制度はソヴィエト社会主義共和国と呼ばれ、第二次世界大戦後、その政治的な支配権を東欧におよぼしました。また、中国やヴェトナム、北朝鮮もまたそれぞれが独自の社会主義政治を追求していったのです。

レーニン


 この間、20世紀を通じて資本主義諸国においても急速な勢いで、社会権もまた基本的人権として保障されるべきことが認められてゆきます。フランス第4共和国憲法日本国憲法、世界人権宣言にも当然のように社会権の保障が入り込んでいることは周知の事実でしょう。
 さて、基本的人権としての社会権はよく、国家による物質的な欠乏からの自由の保障、あるいは積極的自由の保障であるといわれます。実際、私が大学受験で学んだ教科書にはそのように書いてありましたし、今もほとんどの教養ある知識人はそのように理解していると思います。
 しかし、国家による「貧困からの自由」という概念は、そもそも本当に「自由」権なのでしょうか。もともと社会的に「自由」であるということは、他人の意思やこれまでの制度の拘束を受けないという意味を持っていたはずです。これに対して欠乏・貧困からの自由とは、国家権力からの自由どころか、積極的に国家の個人生活への介在を必要とします。
 そもそも個人に対して貧困からの自由を実現するためには、実際には国家が他の誰かからその物的な資源をとりあげて、貧困に苦しむ人に対して配分する必要があります。もっと現実的にいうならば、通常より年間収入の高い、あるいはより多くの物的資産をもつ個人に対して課税を行い、その財産を強制的に徴収して貧者に対する再配分をおこなうことが当然視されているのです。
 これは明らかに、自らの収入や資産を自由に処分するというフランス革命以来の古典的な財産権的自由権と対立します。ある個人の社会権を保障するためには、別の個人の財産権、あるいは私的所有権を制限する必要性が生じるからです。
 また同時期に、アメリカでの黒人公民権運動や同性愛擁護運動など、それまでの因習では社会的に否定され、差別されてきた人たちへの救済措置も国家がおこなうべきだとするような政治的主張がなされるようになりました。これが平等権という社会権として認められた結果、国家的が積極的に多様な行為を市民生活においても果たすべきだという現代的な風潮ができあがったのです。
 英語圏でいうリベラリズムには、こういった国家による多様な積極的な自由を現状以上に肯定するという響きがあります。リベラルという言葉には、すでに個人の内面的な精神活動を、他の人間へのさまざまな偏見なども含めて擁護するという自由主義的な色彩は薄れてしまいました。むしろそういった偏見、あるいは個人的な嗜好の選択を、国家が画一的に否定するようなものになってしまっているのです。

リバタリアニズムとは
 20世紀を通じてリベラリズムが古典的な自由の肯定的思想から、むしろ否定的な思想となってゆく間に、古典的な自由を復興しようとする考えが起こりました。それが社会権を否定し、自由権のみを肯定するリバタリアニズムなのです。
 リバタリアニズムという言葉は、19世紀までは「自由意志論」とでもいうべきもので、つまり自然哲学的な決定論に対するものとして存在していたものです。これは現在も哲学用語として使われることがありますが、めっきり少なくなり、政治的な色彩を帯びた言葉になったのです。
 多くのリバタリアンは警察・軍事・外交などの最低不可欠の機能のみを持つ国家を目指しています。そして、一部のより過激なリバタリアンは個人の権利を越えた権限を持つ国家を一切否定する無政府資本主義を信奉しています。
 このようなリバタリアニズムは、政治思想としてはハーヴァード大学の哲学教授であるロバート・ノージックが1974年に著した『アナーキー・国家・ユートピア』によって確立したといえると思います。この著作でノージックは、われわれは国家という強制権力装置によって、富者の財産権を侵害しながら貧困者を救済することは道徳的に許されないとしました。そして唯一肯定できるのは治安を維持するという最低限度の機能を持った、彼のいう「最小国家」であると結論付けたのです。
 この著作は大きな影響を今も持っていますが、実はこれに先んじて1971年には、哲学者ジョン・ロールズによる平等主義を唱道した名著『正義の理論』が出版されています。ロールズはそこで、配分的な正義の実現、すなわち平等主義原則の私的所有に対する規範的優越を掲げました。ノージックの著作は、ロールズの理論に対する、思想史的なアンチテーゼだったといえるでしょう。
 経済学者は政治哲学者より早くから、社会主義に対するより強い警戒心がもっていました。経済学者は自発的な交換、すなわち商取引を重視するため、強制権力を使って平等を実現しようとする社会主義には、必ずしも肯定的ではなかったからです。社会主義は高らかに社会権の保障をしますが、それはすなわち経済的な自由権の侵害を意味するのです。
 前述したように、第二次世界大戦中の1943年には、すでにフリードリヒ・フォン・ハイエクが『隷従への道』を著し、社会主義への警鐘を打ち鳴らしています。社会主義体制においては、個人よりも社会の利益を優先するために全体主義に陥り、そこでは支配者による思想や価値の押し付けが横行することになります。被支配者である市民は、権力者への隷属的な地位におとしめられてしまうと主張したのです。
 その後、70年代までは社会主義的な思想風潮、あるいは市場の万能性を否定して政府による経済介入の必要性を説くケインズ主義が、支配的な風潮として資本主義社会においても蔓延しました。このような状態にもかかわらず、アメリカでは自由な市場への政府の介入を否定するミルトン・フリードマンが、自由の価値と、自由市場が社会主義体制よりも人びとをより幸せにすることを『資本主義と自由』や『選択の自由』において訴え続けていたのです。

選択の自由

 個人の幸福度を基準として社会の優劣を比較する考えは、功利主義と呼ばれます。ミルトン・フリードマンの息子であるデイヴィッド・フリードマンは1973年に『自由のためのメカニズム』を著し、その後も一貫して、功利主義的な基準において、無政府資本主義のほうが政府の存在する社会よりも優れていることを訴えています。
 また経済学のオーストリア学派の流れをくむマレー・ロスバードは、権利論に基づく無政府主義の金字塔を打ち立てています。彼は1981年の『自由の倫理学』において、政府は物理的な強制を伴う存在である以上、倫理的な基準においても存在することは許されないという過激な主張を完成しました。
 彼によれば、人間の自由な活動によって獲得された私有財産は倫理的に絶対的に擁護されるべきものです。その権利を税金などの形であれ、わずかでも取り上げるような国家とはすなわち、倫理的にみて強盗団にほかならないと喝破したのです。
 以上、リバタリアニズムはさまざまな思想的淵源を持っており、論者によってその主張はそれぞれ異なります。おそらく共通しているのは、自由な社会は平等主義的な社会に比べて、より個人の物質的な生活が豊かであるという意味で望ましく、また人びとはより自分の個人的目的を達成することができるという意味で倫理的にも望ましい、という二つの信条だといえるでしょう。

ノラン・チャート
 アメリカではこのような考え方を実践するために、1971年からリバタリアン・パーティという政党が存在します。しかし、残念なことに、その政治力は微々たるものでしかありません。そもそも政府を縮小するために政府の政権をとるというのは、ちょっと考えても大きな概念矛盾があるからでしょう。
 自由を極大化するために現状よりも小さな政府を目指す政治家は、民主党よりも共和党に所属することが多いようです。たとえば1978年から8年間政権を担ったレーガン大統領なども共和党から立候補して、経済的には小さな政府を標榜して規制緩和を推し進めました。
 リバタリアン・パーティはたしかに政治的な影響力はほとんどありませんが、その創始者であるディヴィッド・ノランは、リバタリアニズムを理解する際にひじょうにわかりやすい図を考えました。広く知られている、この政治勢力の分類図はノラン・チャートと呼ばれています。


                      精神的自由 


         リベラリズム                  リバタリアニズム


                                         経済的自由

         全体主義                   愛国的保守主義


 チャートを見てください。縦軸には精神的自由度の高さが、横軸には経済的な活動の自由が表現されています。
 左上のクオドラントは、リベラリズムをあらわしています。リベラリズムは因習的思考に反対し、精神の自由を高く評価するという点で、いわゆる進歩的知識人の政治嗜好をあらわしています。岩波書店朝日新聞に代表される言論界、あるいは主に大学人たちのような知識階層がここに当てはまることが多いでしょう。裁判所などを闊歩する裁判官や弁護士にも、こういう考えが支配的です。
 政党としては、旧社会党や現在の社会民主党、極端ではありますが、共産党などがここに位置します。現在の民主党では、菅直人鳩山由紀夫などが、弱くはありますが、このクオドラントにはいるといえるのではないでしょうか。
 チャートの右下のクオドラントにあらわされているのは、経済的には自由主義を標榜しながら、同時に愛国精神による思想的な統制を望む人たちです。現代日本の政治状況においては、新自由主義と呼ばれるナショナリズムがこれにあたります。
 これに関連して興味深い事実は、ほとんどの国でのネット愛好者たちのサークルでは、愛国主義的で外国人に対する排外的な発言が目立つことです。日本でも、国際派である新聞社などの大手マスコミは中国や韓国の日本批判に対して融和的な態度をとっています。これに対して、一般庶民の発言が書き込まれている2ちゃんねるなどでは、「ネットうよ」、つまりネット上の右翼が主流となっているのです。そこでは対日批判を続ける中韓に対しても、侮蔑的・軽蔑的な発言が圧倒的多数です。
 おそらくこれは、外国の言語や文化にもよく通じており、世界的な視野をもつことが多い知識人に対して、一般庶民が日本という言語的にも空間的にも閉ざされた国にのみ生きているからでしょう。生活空間が狭い下流社会に住んでいる人ほど外国人などの他者への偏見や排外意識が強いことは、ドイツのドイツ民族主義集団ネオナチやアメリカの白人優越主義集団KKKなどでも同様であり、歴史的にも社会学的にも事実でしょう。
 さて左下のクオドラントは全体主義です。その極限は、北朝鮮のような国家です。それは思想的にも民族主義社会主義を強制し、経済的にも計画経済と集産化を推し進めた社会であり、そこには物質的な豊かさも、精神の躍動的な自由もまったくありません。この点、中国やヴェトナムでは思想言論統制を続けながらも、経済活動については徐々に自由化しています。図でいうなら、左下から右下へと次第に移動しつつある社会だといえるでしょう。
 さて本題のリバタリアニズムは、右上に位置します。リバタリアニズムは精神的活動においても経済的な活動においても、最大限の自由を保障しようとします。左上のリベラリストからみると、「経済行為とは私利私欲に目がくらんだ金儲け」にすぎないため、あるいは物質的な不平等を拡大する社会的必要悪であるため、大幅に規制するべきだということになります。よって、リバタリアンは過度の私有財産制度の擁護を試みていると攻撃されることになります。また右下のナショナリストからも、親英米的な自由主義にかぶれた売国奴であるとして非難されることが普通です。
 つまりリバタリアニズムが一般的に不人気なのは、そのよって立つ基盤が伝統的に二分化されてきた政治陣営のどちらからみても、容易に譲歩しがたい相違点を持っているからなのです。
 実際、私を含めてリバタリアンの多くは国家というものはなるべく小さいのが望ましいと思っていますが、これはどちらかといえば資本主義体制や私有財産制度を肯定します。とすれば、この点からすれば、右翼的、あるいは保守的だとみなされることが普通です。これは、知識人階級のもつ平等主義に基づく経済的活動の抑圧は、職業生活こそが自己実現である多くの一般庶民の活動を無意味なまでに矮小化するものとして批判することでもあります。
 ところが同時に、リバタリアンはほとんどの場合、ナショナリズムもまた危険であるとみなします。ナショナリズムとは、まず民族ありきであり、どの民族に属するかが相手に対する行動の重要な基準になります。これに対して、リバタリアンは民族的な差別・区別は個人的な行動としては許されるが、国家のような強制権力内にはこれに反対する人が含まれる以上、国が伝統的民族主義などを教育することは少数者の自由の侵害であるとして、徹底的に糾弾します。しかし、このような考えはほとんどの保守的な民族主義者にとっては、ほとんど理解不可能でしょう。
 こういった理由から、リバタリアニズムは日本ではいうまでもなく、多くの国ぐにで大きな社会的な勢力となりえていないのです。

福祉国家から夜警国家最小国家へ逆戻り?
 ノラン・チャートにあらわれているように、リバタリアニズムは思想・良心の自由は当然に重視しますが、それだけでなく、経済活動もまた可能な限り自由におこなわれるべきだと考えます。これはつまり、19世紀に思想的に全盛期であったと考えられる、自由放任主義、あるいはレッセ・フェールへの全面的な逆行であるとも考えられます。
 自由放任主義とはすなわち、人間の自由な経済活動は干渉されるべきではなく、個人の自由な活動の任せておけばおくほど社会全体はより豊かになり、望ましい社会になるのだという思想だといえます。
 このような思想をはじめて世に問うたのは、18世紀の思想家マンデヴィルでした。彼は1714年の主著『蜂の寓話』の副題を、「私的な悪は公的な益」と銘打っています。彼がそこに暗喩したのは、個々の蜂が一見して無秩序に自分の利己的な利益を求めてブンブンと動き回っているのに、その結果としては、全体としての蜂の巣、つまり社会全体はより望ましいものになるという逆説だったのです。
 明らかにマンデヴィルの考えに触発されて、1776年アダム・スミスは『諸国民の富』を著しました。そこでスミスは、われわれが肉屋にいって肉を買えると期待できるのは、肉屋の慈善的な心性によるのではなく、肉屋の金儲けの利己心によってなのだと指摘します。明らかに、私たちの現代資本主義社会とは、このような無数の利己的な心性によって維持・発展しているものだといえるでしょう。

アダム・スミス


 その後、19世紀の初頭に、デイヴィッド・リカードは『経済学原理』を著し、貿易をおこなう2国間の比較生産費のモデルを発表します。そこで彼は、政府に干渉されない自由貿易は、必ず貿易両国にとって物質的により豊かな状況をつくりだすことを証明しました。ここに経済学の古典派が完成し、経済はレッセ・フェールにあればあるほど豊かになるという考えが、19世紀の支配的な学問的認識となるのです。
 そしてリバタリアニズムは、このようなレッセ・フェール、あるいは夜警国家への回帰を訴えているのです。
 現在、ほぼ全世界の国家は社会国家、福祉国家としての役割を自認し、国家的に運営される救貧・防貧政策から、年金・医療保険などの社会保障制度にいたるまで、ひじょうに多岐にわたる任務を果たしています。
 しかし、その結果はどうでしょうか。生活保護を受ける家庭は急増しています。彼らの多くは低賃金で働くよりも、むしろ保護を受けて生きたほうが割がよいことを知って、働くことを放棄しているといっていいでしょう。国民年金制度にしても、度重なる年金保障額の引き下げで信頼を失い、すでに未払いが4割近くにもなっています。
 このような状況に対して、クニガキチントを信じる人たちは、さらなる強大な国家制度の枠組みを構築して、状況を打開するべきだと主張しています。けれども、私にはそのような政策が望ましいとも思われないし、うまく機能するとも思われないのです。
 警察は国家がおこなうべき最小限度の権力的、あるいは暴力的行為ですが、その警察が青少年の保護などの社会福祉係になるというのは、そもそも能率がよいはずがありません。警察機構の本来的な任務である、犯罪行為の防止という治安維持の観点から見てみましょう。
 防犯業務ではない業務の遂行にも、時間的・人的資源はかならず必要とされます。そうなれば、未解決の事件が残ったり、あるいは夜間パトロールの時間は減ってしまうでしょう。このようなトレード・オフが存在する以上、強制権力を持ち、税金で維持される警察には、犯罪行為に限っての抑止行動に注力するべきです。
 また国防や外交も重要です。一例として、ここで北朝鮮による横田めぐみさん拉致事件について考えてみましょう。誘拐という犯罪行為をおこなったのは北朝鮮という国家組織です。そして、そのような組織的な犯罪行為を実行した人物たちは全員が北朝鮮にいるのです。このような状況において、横田めぐみさんの両親のような個人にとって、何かできることがあるでしょうか。
 主権国家が並存している国際社会の現状では、自国民の保護とは、いうならば自分やその家族を強盗団から守るというような第一義的な要請だと思います。国内の景気浮揚というような、そもそも国家によってできるものなのかどうかもわからず、かつ人の生命に差し迫った緊急性もないことよりも、はるかに重要なことです。
 にもかかわらず、誘拐された自国民保護をおざなりにしたままに20年以上が過ぎ、小泉首相が日朝会談を最初におこなった2002年以降、現在に至るまで事態の全容も解明されないままです。福祉国家を掲げる日本の政治家は、この間、明らかに重要度の低い国内の社会問題などを論じ続けているのです。いかにも本末が転倒しているのではないでしょうか。あまりにも多くの目標を掲げる社会国家の持つ矛盾をさらけだしているといえるでしょう。
 クニガキチントの誤りに基づいてあらゆることを国家に要求するのはやめて、それらは後述するように、NPOその他の強制権力を伴わない自主・自発的な組織にゆだねるべきです。そして国家は警察、国防・外交に専念するべきなのです。それは時代に逆効するというものなどではなく、むしろ20世紀の社会主義的な試行錯誤を経て、人類が達した教訓だと考えられるでしょう。

ではなぜ夜警国家がなぜ必要なのか?
 ではさらにすすんで、夜警国家さえも必要はないと考えることはできないのでしょうか?
 アナーキストはほんのわずかです。無政府を信じる私のようなアナーキストを除いて、通常の経済学者であれば、最低限度、国家として警察、国防、外交の三つの任務に当たる「国家」あるいは「政府」が必要だと考えます。
 それはこれらの三つの任務には、純粋な意味での「公共性」があるからです。一般的な言葉としての「公共性」という概念はひどく濫用されており、およそ多数の利益にかかわることはすべて公共的であると考えるのが通常だと思います。
 しかし、経済学でいう「公共性」はこれとは異なります。それはもっと厳密なもので、公共財とは「その利益や損失の享受が非排他的なこと、つまり、一人が受ける利益が不可分に他人にも利益になるような財やサービス」のみに対して使われます。たとえば、警察活動の中でもパトロールなどの犯罪の一般予防に関する活動は、夜に街を出歩く私の受けるサービスと、同じように出歩いている他人とに対して、同じように利益をもたらすと考えられるのです。
 国防にいたっては、北朝鮮からのミサイルから私を守ってくれる迎撃体制が、私の近くに住むすべての人の利益になることは疑いないでしょう。同じように、外交活動によって横田めぐみさんを取り戻すのも、自国民保護という目的において、誰彼の区別なくそのサービスを潜在的に受けるものだと考えられます。
 以上が、厳密な経済学でいう「公共性」という概念の意味するものです。これら警察、国防、外交のサービスは私の受ける利益と他人の受ける利益とがあまりにも密接不可分であるため、それらをおこなうための政府を必要とするのです。
 とはいえ、もっとゆるやかな意味での公共性は、公害対策などの環境規制や河川の溢水を防ぐ防災活動などにも使われます。こういった活動は、利益を受ける人々や損害を被る人々があまりにも多く存在します。そういった活動について、その経済的な対価の一人一人の支払いを通常の交渉にゆだねるのでは、あまりにも合意に達するための費用(これを取引費用といいます)がかかりすぎてしまいます。結果として、公害紛争などの当事者間ではなんらの合意も得られないことになってしまうかもしれず、これでは経済全体としては大きな損失を被ることが考えられます。
 すでに1960年、シカゴ大学ロナルド・コースは「社会的費用の問題」という論文を書いて、このような公共性の問題はつまり、取引費用の問題に帰着させることができることを指摘しています。
公害などのように、あまりにも数多くの人たちが利益主体となるような法律関係は、公害を起こす企業や個人と、その公害の被害を受ける多数の個人との間で、容易に交渉がまとまるはずがありません。
 その結果、公害物質の排出は過剰になるかもしれません。あるいはその被害を全面的になくするために、有用な物質が作られないことになってしまうかもしれません。どちらにしても、経済全体としては大きな機会的な損失をこうむることになってしまいます。
 そこで、全知全能で慈悲深い「政府」があれば、二酸化炭素やさまざまな窒素化合物などの有用な経済活動の伴って生じる公害物質の最適な排出量を決め、誰がどの程度、被害の補償をおこなうかというような問題もすっきり解決するというわけです。
 しかし、現実の政府は、それ自体が自己肥大化という目的をもつ怪物です。さらに、私には現存する政府に勤める官僚に、民間人の遠く及ばないようなすばらしい判断ができるとは思えないし、そもそも正しい判断をするためのインセンティブにも欠けていると思います。結局、政治的な単なる妥協の産物が私たちに押し付けられることになるのです。
 政府がどの程度の役割を果たすべきかに関しての議論は、これだけに尽きるほど単純ではないでしょう。しかし、一つだけいえるのは、経済学者が考えるような、取引費用の大きさから必然的に生じる政府活動の必要性はごくごく小さいということです。そして、それに比べると、現代国家では、あまりにも有害で多様な活動を政府がおこなっているということなのです。
 私は最少数派のアナーキストですから、ゴルフにたとえるなら、ほとんどボールの大きさと同じほどに小さなホールを狙っているのだといえるでしょう。リバタリアンの大多数を占める最小国家を目指す人たちであれば、先に述べたような夜警国家を考えます。これはゴルフでいうなら、グリーンという比較的ひろい目標をねらっていることにたとえられるでしょう。
 どちらにしても、現状の福祉国家というティーショットから打つ方向は、まったく同じだといえると思います。政府は無意味に肥大化するべきではなく、強制権力を持っている以上、謙抑的な夜警国家にとどまるべきなのです。

世界的に再評価されつつあるリバタリアンな政策
 福祉国家の概念は第二次世界大戦後、広く先進国に普及しました。そこでは国家が国民に対して「ゆりかごから墓場まで」の世話をすることが理想とされたのです。このような理想を実現するために、たとえばイギリスでは、大きな主要産業の国有化や社会保障制度の拡充を図りました。
 その結果、国営企業労働組合は市場競争がないなかで、賃金上昇や労働条件の改善を求めてストライキを繰り返しました。同時に、福祉政策によりかかった多くの人びとが働かないことを選ぶようになり、生産効率は停滞し、経済成長は著しく鈍化しました。
 このような状態を憂い、市場主義の導入による経済の再生を目指したのが、1979年からの保守党のサッチャー政権でした。サッチャーは電話、ガス、航空会社などを民営化して、労働組合の政治力を弱体化させました。また金融でもビッグバンとよばれるほどの大幅な規制緩和を断行し、ロンドンにあった金融街シティを再生させ、大英帝国時代の世界の金融センターとしての地位をふたたび確固なものとしたのです。

ロナルド・レーガン中曽根康弘


 時を同じくして、アメリカでも共和党ロナルド・レーガンが大統領になり、国家による通信業界、航空業界の過剰な規制などを緩和して経済を活性化させようとしました。また、日本の中曽根康弘首相は国鉄電電公社(現NTT)の民営化によって、硬直化しつつあった日本経済にカンフル剤をうったのです。
 ニュージーランドでは1984年、それまでの社会国家に比べてはるかにリバタリアンな政策が採用されました。これは時に、「経済原理主義」とまで呼ばれたほどでした。まず、国営企業は電話から金融、航空、鉄道の運輸にいたるまで民営化されて売却されました。そして、産業保護や規制はその多くが撤廃され、大学は独立法人化され、中央官庁の官僚も半減させたのです。
 この時代から、市場を重視する勢力は、国民の平等を国家によって実現しようとする福祉国家政策の増大に対して、大きな疑問を投げかけるようになったといえるでしょう。これはソヴィエトの崩壊と社会主義陣営の市場経済化によって、急速に拍車がかかったことはいうまでもありません。
 その後、日本ではバブル崩壊を経て、90年代は「失われた10年」と呼ばれた経済停滞の時期を迎えました。ついに2001年に小泉純一郎が首相になると、彼は「改革なければ成長なし」を掲げて、道路公団や郵便局の民営化に踏み切るのです。
 2006年現在の日本経済は回復基調にあります。とはいえ、私の意見では、小泉政権の後半2003年ごろから日本の経済が再び成長し始めたのは、経済改革が実行されたためではないと考えています。理由は単純です。経済が回復し始めた2003年の時点では、目に見えるような経済改革は未だに実施されていなかったからです。
 しかし、経済を活性化するために多様な国営組織を可能なかぎり民営化する、つまり「民間でできることは民間で」というスローガンは、リバタリアニズムの目指す小さな国家と軌を一にしているといえるでしょう。
 実際には、アメリカへの一極集中が叫ばれる中でも、必ずしもリバタリアンな政治が世界の圧倒的な潮流となっているとまではいえないと思います。
 この理由は後述するように、自由な経済活動が必然的に人びとの間の貧富の格差を広げてしまうという点にあると思います。これは、おそらくリバタリアンな政策のもっとも大きな弱点であるでしょう。たとえば、南アメリカではこれまで比較的親アメリカ的な自由主義を標榜する政府が多かったのですが、90年代以降の経済成長によって社会の貧富の格差が広がるにつれて、反米的な政府が次つぎと誕生しているのもまた事実だからです。

最小国家での医療制度
 それではここで、もっと具体的にリバタリアンな政治について考えてみましょう。まず最初に、もっとも端的でわかりやすく自由という概念が理解できることから、医療制度について考察をくわえることにします。
 現在の複雑にいりくんだ医療制度についての話をわかりやすくするために、まず第一の仮定として、現在の国家によって認定された大学による医師養成、ならびに独占的な医師の認定制度を前提にして、まずは医療保険制度についてのみ論じてみましょう。
 これを、医療制度に関する自由度レベル1の社会とでも名づけることにしましょう。
 自由度レベル1の社会では、国家が国民に加入を強制する医療保険などはありません。その結果はどうなるのでしょうか。国民はすべからく医療費の全額を支払うことを要求され、金持ちは命が助かるが、財産が少なくて治療費を支払えない人は、そのまま見捨てられて、のたれ死ぬしかないのでしょうか。
 常識で考えても、保険制度が発達した豊かな先進国が、こんな状態になるはずはありません。ほとんどの人は、病気などのリスクに対しては、危険回避的です。いいかえるなら、万が一にそなえて疾病・障害保険に入るためには、リスクを考えて、保険数理的にフェアな金額よりもすすんで多くを支払う用意があるということです。
 ここに保険会社の存在意義があります。レベル1の社会ではほとんどの人びとは保険会社と契約をすることによって疾病による財産的な危機を回避しようとするでしょう。そこでは、タバコを吸う人と吸わない人の保険料はリスクに応じて異なるでしょうし、そのほかにも多くの疾病リスクの細分化によって、異なった保険料が、異なった会社で設定され、それらから一般の契約者は自分が納得できるものを選ぶのです。
 なかには金銭的に余裕がない、あるいは危険回避的ではない、という理由から保険に加入しない人も出てくるでしょう。しかし、そういった人たちの存在が問題だと思う人は、彼らに補助金を与えて保険に入らせればいいでしょう。もちろん、自らの財産を使ってです。
 正直にいって、私には、本当にすべての人があまねく保険に加入する必要があるとは思えません。タバコをすって自分の寿命を縮めるのも、バイクに乗って身体障害者になるリスクを高めるのも、保険に入らずに人生をギャンブル的に生きるのも程度の差こそあれ、基本的には人間の生き方の自由に含まれると思うからです。
 人はそれぞれ自分が価値だと思うものに対して、自分の人生を使えばいいのです。単に長く生きることは、必ずしも幸せを意味するわけではありません。人はみな、単に生きるために生きるのではなく、それぞれが自分なりに掲げた目的の達成のために生きているのですから。
 長く生きるために自分の物的な資源を使うか、あるいはそれ以上に重要な個人的な価値のために散財するのかは、本人の財産権の処分であり、本人だけが決めることができる性質の事柄です。保険に入らずにのたれ死ぬのも、また人生の自由で多様な選択肢として認められるべきです。命より大事なものはないなどという、余計なお世話の心から、他人の感じる価値を無碍に否定するべきではないと思います。
 さて次に自由度レベル2の社会について考えてみましょう。

民間で認定される医師資格
 レベル2の社会では、医者とはすなわち、現在のパソコン管理者としてのオラクルマスターマイクロソフト認定資格者などと同じように、いくつかの民間認定機関が認定した医療技能を持つ個人をさすことになります。
 もちろん、医療行為は高度に専門化されており、専門家ではない素人にはある医者の医療技術の信頼度ははっきりしないでしょう。
 だからこそ、認定機関が重要なのです。民間の認定機関は、その認定医師が医療過誤を起こせば評価が下がります。複数の認定機関と格付け機関が、現在の都市銀行と企業格付け機関のように相互に競い合えば、最先端医療の現場の医師への再教育にも熱心になります。また、若いときには医師としての診療技術のレベルを保っていたが、高齢化して技術を維持できなくなった医師には、市場から退出してもらうこともできるのです。
 もちろん、医師の資格も多様に存在してかまわないはずです。現在の医師資格は、いったん取得してしまえば死ぬまで有効であり、内科、外科、皮膚科、眼科、など分野の大きく異なる医療行為もすべてできるという、たいへんにいい加減な資格、いうなれば医師の既得権益的資格になってしまっているのです。
 民間認定機関では、真に能力がない場合には医療の特定専門分野のエキスパートとはみなされません。また、認定をおこなう機関どうしが競争することによって、現在の国家資格よりもはるかに安全で信頼できる医師が大量に誕生するでしょう。
 S&P(スタンダード・アンド・プアーズ)とムーディーズは、企業や公共団体の債務の格付けについて、お互いが競い合っているからこそ信頼できるのです。かりにトリプルAをつけて絶対に安全だとした企業がつぶれれば、格付け機関は信用を失ってしまい、その後の存続自体が危ぶまれます。従業員のモラルにしても、自らの給料そのものが業務の公平性、信頼性にかかっていることが認識されているからこそ、万一の際の自浄作用も期待できるというものです。
 それに対して、クニガキチント医師を認定する現行制度には、基本的に競合関係に立つような組織がないため、そもそも緊張感がまったくありません。どのような医療技術が安全生が高いのか、あるいはどのような可能性を秘めた治療法があるのか、そしてどのような治療法を学ぶのが望ましい医師としての知識なのかを、真剣に吟味するための経済的なインセンティブが誰にも存在しないのです。
 また現行の医師制度では、一度医師になってしまえば資格は永続しますから、一人一人の医師が新しい医療技術について正しい知識を習得する必要はまったくありません。医師のモラルだけに期待するのは合理的ではないように思います。
 ここで、複数の医師資格が存在するなど考えられないと叫ぶ前に、ぜひとも思い起こしていただきたいことがあります。それは現在でも、世界の各国において認められている医師というのは、そもそも異なった国家によって異なった選抜をへて存在しているという事実なのです。
 みなさんは、海外旅行先で病気にかかったとして、現地の医者がそれほど信用できないでしょうか。私はアメリカに8年近くいましたが、その間、何度もアメリカの医者に通いました。そこではおおよそ日本と同じような医療設備があり、治療も同じようなものだったにちがいありません。それは医療的な知識や技術、あるいは設備には差こそあれ、途上国でも同じだと思います。
 しかし、日本の医者が要求されている知識とアメリカの医者のそれとは、たしかに違いがあるのです。同じように、フランスの医者とドイツの医者、中国の医者の知識や教育は異なっています。しかし、それなりのコンセンサスはあり、違いは少ないでしょう。私が主張する多様な医師制度も、結局は、その程度の違いしかないことになるだろうと思われるので