kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ホテル・ルワンダ

たまたま今日、前から気になっていた「ホテル・ルワンダ」という、ルワンダ虐殺時に1200人の人々を救ったホテルマネージャーの映画を見た。つまりは「シンドラーのリスト」のルワンダ版だ。


虐殺を主導するのはフツ族の政府で、おそらく民兵はそれに便乗していたのといえるようだ。いつもの話の蒸し返しになるが、戦争をするのは政府で、民間人が個人として虐殺を始めた場合よりも遥かに多数の死者が出るのが歴史の常だ。


こういった極限的な話が嫌いなら、別に財政政策でもいい。僕の(とりあえず今のところ)考えているところでは、財政出動にはあるいは消費を増やす効果がある程度認められる。しかし、こうした便益には政府は即座にあずかれるが、反面、ギリシャの混乱のように長期的な不利益は「遠いいつか」に発生する。政府セクターこそ、麻薬中毒や、太り過ぎなどに似た、最悪の動学的不整合たるものを犯しているのではないだろうか?


仮に人々が完全合理的でないという常識を受け入れてみる。すると、自然と政府が人々の代わりに意思決定をすればいいのだ、という考えが浮かぶ。これが、ほとんどの行動経済学者が大きな政府介入を肯定する理由である。しかし、僕が常に感じるのは、なぜ民間の人々が刹那的な非合理性を顕在化させやすい反面、政府セクターの従業員、つまり役人だけは長期的な視野にたって、合理的でいられると考えるのか?という疑問だ。


僕は「ナッジ」についても、ほんとうのところ、ある程度のシンパシーを感じるのだが、問題はそういった考えが、ほとんどすべて政府セクターの従業員と納税者利益の深刻な対立を、都合よく無視しているという点にある。あるいはナッジがコンシューマー・レポートのような純粋な第三者機関から出ているのであれば、僕はけっこうな事だと思っている。


全員が「自分は普通より上だ」と感じる。それこそ行動経済学が長い間、人々の非合理性の典型例として、指摘してきた話だ。なぜ、それを強制力を持つ政府セクターにこそ当てはめようとしないのだろうか?彼らだけが、そういった感覚を人に強制できるだから、その間違いの可能性にこそ注意しなければならないのに。