kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

リヴァイアサンが暴力を否定してきたという事実は、、、

ピンカーのThe Better Half of Our Nature の要約は shorebird さんが詳細にしてくれているので、


http://d.hatena.ne.jp/shorebird/


ここで繰り返すのは意味がないだろうが、つまりは、15世紀ぐらいから西洋の殺人率は10万人当たり、年間100人ほどから、1人にまで下がっているということ、そしてその理由が本書の主題だ。啓蒙主義人道主義革命によって、奴隷制の廃止、公民権運動、女性の開放、動物福祉の向上など、あらゆる「暴力」の現象と、共感の増大が起こったのだという。


さらに、それらの残虐の否定にはリヴァイアサンの普遍化、また共感の上昇、残虐の否定の理由としては、識字率の上昇と小説の普及による、マイノリティへの共感が増大したのことがあるのだろうという。


新古典派の経済学では、人間の基本的な行動、合理性(心性)など普遍的に同じなのだが、異なった外部環境に応じて、異なった行動をとっているだけだという、神話がある。確か、サージェントなんかはフランス革命の経済学を論じていたと記憶している。


しかし、ピンカーのテーゼは、人間の心性、あるいは心理モードが不変であり、インセンティブに反応しているだけだ、という考えに重大な挑戦をしている。少なくても、僕にはそう思える。


これは長らく、僕自身が感じてきた経済学の限界でもあるが、つまり、経済学では、現代の常識、あるいは価値観や心理モードを前提としての分析しかできない。遠い昔がどうだったのか? というのは、もはや想像するしかないが、それではなぜ拷問や殺人などが、かつてはもっと盛んだったのか?


環境に合理的に反応する個人というフレームワークでも、説明は不可能ではないのかもしれないが、あまり説得力があるようにも思えない。例えば、子どもや動物の虐待の否定は、物質的な豊かさの高まりもあるのだろうが、もっと規範的な変化だと感じられる。


無政府を信じる僕にとって、もっともショッキングなのは、政府があまねく行き渡る過程と、残虐が減少する過程が軌を一にしていることだ。もし、無政府が現在の100倍の暴力の蔓延する社会であるなら、おそらく誰も無政府社会を望まない。


だが、話はそう捨てたものでもないだろう。Anarcho-capitalismを信じる人びとは、結局は現在の人道主義の延長線上に、私的な警察の併存を夢想している。中世のように、あちこちで私的な暴力が強盗を行い、それを個人や家族、友人が血の復讐するという形を考えている人はいない。


これは、ちょうど、Cohen vs. D.Friedman の無政府を巡る論争のリエゾンだ。


マルクスが「高度に発達した資本主義の後に共産主義は可能となる」と考えた誤謬と同じように、anarcho-capitalistは「今度に発達した人道主義社会の後に、無政府社会は可能となる」と考えているのは、同じように誤謬なのだろうか??  


まだすべてを読んではいないが、そういう可能性は高いのかもしれない、と思わせられる真のリベラルの大著だ。


_