kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

片目の天才

論文を各必要があり、内心かなりアセってもいるのだが、なんかノらないので、ちょっとまたD.フリードマンの「日常生活を経済学する」を読んでみた。僕は彼の天才に常に感心してきたが、同時に不満もある。


それは彼の2000年以前の著作では、ほとんど経済学者とその論文の引用しかしないことだ。例えば、利他主義者がいる場合の親や兄弟の行動についての、ベッカーの「rotten kid theoremワルガキの定理」は確かに応用経済学者の間ではよく知られている。これはこれで面白い結論だ。

http://en.wikipedia.org/wiki/Rotten_kid_theorem


しかし、ヒトを含めた動物の家族行動については、ハミルトンの「inclusive fitness 包括適応度」やロバート・トリヴァースの「parent-offspring conflict親子間対立」のほうがもっと現実への説明能力が高い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A9%E5%BF%9C%E5%BA%A6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E5%AD%90%E3%81%AE%E5%AF%BE%E7%AB%8B


しかし、フリードマンは家族行動の説明にベッカーは引用しても、ハミルトンやトリヴァースには触れない。


そもそも rotten kid の方は、「親が完全な利他主義者であった場合、何が家族内で起こり得るか?」ということについての議論だ。対して「包括適応度」や「親子間対立」は、親子は遺伝的に異なっているため、利他行動はそれを反映して限定的にならざるを得ない」というもので、これらの二つはまったく異なった前提についての議論なので、比較することに意味はあまりない。


しかし、親子間のネグレクトやアビューズ、兄弟げんか、その他の説明において、現実の家族間のヒト行動の説明能力は、圧倒的に進化生物学だ。ナゼって、ヒトの家族はそもそも部分的にしか遺伝子を共有していないため、完全利他的ではないのだから。

経済学は帝国主義的に領地を広げてきたし、多くの人間行動は合理性、あるいは功利主義的な説明は、人間行動の多くの領域に美しく当てはまると思う。しかし同時に、経済科学の基礎である功利主義は、常に道徳理論家の批判を受けてきた。


僕が思うところでは、この理由は、功利主義は「理性」での知的理解を重視するのに対し、モラルを含めたヒト行動は、ほとんどが進化的に神経回路に埋め込まれているからだ。確かに進化の要因は遺伝子それ自体の外的な環境への功利主義なのだが、それは個人にとっての功利主義とは厳密には一致しない。例えば、親子間には愛も対立もあり、それは親の年齢やリソース、子供の成長フェーズやに伴って、ダイナミックに変化する。


おそらくこれらの活動の変化を、これまでに考えられてきたような個人的な功利主義から説明することはできないし、あるいは相当な周転円になってしまう。これを、以下さらに詳述しよう。


ヒトの行動には理性的・知性的な部分があり、それはある意味、後天的、あるいはソフトウェア的なものだ。それと本能的・直感的な部分、つまり先天的・ハードウェア的なものが、融合的に行動に発現している。これは、現在の遺伝子発現や神経科学の知見にも明らかだ。

もし、ベンサム以来の個人的な功利主義から、親子関係や暴力犯罪のような、非市場的、あるいは動物的行動の大部分をうまく説明・予見できるとするなら、僕は正直に驚くだろう。フリードマンやベッカーは真に独創的かつ論理的な天才だと思うが、それでも彼らが育った時代の知識セットには、功利主義哲学と経済学(その原型たる物理学)はあったが、包括適応度や親子間対立、進化心理学などの「利己的な遺伝子」はなかった。(なお、最近はベッカーも効用とその進化論的基礎について研究している。)


僕の考えからすると、功利主義による家族、犯罪、薬物摂取行動の説明というのは、右目だけで世界の立体構造を理解しようとする試みだ。世界の立体構造を知覚するためには、右目に加えて、左目があったほうがいい。右目だけでも天才なら不可能ではないのかもしれないが、それは周転円の描き過ぎによって理論的に美しくなく、さらに余計な時間がかかり、かつ不正確になってしまうように感じるのだ。