kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

beyond a reasonable doubt

そういえば、思い出したことがあるので、ここで書いてみたい。


ドーキンスの「虹の解体」にも、あるいはカーネマンの「Thinking, Fast and Slow」にも書いてあり、意思決定理論の研究者には、たいへんよく知られていることがある。それはアメリカの法廷では各種の忌避制度を使って、検察官も弁護士も確率学がわからない人間を陪審員として選ぼうとすることだ。


原因は司法関係の人間がそもそもベイズの確率定理を理解していないということにあるし、また彼らの使う論理が、そもそも確率を理解していない人向けに構成されているから、確率的に考える人が邪魔になるということらしい。


例えば、ロサンゼルスで殺人が起こり、目撃証言として、スキンヘッドのアジア人が走っていったという。そうしたスキンヘッドのアジア人は0.1%しかいないという。さて現在の容疑者はスキンヘッドのアジア人だが、この人が果たして犯人なのか?? 


こうした場合、本来なら、ロサンゼルスに住むスキンヘッドのアジア人がそもそも全体として何人いるのか?という母集団の大きさが問題になる。これが確率学というものだ。しかし、多くの人はそれは無視して、0.1%しかいないという数字にこだわり、容疑者が犯人だと99.9%で考えるという。


まあ、こうした具体的な問題はさておき、いつもの主張のように、僕はこうした法律タイプの正反対の人間だ。例えば、「無辜の不処罰の禁止」=無罪の人を罰しない、という原則も、理念としては理解できるが、意思決定の実際としては、結局のところ、納得出来ない。


仮に100%確実な犯罪者しか処罰できないとするなら、現行犯や犯行フィルムが残っている場合で、さらにそれらが捏造の可能性がないような場合しか、処罰できないように思われる。これでは、合理的とはとても言えない。


同じコンテクストで、刑法の用語には、有罪判決には「合理的な疑いを越えた証明」が必要だという言葉があるが、これも政治家の言葉遊びと同じくらいによくわからない!? どこまでいけば、「合理的な疑いを越える」ことができるのか??


罪刑法定主義や立憲民主主義を含めて、基準が言葉で書かれている場合は、まったく何もないよりははるかにマシだが、それでも現実には曖昧さと、それに伴う疑問は残ってしまう。むしろ、処罰要件を厳重にしすぎれば、確かに無実の人は救われる可能性は上がるが、同時に処罰されない犯罪者が増えてしまうというトレード・オフをはっきりと法律家が教科書において認めるべきだろうと思う。結論として適切なのは、1%という言葉なのか、5%という言葉なのか、合理的な疑いを入れない、という言葉なのかはさておき、、、


そうした考えを示すこと自体が、法律という絶対的な正義体系と矛盾するというのかもしれない。しかし、それではつまり宗教じみていて、非合理の行きに達していると評価されるべきだろう。


が、そう感じない人が法学者に適した人らしい。世の中とは難しいものだ。