kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

アリストテレスは死んだ

今日は一日本を読んでいたので、なんかさすがに飽きてきた。ので、平凡助教授のサイトを読んで、公共哲学で有名な山脇直司さんとのやりとりを読んで、なるほどと思ったし、「形而上社会科学」について僕が思うところを書いてみよう。

http://theorist.blog6.fc2.com/blog-entry-199.html

僕は昔から、いわゆる社会科学の本を読んできたが、関連して現代哲学の本も読むことがあった。英米の解析哲学と違って、構造論やポストモダンなどはまったく読んでもチンプンカンプンだ。なぜかといえば、そこで使われている言葉がまったく著者個人の思い込みによって使われていて、僕には理解出来ないからだ。

もっと厳密に、その曖昧(でペダンティックな)言葉を定義してから書いてくれよ!と感じるのだ。ウイーン学団以来の、観念論哲学の科学からの追放の要求と同じものだといえば、分かりやすいだろうか。


平凡助教授の感想と同じく「公共哲学」という言葉自体が、おそらく形而上学の伝統を負っていて、僕には理解できるはずがない。ところで、そのような個人を超越した価値が、チンパンジーと同じようだった僕らの祖先にはあったのだろうか?あるいは100万年前はどうだったのだろうか? あるいはもっと知的になったイルカと人間が共生する社会では、存在し得るのか?

ゲーム理論はきっちりとこの問いに答えてくれるが、哲学者たちのどれだけが、そういった現代のヒトにのみ説得力のある(ように思われる)議論で満足できるのか?

科学と文学はお互いに理解出来ないのだろう。僕は神経科学がその理由をいつか解き明かすのではないかと、ちょっとだけ期待している。ヒトの神経回路の形成と、それに対応する言語的な概念使用の、個人的な傾向の違いが、どの程度遺伝的なのか? というような風に。


さて似た様な話に、昔から世界の発展史観などのようなものも、ほとんど読むに値しない単なる文学だと感じてきた。ところが、ヘーゲルが世界の発展論を思弁的に展開してきたのと違って、現在、年代推定科学や遺伝学が進歩したために、いわゆる Big Historyが盛んになってきたのだ。「なぜ、産業革命が18世紀のイギリスで始まったのか?」とか、「なぜ、人類史の中で、農耕がこの1万年に各地で起こり、それ以前には発明されなかったのか?」「ネアンデルタール人はどこが現生人類と異なっていて、おそらく競争に敗れたのか?」などなどの人類史の主要事実を説明しようとする試みが盛り上がってきたのだ。

ジャレッド・ダイアモンドの 「銃・病原菌・鉄」

http://www.amazon.co.jp/dp/4794210051/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1283867179&sr=8-1


Gregory Clark の A Farewell to alms

http://www.amazon.com/Farewell-Alms-Economic-History-Princeton/dp/0691141282/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1283867019&sr=8-1

コクランとハーペンディングの「1万年の進化爆発:文化が進化を加速した」

http://www.amazon.co.jp/dp/4822283992/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1283867321&sr=1-1

なんかが面白かった。ちなみに僕が一番キワモノだが、わりとオモシロイと思ったのは、

Micheal Hurt の 「Understanding Human History: An Analysis Including the Effects of Geography and Differential Evolution」

http://www.amazon.com/Understanding-Human-History-Including-Differential/dp/1593680279/ref=sr_1_sc_1?ie=UTF8&qid=1283867834&sr=1-1-spell

これは、スゴイ作品だ。世界の文明の進歩を、ギリシャ哲学以来、単純に西洋が中心地であり続けたと主張し、現存のヒト集団のIQ研究から、その優越の必然性を説明するという、ものスゴク反平等主義的、19世紀的なものだ。グールドが読んだら、墓場で発狂してソンビになりそうな内容だ。僕はその分析のどれだけかには納得するが、IQだけではなくて、もっとメンタルな性格・気質や興味の方向性のようなものが世界史の説明としては必要不可欠なんじゃないかと思っている。

さて話はまったくそれて長くなってしまいましたが、僕がドイツ観念論にも、ユング心理学にも、ポストモダン哲学にも向いていなくて、科学バンザイのノーテンキ野郎であることは、わかっていただけたと思います 合笑