kurakenyaのつれづれ日記

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科学史雑感

こんにちは。

 

自然界の法則のあり方(の予測)に、宗教的・常識的な「人間的な解釈」を持ち込むのは、当然なのだろう。

 

例えば、プラトンは正x面体が5つしか存在しない(正四面体、正12面体など)を知っていて、それが元素となると考えた。こうした、ある種の数秘術的な世界観はそのまま西洋科学に受け継がれた。1600年代に入ったケプラーも、惑星の配列がそうした秩序を持っていたと推測している。

 

同じような話で、ピタゴラス学派は音階的な調和が、自然界にもあまねく存在すると信じていた。

 

少なくてもキリスト教の発想は、地球と人間は世界の中心にあるという「直感」をもっていたのだろう。

 

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というのは、科学史の話。

 

ボクが育った日本の1970年代には、そうした形而上学的なインスピレーションを与えるものはまったくなかった。当然、日本は先の戦争に負けたし、西洋人の科学は圧倒的だったという認識からスタートしている。とはいえ、西洋人のキリスト教的な神(絶対人格、創造主)が真理であるはずはないという直感はあったし、ニヒリスティックだが、人間の絶対性なども進化論(あるいはサルとヒトの明らかな類似性)からありそうもないと感じていた。

 

つまり 寄る辺のない相対主義、、、

 

しかし、それでもプラグマティックには、1つ言えることがある。それは原爆から、あるいは月面着陸などの絶対的な科学の達成事実だ。(これを否定する人は、ウーン、もう統失とでも呼ぶべきなんだろう。)

 

といことで、西洋哲学で「本質主義」とか呼ばれるものは、アジア人のボクにははっきりしなかったが、それでも審美性とプラグマティズムが複合したもの、物理学、科学、進化論、確率論、などなどはとても否定できそうにない。

 

ということで、科学史の雑感でスイマセン。

 

繰り返すが、それにしても林羅山のような、まさに典型的なバカが江戸時代の学会を牛耳っていたことは実に残念だし、まさに日本人の知的な弱さそのもの。すでに1600年の時点で、スペイン人は大量の日本人奴隷を、太平洋経由でアメリカ大陸に送っていたのに、、、 なんで地球球体説を、中国の(クソ古典の引用で)否定できるのか?

 

jukenrinri.seesaa.net

 

政治的、あるいは(常識)倫理的な権威を超えた「論理」や「実証」がありえることを否定するというのは、、、 「論破王」ひろゆきの存在にも似て、悲しくなるなあ。。。

 

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