kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

your inner fish

Neil Subin の Your Inner Fish は、
2億7000万年前に脊椎動物が地上に上がったという推定をもとに、
カナダの極地でティクタアリクという、まさに魚類が両生類になるところの種の化石を発見する話だ。
この発見話は、それだけでも読んでいて、とても楽しいし、すごく夢のある実話だ。


ヒレの骨がどういう風に両生類以降の陸生動物の足の骨へと変化したこと、
あるいはエラの発生に関する遺伝子homeoboxが現在も陸生動物の構造を既定し続けていることなど、
ヒトの中のサカナという題にぴったりで、いろいろと勉強にもなる。


Subinの本よりももっと反キリスト教原理主義を前面に出しているためか、
あるいは理論的なためか、
それほどには売れなかったものには、
日本語には訳されていないが、
Jerry Coyneの Whya evolution is true がある。


これも同じように進化論の擁護と解説がそのテーマで、
生命が次第に複雑さを増してきて、現在あるような生命になってきたという進化論は、
仮説を超えて、重力理論のように「事実」の域に達しているのだと主張している。
中生代に恐竜のウロコが羽になって、次第にトリになっていったと考えられること、
あるいは新生代にカバ(の祖先)から次第にクジラになっていったこと、
あるいは過去500万年にヒトが進化してきたこと、それらの化石などを紹介している。


この手の本はドーキンスもそうなのだが、
あまりにもキリスト教の主張を否定しようとする意気込みが強すぎて、
キリスト教文化に育っていないものにとっては、まだるっこしい感じがある。
それほどにキリスト教原理主義が人間存在の独自性という実感を
強く信仰のよりどころにしていると言うことでもあるのだろう。


Faith というのは 信仰であり、事実による反証を許さない性質のものだと定義されるのだろうが、
宗教への信仰はまさにfaithそのもので、いかなる事実の発見によっても反証されることはない。
多くのキリスト教徒は、聖書に反する(ように見える)事実が発見されればされるほど、
神が自分たちの信仰を試そうとして、そういう試練を与えているのだと主張する。
とするなら、なるほど、事実を積み重ねることはfaithを揺るがすことはないということになるのだろう。


多くの進化論者は、
「魂の存在や人間存在の独自性の主張は、人生の意味や、あるいは道徳性の意義にとって不可欠だ」
というような宗教家の常識を否定する。
例えば、利他的な道徳は、あの世や魂が存在していないとしても、
人生を互恵的な無限ゲームとして考えれば、説明できるというのが進化生物学者の意見だ。
あるいは自分の子どもや一族は、自分と同じ遺伝子を共有しているため、自分の死後も、
親族への利他行動を引き出すような他人への利他行為は、ひじょうに意義が高いことになるだろう。


こういった理論について、その論理からしても僕は納得しているのだが、
多くのモラリストや宗教を信じる人たちは納得していない。
やはり、進化論というのは単に残ったものが世界に満ちているしているだけだという意味において、
人生の意義や、あるいは道徳的、超越的な感覚を納得させないのだろう。
あるいは、より広い意味では「共感」というものが得られないのだろうとも思われる。


科学というは、論理が大事なのだが、もっと通常の人間の生活では論理よりも、
モチベーションを高めるような「実感」のほうが大事なのだろう。
ビジネス書の題名などを見ると、本当にそういうことしか書いてないし、
それのほうがはるかに人間的なのかもしれない。


P.S
オクスフォード大学に ウエヒロ応用倫理講座というのがあるのだが、
ここにはジュリアン・サバレスクという教授がいて、割と活躍している。
昨日書いたシンガーのThe life you can saveも、
この講座の招待講義がベースになっている。
これは何かと思ったら、実践倫理校正会の寄附講座だった。
倫理的な行為をするのにこういった特殊な教団があると言うこと自体が
何か矛盾しているようにも思うが、
そういう感覚自体がむしろヘンなのだろうかとも思われる。