kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

セグウェイの免許

20年ぶりにサンフランシスコにいったら、
風は冷たいし、寒いしでたいへんに疲れてしまった。
昔は気にならなかったのは、若かったからなのだろうか?


観光地のフィッシャーマンズワーフに行くと、
自転車を利用したツアーに加えて、
セグウェイでのあちこちを移動するツアーがあった。
ひとりの旅行なら、ぜひとも一度は乗ってみたいものだと感じた。


たしかセグウェイは20キロぐらいしか出ないのに、
日本では2輪車だったかの免許がいることになっている。
なんで(他害的に危険行為を除いて)そもそも原則的に自由なはずの人間の行為が
日本では「原則禁止」になってしまっているのか?
単なる警察の利権感覚が情けないが、それを当然視する有権者も悪い。


ヨットやボートに乗る程度のことにも4級の船舶免許を要求し、
現実にはその講師は競艇選手の成れの果て、という日本船舶振興会の利権。
免許なんかなくても海難事故が増えるはずもなく、
単に全員が貧しく暮らすことになってしまうシステム。


たしか僕は4級免許をとるために一週間程度の時間と10万だったかの金を費やした。
アメリカではそんなものがなくても、誰もが釣り船に乗って楽しんでいるのに。
自動車免許も20ドルでとったが、日本では1ヶ月もかかり、
20万もしはらうというバカバカしさ。
さらには免許の更新では、警察官OBの賃金確保のために、
1000円もするはずのない紙をラミネートするのに
2時間プラス5000円を要求する始末。


日本のあのバカらしい運転教習が本当に世界的に意味があると主張出来る人は
マトモな知性を持ち合わせた人にはひとりもいないだろう。
人の運動能力はまったく違うのに、完全に画一的に形式的に教習をするという、
そして個人の能力の差がないかのように見なす、義務教育にも通じる貧困の制度。


なんでこういった自由を束縛する共貧の制度が当然視されて、
人の自由が束縛されていることが当然だと感じるのか。
フシギだし、やりきれない。