kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

The life you can save

さて今日はシンガーの比較的な近著
The life you can save: acting now to end world povertyです。


内容を簡単に言うと、
つまり豊かな国の人々は最貧国の生活困窮者に対して
彼等を助ける道徳的な義務を負っていると言うものです。


例えば、池を通り過ぎようとしたとき、
そこにおぼれて死にそうになっている子どもがいれば、
人は靴や服、そして仕事時間を犠牲にしても、子どもを助けるでしょう。
そして、そうしなかったなら、間違いなく我われはその人に道徳的な非難を浴びせます。


私たちがなんとなく買っている100円のジュースやお菓子、
あるいは大きなクルマや家、すぐに捨てるだろう服や時計など、
さらにはコンサートや美術館の入場料などの芸術鑑賞費用の代わりに、
その額を寄付してアフリカなど最貧国の人々を救うことができます。
スイスの時計メーカー、パテック・フィリップの時計は100万円もしますが、
そういった価値があるのか?
巨大なヨットをもつオラクルのラリー・エリソンや
マイクロソフトのジェームズ・アレンなどが名指しで批判されています。


おそらく5万円程度で一人の命は助かると見積もられています。
例えば、ジェフリー・サックスコロンビア大学、国連なんかが
主導しているMillenium village project
http://millenniumpromise.sblo.jp/article/25370842.htmlなどを参考にしてください。


とすると、私たち先進国でそれなりの生活をしている人は
最貧国の子どもたち(など)を救う義務があるのに、それをしていない。
なぜなら、人は身近にいる人に対しては、救いの手を差し伸べるが、
離れたところで、自分の知覚することもない人々を助けるようなことはしないように
進化してきているからだと、正しくもその理由を指摘します。
しかし、そういった進化的なデアルは、助けるべきだ、というベキダを意味しないのであり、
私たちは今にも餓死しそうな人々、あるいはその他の困難な人々を助ける
倫理的な義務を負うと言うのです。


また、子どもや家族への出費とチャリティが相反する場合の困難も
実存する人物の苦悩や葛藤を通じて描いています。
本書での登場人物はハイチで医療活動を続ける活動家や、
あるいは50%クラブという、資産や所得の半分以上を貧困者救済にまわしている人々です。


なるほどもっともな話だと感じるか、あるいはバカバカしいカント主義の行きすぎだと感じるかは
人によるのでしょうが、僕はそれなりになるほどと感じるところがありました。
しかし、アフリカの貧困者救済が本当に倫理的な義務なのか、
ということについては僕はリバタリアンとしては納得できないものがあります。


おそらくこれは、彼のように、
「現在の経済活動が温暖化や資源の枯渇などによって相互に生活への影響を与え合っている以上は
リバタリアニズムはすでに成立しない道徳的なナンセンスだ、」
と考えるなら、なるほど納得できる部分が大きくなるのではないかとは思います。


もっと具体的には、シンガーは貧困者救済のために、10万ドル=1千万以上の所得の人々に
累進的課税的な募金を求めています。これは当然ながら、いろいろな反対があるでしょう。

最後になりますが、僕が不思議に思うのは、なぜ左翼の人々が、
国境を廃止するような、自由移民政策を薦めないのかという点です。
ルワンダブルンジコンゴアンゴラシエラレオネなどのアフリカの最貧国のほとんどが内戦状態です。
そういった地域では法の秩序そのものがないために、
教育や工場設備への投資その他の人々の自発的な努力が生かされない状態にあります。
多くの人は、補助や軍事介入その他でそういった国を立ち直らせることを主張しますが、
僕は、大まかに言って、そういったことは不可能、あるいはひじょうに困難であり、
大きな期待はできないと思っています。


さて、そういった国からの移民をなぜ許さないのかといえば、
結局は「国民国家」と言う概念があるからです。
誰であれ、ブルンジで生まれてヤルキのある人がヨーロッパなり、アメリカなりに移民できるなら、
それは「国」はどうであれ、個人としては望ましいことでしょう。
なぜそういったことを否定するのか?
右翼はともあれ、少なくとも人道主義者はよくよく考えてもらいたいことだと思います。