kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ベキダ⇔デアル、5章

5、ベキダ>デアル:様々な分野についての世界観は違っている

倫理観が自然の認識に影響する
 前章で説明したように、進化の力を通じて、デアルという環境はわれわれの心の中に住むベキダを作り出した。より適応的で相互利他的なベキダの感覚をもつような個体を作り出す遺伝子は、ヒトの遺伝子プールの中で頻度を上げ、圧倒的なマジョリティになったのだ。
 しかしこのように、ベキダの究極的な存在の説明がデアルから導き出されるということは、我々の多くにとって常識的なことではない。
 倫理的な直観の基礎付けについては、少なくとも私が高校時代までは習ったことはなかったし、今もほとんどの人々はそんなことには興味がないようだ。倫理観とはまさに常識として備わっているものであり、自明であって疑う必要があることなどないのだろう。
 脳死状態になった個人からの臓器移植などは、これまでの直感を超えている。こうした問題に対してのみ、各種の原則、あるいは道徳的な公理・公準から考え直すこともあるといった程度だろう。
 私は脳死問題について強い意見はもっていないが、日本人の多くは脳死患者からの臓器移植に反対している。賛成する人は、脳の死は現実的な意味での人間的な判断や行動の終わりであると考え、また臓器の移植で助かる患者がいるという功利的・理性的な判断をしているようだ。
 これに対して反対論者は、論理というよりも、脳死状態の人間の体が温かく、代謝が今も続いていることなどの感覚を重視する。「温かく息をしている状態の人は生きていると感じられる」という直観を頼りに判断し、そして判断するべきだと考えるのだろう。
 こういった極限な事例判断は別にしよう。すると、ほとんどの常識人にとって、「自然や社会の事実や状態というのは一義的に存在していて、それは誰にとっても同じである」という考え自体には異論はないだろう。
 しかし、現実に存在する事実なり、状態なりについての認識となると、千差万別、まさに百家争鳴といった風である。それこそ、学者の数だけ、あるいは人の数だけ世界観にも違うものがある。
 この章では、右翼左翼の観点から、いくつかの興味深い見解の相違を見てみたい。
 神ならぬ実際のプラグマティックな個人が「世界を認識する=デアルについて考える」時には、ほとんど必然的にその人の多様な偏見が入り込む。その人の世界観のデアルに対しては、その人のベキダが影響を与えてしまうのだ。
 原理的には、世界のデアルは原理的に自然科学的な探究によって解明することができるのかもしれない。しかし、その状態についての知識は、常にその時代時代の科学の状況に応じて暫定的に確からしいだけである。あるいは白黒をはっきりできないことも多い。
 こういった場合には、科学者がインスピレーションを受ける根源そのものが人間的な直感であるため、世界観はほとんど不可避的に個人の持つベキダと関連することになる。科学史をひも解けば、数多くの分野で、ベキダの信念の違いによって論争がおこり、最終的にそれなりに納得できるようなデアルについての常識が確立してきた。あるいは、今も論争が続いている分野も少なくない。
 もちろん、科学史上の論争の中には、倫理観と関係しているというより、それとは独立の哲学的な方法論と関係しているものも多い。例えば、古代ギリシアの万物の根源論争や、科学的知識の帰納的、あるいは演繹的性格などは、個人のベキダとは直接的な関係はないように思われる。
 本書では、倫理と存在=ベキダとデアルの関係について語っている。だから、ここでは両者の関係がはっきりしない事例は置いておいて、社会倫理に直接的に基づいて生じた自然科学的、あるいは社会科学的な論争を採り上げてみたい。
 なお、ベキダからデアルを直接に導き出す論理的誤謬は「道徳主義的誤謬moralistic fallacy」と呼ばれる。これはハーヴァード大学生物学者バーナード・デイビスによる造語で、ヒュームの自然主義的誤謬の対義語といえるものだ。デイビスは1978年の『ネイチャー』の論文で、倫理的なガイドラインと自然の実在の峻別、つまりベキダとデアルを混同しないように訴えたのである。


ミーム複合体
 さて、オックスフォードの生物学者リチャード・ドーキンスはその著『利己的な遺伝子』の中で、人間文化において代々継承される文化の基本単位として「ミーム」という言葉を創造した。その後三〇年以上が経て、ミームは今や多くの人々に使用される一般用語となった。
 彼は同書で、人間の文化においては、ある種の思考様式や概念などのミームは、特定の別のミームと結びつきがちであること、またそれらは一つになって「ミーム複合体」を構成することが多いこと、を指摘している。
 ドーキンス自身の例示したミーム複合体には、「宗教というミーム」と「地獄の業火というミーム」、あるいは「教義を批判しようとしない完全な信心というミーム」などがある。これらは宗教的なミーム複合体を作り出して、自分自身の存在を人間の心の中に永続化することに成功しているという。
 キリスト教についていえば、旧約聖書の記述では「神は世界を創造し、そしてすべての生き物を治めるために、自らの形に似せた人間を創り出した」ことになっている。ここからキリスト教ミーム複合体には「人間の存在は特別なものであり、我々の地球は世界の中心にある」という天動説が加わることになる。
 前者は19世紀のダーウィンの進化論によって論駁され、後者はもっと早くにコペルニクスガリレオなどによって否定された。しかし、こういった外濠となっていた辺縁的なミームを失った後でも、キリスト教は多くの人たちの精神文化の中でもっとも大きな存在であり続けてきた。
 ミームは文化の単位であるから、デアルもベキダも同じように含まれる。例えば、キリスト教では神からの命令として、有名なモーセの「十戒」として基本的なベキダが与えられている。これと同時に、旧約聖書には、世界の始まりや存在の意味についてのデアルも記されている。
 イスラムでも、同じようにコーランには道徳的な日常規律のベキダが事細かに記されている。同時にそこには、アッラームハンマド預言者としてこの世に遣わしたというデアルについての記述も含まれている。
 仏教でも、輪廻思想のような、存在について思索もあれば、同時に「煩悩」に惑わされないことに代表されるような、守るべき徳目もある。驚くべきことは、多くの宗教にはこうしたデアルとベキダがあるが、ベキダがほとんど同じであるということだろう。
 本書の主題である、ヒトの進化的なゲーム状況に照らしてみよう。ベキダがなぜほとんどの宗教において似通っているのかの説明は、少なくとも後付け的には可能である。それは他の集団と激しく抗争しながら、同時に内部的に平和を保ち、繁栄する社会生物には不可欠な行動規範なのだ。
 また、ほとんどの宗教が自然とベキダとデアルの両方を含むのも納得がいく。
 ベキダとデアルが異なった概念であるという論理的な、あるいは解析的な洞察は、人間の歴史において、それほど古いものではない。ヒュームが嘆いているように、ほとんどの人々の思考の流れの中では、デアルはベキダを意味しているし、あるいはその反対に、ベキダは直接・間接にデアルに自然とつながるのだろう。
 過去の政治思想や世界観においても、これまでに数多くの興味深いミーム複合体が発生してきた。そういった世界観の中には、保守的な思想に親和的な、「自民族中心主義」や「陰謀史観」などがある。また、進歩主義的な思想に親和的な世界観・人間観には、「利他行動の普遍性」や「人格や能力の教育による無限の可塑性」などがある。
 以下に順に見てみよう。


自民族中心主義(ethnocentrism)
 これについては、いまさら多くを語る必要もない。保守的な人はよそ者嫌いであることがほとんどであり、その行動の正当性を高めるために。自民族こそが優越的な存在であるという世界観を持ちたがる。
 最も有名なものは、第二次世界大戦中ドイツを支配していたナチスによる「アーリア人種」の優越論だ。ナチスは、「ドイツ人こそがインド・ヨーロッパ語族の祖民族としての純粋なアーリア人であり、人間存在の中でもっとも優れたものであるため、世界を支配する必然性がある」とまで主張した。
 だが奇妙なことは、「アーリア」という言葉はサンスクリット語で「高貴な」という意味である。そうだとするならアーリア人の直系の子孫は、北部ヨーロッパではなく、現在のイランやインド北部に住んでいると考えるべきだったはずだ。実際、現在ではそのように考えられている。ドイツ人はアーリア人の中でももっとも純粋なものであるというのは、まったく不自然な世界観だ。
 またヒトラーの『わが闘争』の中では、日本人は二流民族になっていたが、それでは同盟国として都合が悪い。そこで、ハンス・ギュンターが記した『北方人種』では、相変わらず北方の民族は南方民族に比べて優越した精神性を持つとして考えられているが、同盟国であった日本人もアーリア的な要素を持っていると主張された。こういった考えなどは、今となってはコジツケ以外の何物でもなく、実にバカバカしい。
 同時に、ユダヤ人はその人間性において道徳的に卑劣で下等な存在であるとされ、五〇〇万人もの人々がガス室送りになって虐殺された。いわゆるホロコーストである。こうした行為は、自分の民族がもっとも優れたものなのだという自分中心の世界観なしには、決して行われなかっただろう。
 この意味で保守的なよそ者嫌いの信じがちな「自民族中心主義」のもつ潜在的な危険性は、強調しすぎることができない。ナチスの大虐殺ほどの社会現象を引き起こしてはいないものの、自民族中心主義はあらゆる民族で見受けられる。それらは相互に矛盾しているが、しかし普遍的な思想なのである。
 日本人もまた、戦前、日本は「世界で一つの神の国」だとして、八紘一宇を支配するのは当然であるという世界観を持っていた。左翼的な人々は、軍部がそういった思想を民衆に「押し付けた」のだという。しかし私の理解するところでは、ナチスの場合と同じように大衆は熱狂的に、あるいはごく自然に自民族の優越を信じたのである。
 中国でも、そういった事実は変わらない。チベットは沿革的には、ほとんどの時代に中国の王朝から独立しているが、結局漢民族の世界観では漢民族の文化がチベット文化の源になっている。そのため、チベットは中国の一部であるのが自然だということになるのだろう。
 「中華人民共和国」という名前自体が、自分たちが世界の中心であることを主張している。「大韓民国」もそうだし、「大日本帝国」「Great Britain」も同じで、自国の名前に優越性を誇示するような言葉が入っていること自体が、いかに多くの人々が自民族を優れていると考えるのかを物語っている。
 現代の生物学者であれば、ヒト集団には多様な違いはあることは認めるが、別段それが優越や劣等を意味するわけではないと考える。例えば、日本の美容整形では、ヨーロッパ人的な造型の要素を取り入れると、より美しく感じられるのは、否定できない事実だ。とはいえ、その美醜の基準から、ヨーロッパ人が価値的な優越性を意味しているとまでという人はいないだろう。
 我々の陥りがちなこういった民族の優越思想は、どう考えても奇妙なものだ。例えば仮に、日本人の平均的な知能が高いからと言って、それが自分という個人とどう関係しているのか?
 純粋に個人をベースに考えるなら、ほとんど何の関係もない。私を含む集団の特性は、私が生まれる前の時点では、なるほど将来の期待的な平均値を著しているかもしれない。しかし、現実の私は集団の平均とは別なものとして、すでに実在している。
 2チャンネルなどの匿名掲示板では民族主義的な発言がよく見られる。しかし私が文化について感じるところでも、科学的な遺伝的な距離指標においても、日本人と中国人や韓国人との差は、日本人とヨーロッパ人やアフリカ人との差などに比べれば、圧倒的に小さい。
 「目くそ鼻くそを笑う」という言葉がある。私はドイツ人とオランダ人、デンマーク人を外見から区別できないが、実際には顔だけでなく、多様な特性についても小さな集団の平均値の差は存在する。だが、それはあまりにも小さい。
 アメリカに留学してよくわかったことは、同じように白人にとっては、韓国人も中国人も日本人も区別できないことだ。ほとんど同じだからだ。そして、今振り返ってみて、私自身もまた同じであると考えた方がよほど納得できる。
 なお、私は後述するように、各種の民族集団、あるいは人種集団には異なった特性があると考えている。それはちょうど、顔や体型はそれぞれに異なっているのと同じように、脳内のニューロンの配線も、あるいは神経伝達物質やホルモンなどの濃度や反応なども違っていると考えるのが自然だということだ。
 もし、神経細胞の構造や組成などに起因する差異がまったく存在しないというのであれば、私はそのように「存在しない」と主張する方が、証明をする責任があると考える。例えば外見における違いが存在する以上、ニューロンの結合構造などによって形成される精神性にも差が「ある」という仮説をデフォールトとすべきだ。これこそが帰無仮説として、基準となるだろう。
 こういった主張は、平等を信仰する多くの左翼主義者には納得がいかないことは、私自身十二分に理解している。だが、私の見解というだけでなく、自然科学者はますます多くの遺伝子頻度が、集団によって異なっていることを発見しつつある。その中には、様々な病気への罹患因子もあれば、人格に影響を与える因子なども含まれている。
 科学者であれば、違いがあるとは言っても、その違いをもって、どちらかが「価値的に優れている」とは言わない。価値は各人の心の中にしか存在しないからだ。もし、「東洋人よりも西洋人の平均身長が高いことから西洋人が優れている」と考える人がいるなら、それはその人が「背が高い方が優れている」という「価値観」を持っているということでしかない。


陰謀史観と危険な世界
 アドルノによるFスケールの質問には、「25、ほとんどの人は、我々の人生がいかに秘密裏にコントロールされているのかについて認識していない」というものがある。これはつまり、自分には知らされていない、あるいは知ることのできないような密室で、多くの重要な政治的な決定がなされていると思うか、という質問である。
 保守的な人々の多くは、概してこれを肯定するようである。歴史を見れば、王や貴族など一部の特権階級が、恣意的に多くのことを、大衆には秘密のうちに決定してきたのは間違いのないだろう。こういった社会状況を前提にして神経回路が進化してきたのであれば、現代のような民主主義社会でも、投票による意思決定は名目的なものにすぎないという懐疑心が起こっても不思議ではない。
 人々には知らされていないが、実はユダヤ人富豪であるロスチャイルド家が、あるいは秘密結社フリーメーソンが世界政治の黒幕であり、すべての国の政治と歴史をコントロールしてきた。これが典型的なものだが、いわゆる陰謀史観につながりがちだ。
 陰謀論は、ユダヤフリーメーソンに限らない。現在の日本の不況をして自由貿易主義を掲げる英米勢力、つまりアングロ・サクソンの陰謀であると主張する著作も多い。自分に都合が悪いことが起こった場合に、誰か究極的な悪者がいて、その一味が世界をそのように誘導していると考える。これは陰謀史観と呼ばれるが、昔も今も常に多くの人を魅了し続けてきた。
 現在もっともポピュラーなのは、おそらくアングロ・サクソン陰謀論ではないだろうか。特に資本主義とそれに伴う格差の拡大を嫌う人たちは、これを嬉々として主張していることがある。しかし、数十年のうちには、中国がアメリカに比肩する時代が来るだろう。政治思想においても、現実においても中国の方がはるかに独裁的な国家であるため、陰謀論が好きな人々は中国陰謀論、あるいは客家陰謀論などを語り始めるに違いない。
 私のかつての主観では、陰謀論や、あるいは後述するような超自然の力への信仰といった考えは、中学生からせいぜいが大学生までが信じることのできる、ある種の若さの特権であった。しかし、実際には少なからぬ人々が、成人になってからも超自然の力は当然として、陰謀史観もまた信じている。そういった陰謀史観はまた、世の中はそれほど安心できる場所ではないという、「危険な世界」という世界観にもつながっている。
 つまり、世界がどの程度、危険なものであるのかという認識は、まさに個人の人間観やそれに基づく国際政治状況の認識パターンに、その多くを依存している。危険の存在とは論理的には関係ないが、危険への恐怖においても、人はそれぞれ異なっている。ジョストらの研究によれば、保守的な人々は「死への恐怖、死の訪れ」についても、進歩的な人々よりも鋭敏な意識を持っている。
 ここで、『サピオ』のような、国際紛争を重視する雑誌を一読すれば、世界がいかに陰謀や紛争に満ちていることが事細かに書いてある。つまり能天気で平和ボケした日本人は、緊迫する世界情勢の中で危機に瀕しているというわけだ。
 こういった紛争に満ちた世界観にについて、Fスケールには「26、人間の本性が今のままであれば、これからも戦争や紛争は続くだろう。」という項目がある。これなどは明らかに、人間が戦争を起こし、互いに殺し合うことは避けえない性質の事柄だという認識だ。
 こういった人間性への認識や世界観は、岩波や朝日新聞などの進歩主義的な思想とは、まったくの対極にある。当然、読者層は完全に異なっているだろう。私自身も、柳条湖事件地下鉄サリン事件のように陰謀は実際に時として起こることがあるが、長期的・安定的な状況で陰謀が維持されることはありえないと考えている。
 カール・ポパーが『推測と反駁』述べているように、

「もちろん、陰謀が決して生じないなどと主張するものではない。しかし、私は二つのことを主張する。第一に、陰謀はそう頻繁ではなく、また社会生活の性格を変えるものでもない。陰謀がなくなったと仮定しても、我々はこれまで絶えず直面してきたのと基本的に同じ問題に、依然として直得面するだろう。第二に、私は、陰謀はごく稀にしか成功しない、と主張する。達成された諸結果は、目指された結果とは、通常、非常に異なる(ナチの陰謀を考えられたい。)」

 おそらく、こういった社会状況の記述を検証することは不可能だろう。しかし、そういった検証できない叙述への信頼こそが、世界観の違いというものなのだ。
 余談になるが、私の実家は田舎にあることもあって、外出する場合や夜でも鍵をかけないことがほとんどだった。東京で一人暮らしをするようになったが、出入りするときに鍵を開け閉めするのが面倒なので、鍵をかけずに外出することがほとんどだった。私の部屋に入っても、金目のものなど何もないし、一人暮らしの部屋の大きさである以上、窃盗に合う可能性は確率的には低いだろうと感じていたからだ。しかし、これを話すと、多くの友人が驚いた。
 戸締りを真剣にする人々は、窃盗や強盗の存在と可能性を強く意識しているのだろう。私のような能天気な人間は、あるいは強盗にあって死んでしまう可能性は高いだろうが、そういったニュースを聞いても、あまり反応しないというのは、「中国人などの残忍な外国人犯罪社についての事実を知らない」能天気な平和ボケなのだろう。
 さて、陰謀論と並んで、人知を超えた超自然的な力への信仰もまた、自然科学と経験を重視する進歩主義とは相性が良くない。Fスケール中の「5、科学は重要だが、人間の理解を超えた重要なことがたくさん存在する」という質問は、まさに科学的な方法と知性への懐疑である。同じように、「21、いつか、おそらく占星術が多くのことを説明することができることが示されるだろう」という質問は、西洋では占星術だが、東洋では血液型や四柱推命、風水などを含んでいると考えれば、超自然的な力の存在への信仰として同じである。
 私自分の短い人生においても、中学生になる頃には、神秘ものならなんでもありの総合雑誌『ムー』を読み、デニケンによる『未来の記憶』に始まる宇宙人論に惹かれた。その後、私は大人になってしまったが、10年ほど前にはハンコックの超古代文明論『神々の指紋』がベストセラーになった。二〇〇八年現在でも、エドガー・ケイシーよろしく予知夢を見るというジョセリーノ『未来予知ノート』、『未来からの警告』はベストセラーだ。こういった超自然ものや宇宙人ものは定期的にベストセラーになって、人々の心をとらえ続けている。
 こういった超自然ものの人気は、スピリチュアル・カウンセリングや四柱推命などを含めて、世界的に見ても一向に衰えていない。いや、安定してはいるが停滞している現代社会では、むしろそういったベストセラーもテレビ番組も増加しつつさえある。  
 右翼的、あるいは保守的な態度というものが、こういった超自然的な存在への信仰と関係しているというのは、私にはある意味で奇妙にも思われる。進歩主義者が新奇性を好むのであれば、むしろ、不思議な力というのは左翼に信仰されるべきようにも感じられるからだ。
 しかし、歴史的に見ても、18世紀までの啓蒙主義は理性を重視し、自由と平等を説いた。その反動として高まった19世紀的なロマン主義民族主義では、民族の神話などの不合理で、超自然的なものへの感情を主題にしたものが多い。
 現在でも、保守が民族主義的であるのは、民族主義はそもそも理性よりも感情に基づくものであり、ロマン的なものであるからであるだろう。とすれば、超自然=保守主義となるのは、理性=科学=進歩主義となっているのも、その反面としてうなずくことができるように思う。
 というわけで、多様な神秘主義をどの程度信じるのかという問題については、進歩主義的な左翼は、合理主義、経験主義を重視する。これが、岩波や朝日では科学部があって、非合理な信仰を排斥するような知的雰囲気を作り出しているのだろう。
 おそらく、保守主義者の信仰するような無批判で非合理的な信仰は、本人の精神的な緊張を和らげると同時に、権威に盲従して社会的な変革を望まなくする。そういう意味で、マルクスが罵ったように「宗教はアヘン」なのだろう。


成功と失敗の自己責任と犯罪への厳罰
 右翼と左翼という区分はまた、現状の社会経済的な格差を容認・あるいはもっと積極的に望ましいと考えるか、それとも平等の理念に反するものとして否定しようとするのかという態度の問題でもある。
 ここで仮に現状の様々な結果的な格差の原因が、すべて例外なく本人の素質や努力によるものだとしてみよう。例えば、現在の収入の差が、少なくとも同種の職業については、本人の獲得した能力(そういうものが実在し、かつ実測できるとして)と完全に比例しているとする。獲得した能力は、あるいは素質によるかもしれないし、あるいは努力によるものかもしれない。
 この場合、現状批判は難しくなるだろう。この場合、現状を否定するには、所得と能力の勾配が大きすぎるという批判をすることができる程度になるからだ。あるいはまた、先天的な素質の差もまた不平等であるとして否定することも不可能ではない。ほとんどの平等主義者は、実際には「環境」が不平等であるため、さらに結果は多様な偶然に左右されるために、獲得した能力と稼得能力や社会経済的な状況とは一致しないと主張する。
 環境が同じでないというのは、まったくもってその通りである。義務教育の内容に入っているようなわずかなことを除いて、各種の運動や音楽などの技芸のトレーニングは、通常、本人よりも親の価値観に従った形で、本人に幼少時から与えられる。野球、サッカーを始め、ピアノやスケートその他のほとんどすべての技芸は、すべての子どもに対してチャンスがあまねく与えられているわけではない。
 また、ケガや病気、交友関係や親の世代からのコネクション、その他の偶然的な要素もまた人生に大きな影響を与える。芸能界や政界に多い親の代からの俳優・政治家などでは、本人の立場からすると偶然そのものであるが、親の立場という環境が確かに本人の成功に大きな役割を果たしている。
 こういった「本人」以外の要因があることをもって、平等主義者は現状を肯定できないと主張する。本人に帰責できない要素があるという主張については、ほとんどの人が納得しているだろうし、私もまったくその通りだと思う。人々が一致しないのは、本人に帰責できる要素がどの程度であり、環境や偶然による要素がどの程度であるのかという点(統計的にいえば分散分解)についてだ。
 本人に起因する要素が圧倒的に大きいと考えるなら、その人は保守的な人だろう。アドルノのFスケールには「20、人々は、強いものと弱いものという二つの階級に二分される」という質問がある。これに対してイエスという人は、つまり世の中にはそもそも強いものと弱い者がいて、現実はそれを反映していると考える。
 その反対に、左翼的な人々は、環境要因や純粋な偶然要素が圧倒的に大きいと考える。そして、人々が現状のような異なった格差的な状況にあることに対しては、基本的に本人の責任ではない偶然に起因していると考える。
 マイクロソフトの創業者であったビル・ゲイツは、ウインドウズ、オフィス、さらにインターネット・エクスプローラーなど一連のソフト開発の成功によって、創業者利益として5兆円もの個人資産を手に入れた。あるいは著名な投資家で、同じように5兆円以上もの私財をなしたウォーレン・バフェットなどもいて、金融投資活動を好む人々には大人気である。だれでも、未来のコカコーラやディズニーの株をあてて、巨万の富を築きたいと思うからだろう。
 彼らのような億万長者がビジネス書に描かれる場合には、その能力や行動をして「鋭いうえにも鋭く、キレるうえにもキレる」というような記述をするのが鉄則である。おそらく、そういったビジネス書を読んで、信じ、納得する人々とは「頑張ったもの、優れたものは報われる」と思っているに違いない。でなければ、そもそもそんな成功者の伝記など読むはずがない。
 さて、二人はすでに事実上引退しており、彼らの財産のほとんどは公衆衛生・難病治療のためのビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団に寄付されている。かつてアメリカの富豪たちはこぞってスタンフォード大学カーネギー=メロン大学、ヴァンダービルド大学、ロックフェラー医科大学などの大学を作った。おそらく現代のビリオネアたちは、現在のアメリカには、そういった教育施設はもう十分に存在していると感じているのだろう。
 さて本題に戻ると、ビル・ゲイツスティーブ・ジョブスは経済的にも社会的な名声においても大成功をおさめた。ところで、彼らがもう一度異なった時期に生まれても、やはり同じように重要な企業を興したのだろうか?ロックフェラーやカーネギーのような大富豪の社会的な成功はほとんど偶然であり、事実、大富豪の中で人生において二度も成功しているものはいないとも言われる。
 これは本当に興味深い問題だと思う。
 例えば、私はアインシュタインが真に天才であったことに心の底から納得している。それでも、彼がこの時代に生まれていたとしたら、相対性理論ほどの革命的な理論を構築できたとは思わない。相対性理論のような理論は、物理学の歴史において、正にある適切な時点に生まれなければ、築くことも検証することもできないと感じるからだ。もちろん、彼がノーベル賞クラスの物理学者になったことは、疑いないとは思う。
 こうした例外はあるかもしれないが、人生における成功の回数というのは、極めてその数え方の難しい概念だ。投資家であるバフェットは、その人生において少なく見ても数十回の大成功を収めているようにも思えるが、コカコーラやディズニーという「ブランド」という現代的なシグナリング戦略が奏功するという賭けに「一度だけ」勝ったと考えることもできないわけでもない。
 あるいは、アップル・コンピューターを創業したスティーブ・ジョブスは、現在のウィンドウズ的なユーザー・インターフェイスをもつマッキントッシュを作って、最初の成功を収めた。その後、共同経営者であるジョン・スカリーによって一度は会社から追放されたが、再び、そのカリスマ性によってアップルに戻った。その後、アップルをiPodから音楽再生、ビデオ編集とそれらに特化した美しいソフトを搭載したコンピュータ、さらに携帯電話の会社として蘇らせた。彼はその人生に、少なくとも二回の成功をおさめたといえると思う。
 シリコン・ヴァレーを中心に、現代ではシリアル・アントレプレナーと呼ばれる、連続的に起業を成功させている人々もいる。よく知られているような大きな成功と、あまり知られていない小さな成功とが単なる大きさの問題でしかなく、ビジネスへの特殊な嗅覚をもつ人々がいても不思議ではないことからすれば、ある分野で歴史になるほどの人物はそれに値するのかもしれない。
 ここで、人々の主観的評価や逸話を離れて、もう少し客観的な研究を見てみたい。
 神ならぬ人間には、ある個人の人生をとり上げて、本人に帰することのできる要素とそれ以外の要素を分解することはできない。それに一番近い思考実験は、ここでも双子の所得や、あるいはその社会経済的な地位を比べるという程度だ。
 二〇〇二年のジャーナル・オブ・エコノミック・パースペクティブズに、双子の所得の相関についての研究が載っている。この学術雑誌は、経済学者の間ではサーヴェイ論文集として定評のあるもので、マサチューセッツ大学のハーバート・ギンティスとサミュエル・ボールズという、生物学や心理学にもよく通じた経済学者による論文である。
 アメリカ国内の統計を使った数値では、一卵性双生児の所得の相関が0.56なのに対して、二卵性双生児の場合はこれが0.36である。一卵性の場合、遺伝的な資質は同じだが、二卵性では、基本的には半分だけが同じである。よって、もっとも簡単な計算法からは、この二つの差の2倍である0.4が、環境や偶然の部分を差し引いた遺伝的な相関係数であることになる。
 所得の分布は正規分布に従っていないため、ここでの分析はまったく厳密なものではない。それでもこの研究は、現在1億円の所得を得ている個人が別の場所に育った場合、その期待的な所得は少なくとも4千万円程度にはなることを意味する(日本人の平均賃金は5百万ほどである)。
 ここでの遺伝には、本人の努力しようとする人格なども含まれることには、よく注意してもらいたい。努力という行為が遺伝的な人格の発露ではあるとしても、努力が本人には帰すことのできない「偶然」であるとは、どんな左翼主義者でも言わないだろう。そういったものも含めて、遺伝率は算出されている。
 0.4という値は高いようにも感じられるが、残りは、環境やあるいは環境と遺伝の相互効果、あるいは偶然などに依存しているのだから、真実はどちらかといえば、左翼的な世界観に近いとも言えるかもしれない。
 しかし、この数値をどう捉えるのかということ自体が、個人の人格に依存している。所得の散らばりの大半が本人に帰することができないということは、それは純論理的には、現状の肯定や否定という価値判断とは関係しない。例えば、所得のどれだけかの再分配が妥当であるとか、あるいはそれと似たような結論を出すことは論理的には不可能だ。
 ところで、現在の日本の状況について、自分が右翼的か左翼的かを知るのに持ってこいのリトマス試験紙がある。それは「激増するハケン労働者が受ける不利益は世界経済の発展から生じる仕方のないものだ、あるいは労働者自身の努力不足によるものだ」と考えるか、あるいは「彼らは資本主義の不平等な経済システムの犠牲者であり、何の落ち度もないのに不遇をかこつている」と考えるのかである。
 ここでは所得という数値が使いやすいので、格差の存在の代表として採りあげてみた。確かに、所得というものは国家によって再分配が可能かもしれないが、実際には人の多様な人生のごく一部にすぎない。
 それ以外の、運動能力や外見の魅力、身長や知性、職業選択や配偶者の選択、その他の要素は実在する不平等ではあるが、これらを国家が矯正することは事実上は不可能だ。そういった状況の不平等に対して、文句を言うよりも自分が努力するしかないと考えるのが保守なのである。そして、そういった不平等をより緩和するような社会変革を志向するのが進歩主義者なのだろう。
 Fスケールには「3、もし人々がおしゃべりをもっと減らして、もっと働けば生活はより豊かになる」というものがある。これはまさに現状を追認し、それよりも個人の努力を信じる保守的な態度である。前述したように、保守主義者は平均よりも勤勉であり、それは彼らの美徳なのである。
 書店にあふれる処世術的なビジネス書を見ると、永遠のベストセラーの欄でナポレオン・ヒルは『思考は実現する』と語り、デール・カーネギーは『人を動かす』、そして『道は開ける』と訴えている。これらの書籍は合理主義的でこそないかもしれないが、そういったガンバリズムというのは、バカにするべきではない。おそらく、人間の潜在力のマキシマムを引き出すには、なんらかの自己暗示や頑迷というほどの固い決心が必要なのに違いない。
 保守主義者が現状の社会システムを追認し、努力した結果が成功であれば、それは彼の得るべき報酬であることになる。同じ考え方をすれば、罪を犯すなら、その償いは行為者が為すべきことになるだろう。


保守主義と犯罪への厳罰
 保守主義者は、犯罪に対する厳格な処罰を望む傾向がある。ニールらによって保守的質問項目が開発されているが、その項目の中には「死刑に賛成するかどうか」というものがある。この質問についての遺伝率が0.51とひじょうに高いことからは、保守性には遺伝的な基盤があることが示唆される。
 同じコンテキストで、左翼の政党や主張者の多くは、犯罪者に対して同情的であるのが普通だ。彼らは、何らかの社会的な問題のために、犯罪者は罪を犯さざるを得なくなってしまったのだと弁護するのだ。
 そういった世界観からすれば、犯罪者は社会の犠牲者なのであり、それに対する刑罰を峻厳にするよりも、むしろ行為者を犯罪に向かわせた社会の矛盾点の方を改善するべきだということになる。まさに、これこそが、多くの人権派弁護士の根本的な世界観であり、彼らの法廷での主張の基底をなす認識である。
 犯罪行為の遺伝率、あるいは非行行為の遺伝率についても多くの報告がある。犯罪は自己中心的な人格を持って、かつ社会的な地位が低い場合に起こりがちである。この両方が高い遺伝性を持っているため、結果として犯罪行為の遺伝率も50%を超えているという報告が多い。
 ここでも社会的成功と同じ議論が成り立つ。犯罪が起こった場合、犯罪者の個人的な資質の発現デアルと考えるのが保守であり、その場の状況や、あるいは犯罪者の育った環境が悪いのだと考えるのが革新なのだ。
 当然、この認識の違いは犯罪者に与えるべき懲罰の程度にも関係する。
 犯罪に対する罰は、保守であれば長期の厳罰主義を支持しがちであり、革新であれば、厳罰というよりも比較的短い教育刑という形を好む。これは犯罪という悪に対する応報感情からの刑罰に対する感覚の違いである。
 しかし、刑罰のまた別の目的には、犯罪に刑を科すことによって将来の犯罪を予防するという目的(一般予防と呼ばれる)もある。ここでもまた、保守派は厳罰によって犯罪を予防できると考えるが、進歩主義者は、犯罪とは一種の病気のようなものであり、厳罰化したところで犯人が犯行を思いとどまることはないと主張する。
 経済学者はこの点、比較的に保守派が多いようであり、対して社会学者は進歩派が多いようだ。二つの分野は学風も違えば、祖先神も異なるので、厳罰が本当に犯罪を抑止する効果があるかという問題については長い論争が存在する。
 一応、例えば経済学の分野においては、アーリックの古典的な研究がある。それによると、一人当たりの死刑執行は、約7回の潜在的な殺人事件を抑止しているという。また懲役の長さや有罪率の高さも、それなりの犯罪抑止効果を持つという結論が出ている。
 もちろんこれに対して、社会学者は統計的な手法を批判したり、あるいは常識に訴えたり、あるいは犯罪者へのインタヴューに訴えたりして、そういった抑止効果は存在しないとしていることが多い。
 ごく常識的に考えれば、詐欺や窃盗などの財産犯は刑罰の厳しさに反応するだろうが、殺人などのような極限行動は、なるほどあまり反応しないようにも思われる。しかし、これについても、結局は程度の問題であることのだろう。
 これに関連して、一九九八年にシカゴ大学のジョン・ロットは、『銃が増えれば、犯罪は減る(More Guns, Less Crime)』という挑発的な題名の本を出版して、大きな反響を呼んだ。彼は、自由放任経済を信奉しており、シカゴ学派の中でも本流の人物だといえるだろう。彼の論理は、仮に銃をすべての市民が常に携帯しているなら、犯罪者はそれを恐れて、犯罪行動は減るだろうというものだ。
 ロットは10州の犯罪統計を使ってこの結論を出したが、これは銃規制賛成派を逆なでしたために、大きな論争を生み出した。複数の学者が、ロットの結論は信頼できないと統計的に反論したのだ。ロットは続編となる著作で、統計データと犯罪者へのインタヴューから、彼の結論を補強している。
 確かに、犯罪予備軍がもっと簡単に銃を入手できるのなら、それを使った犯罪は起こりやすくなるだろう。その反面、反撃を恐れるような潜在的犯罪者は、多くの潜在的被害者が銃を持っているなら、犯罪を躊躇するはずでもある。残念ながら、私はこの論争についてあまり納得できる結論を得ていないので、判断は読者にお任せしたい。
 さて私は、明らかに厳罰主義的な考えを持っているが、それは犯罪予防という観点からよりも、単純に応報的な感情からである。犯罪類型にもよるが、劣悪な社会状況にある人々が、ジャン・バルジャンのように、貧困から窃盗、あるいは居直り強盗に至ることはあり得ると思う。それらに対しては、ある程度の同情も感じる。
 しかし、貧困が殺人やレイプなどにつながるはずがない。そういった犯罪者に同情する必要などまったくないと思う。純粋に応報的な正義の感覚からして、そういった行為には厳罰が与えられるべきだと感じる。これは明らかに保守主義的な感覚そのものであることはいうまでもない。


クロポトキンと自然にあふれる利他的な行動
 ナチスほど徹底的ではなかったとはいえ、19世紀のヴィクトリア期のイギリスでも、多様な保守的な考えが大きく花開いていた。実際、当時のイギリスは産業革命を完成させ、全世界に植民地を経営して「日の沈むことのない大帝国」としての繁栄を謳歌していた。そういった時代に、イギリス人の優秀さが帝国の成功と繁栄を導いたと考えるのは、きわめて自然なことだった。
 同時に自然観においてもまた、競争を重視する風潮が広まっていた。ここでは、ダーウィン進化論の擁護者として「ダーウィンブルドッグ」と呼ばれた、トーマス・ヘンリー・ハクスレーをとり上げてみる。
 彼が『十九世紀 The Nineteenth Century』誌上に書いた「生存競争」と題されたエッセイには次のような記述がある。

「道徳家の視点からすれば、動物の世界というのはほとんど剣闘士の見世物のレベルにある。生き物はそれなりに取り扱われながら、戦いをけしかけられる。そこでは最も強いもの、最も素早いもの、最も抜け目のないものが、明日の戦いに向けて生きのびるのだ。・・・最も弱いもの、最も愚かなものが壁に張り付けられることになり、その一方、その環境に対して最も適応した、しかしそれ以外の意味では最良とは言えないような、最も屈強で、最もずる賢いものが生き残る。生活はルールのない闘争の連続であり、限られた一時的な家族関係を超えると、ホッブズ的な万人に対する闘争が、存在の普通の状態なのである。」

 現在の進化理論は、こういった「血塗られた自然」といった程に単純ではない。細胞や個体レベルの共生から、血縁的、あるいは互恵的な利他行動、その他多くの協調的な要素が存在する。常に死ぬか生きるかという剣闘士の戦いという要素も確かにあるが、負ければそれなりに名誉や評判、あるいは収入が低下するという程度の、野球やサッカーといったチームスポーツ的な要素も同じ程に大きいだろう。
 しかし、この闘争を重視したハクスレーの自然への記述を読んで、当時ロンドンに在住していた無政府共産主義者クロポトキンは、大いに憤ったという。そしてその後、彼は一九〇二年に『相互扶助』を出版した。
 前述したように、保守主義者はよそ者嫌いであり、基本的に他人を信用しない。彼らにとって、利他的な行動は、基本的に親族や友人に対して行われるべきものだ。と同時に、世界は危険に満ちており、自然界もまた弱肉強食の生存競争が支配している。
 これに対して、自然界の競争的な側面を見るのではなく、むしろ、協力的、協調的な活動に目を向けて、それらを重視するというのが、リベラリストの視点だ。ここではそのもっとも極端な例として、生物学者であると同時に、無政府共産主義を夢想したピョートル・クロポトキンを紹介しよう。
 クロポトキンベラルーシの大貴族の生まれであった。その祖先は、ノヴゴロド公国の開祖であるリューリクにまで遡ることができたという。彼の父は一二〇〇人の農奴を所有し、クロポトキンは兄ともに幼いころからドイツ語・フランス語の家庭教師についていた。彼が自由や平等の理念を知ったのは、このフランス語の家庭教師からであった。
 15歳でセント・ペテルブルクにあるロシア軍の士官学校に入学したが、士官としての生活を嫌い、20歳で自らシベリア駐留を志願した。その後、アムール川流域の地理探査に従事する職業生活を送りつつ、生物たちの観察研究を続けた。
 クロポトキンは、極北の地でともに寒さから助け合って生きるトナカイや水鳥、ネズミなどの動物たちの様子をつぶさに観察し、進化は競争からではなく、協力から生まれるというインスピレーションを得た。その後、活動の場を西ヨーロッパに移して、政治運動、革命運動に身を投じたのである。
 彼が生きた19世紀の後半の進化論では、イギリスのハクスリーなどを中心として、「適者生存」、「血塗られた自然」といったフレーズが大流行していた。それは、個体間だけでなく、集団間の競争を社会ダーウィニズムとして提唱したスペンサーの考えのように、圧倒的に競争重視の、ある意味で殺伐とした世界観であった。
 これにほとんど感情的にも、認識的にも反対していたクロポトキンは、一九〇二年に記した『相互扶助:進化の要素』の「結論」において、以下のように記している。
 
「動物の世界では、圧倒的多数の種が集団で生きており、生存競争のための最高の武器は
協力であるということわかっている。ここでの生存競争とは広い意味でのダーウィン的な意味であり、それは単なる生存に向けての格闘というよりも、種にとって不都合なすべての自然状況に対する格闘なのである。個体の闘争が極限まで少なく抑え込まれ、相互扶助の実践がもっとも発達した動物種は、必ずもっとも数が多く、繁栄しており、さらなる発展にむけて開かれている。この意味で得られる自然からの相互の防御は、長く生きて経験を蓄積し、より知的な発達や、社会的習慣のいっそうの発達を可能にする。そしてそれは、種の維持、発展、さらなる進歩的な進化を確実にするのである。その反対に、非社会的な種は、滅びゆく運命にあるのだ。」

このような認識は現在の進化論とは必ずしも整合的ではないが、クロポトキンがいかに、厳しいシベリアの自然環境に対して、群れを作って対処し、生き続ける動物たちに強い共感を感じていたのかが理解できるだろう。
 さて、クロポトキン無政府主義者アナーキストであったが、その高貴な出自のためにアナーキスト・プリンスと呼ばれている。これが、ある意味で完全に矛盾している形容であることは明らかだが、彼に対するプリンスの称号は、権力の存在しない平等な社会を目指した、その精神の気高さを称賛する意味を含んでいる。
 ダーウィニズムはその始まりから、個体の生存・繁殖のためには他者との競争に打ち勝つ必要あるという意味で、競争的な思想と基本的に親和的だ。このことから、主流派のダーウィン進化論は、常に多くの人々からの不評を買い続けてきたのである。
 戦後昭和の日本でも、京都大学でカゲロウの研究などをしていた今西錦司は、「すみ分け」を重視した独自の進化論を提唱していた。「すみ分け」とは、異なった生物種がそれぞれに異なった生態的な地位を自発的に選んでいるという「共生」の思想だ。今西は京都大学にあって多くの弟子を輩出したため、昭和の時代には、彼の意見はそれなりに認められていた。だが、個人の死とともに、理論なき理想は学説史の闇へと消えていった。
 もっと低いレベルでは、リン・マーギュリスらによる「細胞の共生説」がある。もともと細胞内のミトコンドリア葉緑体などは独自のDNAをもっており、細胞とは別生物であった。それが他生物の細胞と共生関係に入り、全体として機能するように進化したことが、現在では広く認められている。これはしかし、個人スポーツがチーム・スポーツに変化したという程度であり、進化論を超える「新しい進化論」とまでは呼べないかもしれない。
 その他にも、進化とは主にウイルスによる他の生物種からの遺伝子の搬入=トランスポゾンによって引き起こされるとする説や、DNAは分子レベルでの偶然の浮動によって固定され、それが進化の原動力だと考える中立進化説などがある。どの説も、競争という概念を嫌い、むしろ偶然の要素を重視するという意味で、ダーウィン説の持つ〈無慈悲さ〉を否定する側面がある。
 競争によって遺伝的に優秀な個体がより多くの子孫を残すというのであれば、遺伝は重要な役割を果たさざるを得ない。イギリスから始まった「氏か育ちか」という論争の中で、遺伝的な資質を重視するか、それとも後天的な環境の方を重視するかという考えの違いは、論理的なものというよりも、まさに世界観の対立なのだ。
 最後に、旧ソヴィエトで猛威をふるった、ベキダからデアルへの影響の代表としてルイセンコの進化説を挙げてみよう。それは、努力によって、あるいは環境によって遺伝的な性質までも変化するという考えであった。
 ダーウィン以前のフランスの生物学者ラマルクは、個体による獲得形質が次の世代にも遺伝すると主張した。しかし戦前にはすでに、オランダのヴァイスマンなどによってこのことは完全に否定され、それは学者の間では常識となっていた。
 自分が育った環境や、あるいは練習によって獲得した能力などは、次の世代に遺伝することはない。なぜなら、個体が後天的に獲得した形質は、生殖質(卵子精子)の遺伝子にはまったく影響を与えないため、次世代には伝わりようがないからである。これは生物学において、セントラル・ドグマと呼ばれている。
 ウクライナ生まれの植物学者であったトロフィム・ルイセンコは、こうした生物学知識をブルジョワ的であるとして政治的な批判をした。そして、生物学者ミチューリンのネオ・ラマルキズムの提唱に基づいて、環境からの影響によって遺伝的な資質もまた変化すると主張したのだ。
 彼は、環境からの影響、つまり個人の努力や獲得した能力などが次世代に遺伝するという考えの方が、平等や進歩主義的な理念に適合し、より好ましいと考えた。なるほど、自然的な事実もが、政治思想によって決定されるというのであれば、そう考えることもできるだろう。
 ルイセンコは、スターリンに気に入られると、学説的に反対する研究者を次々と追放して科学アカデミーを支配した。彼は、小麦を播く前に冷蔵保存するという「春化」によって、秋まき小麦を、寒さに強い春まき小麦にできると主張した。
 一九四八年にルイセンコは政治闘争に完全な勝利を収め、獲得形質の遺伝についての異論をさしはさむことを国内で禁止することにまで成功した。その後53年には、ライバルであった著名な生物学者ニコライ・ヴァヴィノフを投獄し、餓死させた。
 ルイセンコ学説は50年代のソヴィエトの小麦生産に大きなダメージを与えた後、次第にソヴィエト国内でも実践されなくなっていった。しかし、その完全な学術的な否定は、ルイセンコを贔屓にしていたフルシチョフが失脚する1964年まで待たなくてはならなかった。このことに、ルイセンコ学説の政治性が見事に表れているだろう。
 一九五九年にはDNAの二重らせんが発見されたこともあって、その後のソヴィエトでは主流の遺伝学が復興した。しかし、興味深いことには、その後の文革時代の中国も、このルイセンコ学説を採用したことだ。それによって、大量の餓死者を出しているのだ。当然ながら、自然的事実は理念では変化しない。
 また驚いたことには、西側に属する戦後のの日本にさえも、ヤロビ農法という形で導入しようとした(おそらく共産主義に傾倒していた)学者がいた。ベキダから自然についてのデアルを引き出すことはできない。ルイセンコ学説は、ほとんど妄想というべき思想が国家によって科学に押しつけられた悲惨な事例である。


無限の人格的可塑性
 ルイセンコの学説は、つまるところ、生物の進化が、生育環境によって引き起こされているべきだという、イデオロギー的な環境決定論であった。どうやら、この環境万能主義というのは、進歩主義的な人々にとっては、まさに麻薬のような力を持っているようだ。
 社会主義の極端な実践には、北朝鮮主体思想や、カンボジアでの少年の思想改造がある。一般に、(いやしい資本主義的・拝金的な)人間精神を教育によって改造することがひじょうに重視される。これは、左翼的な傾向を持つことが多い、教育者や教育学者には典型的に見られる精神態度だ、これは特に社会主義国でない資本主義世界においても、同じだ。
 保守的な人々の視点からすると、「人間には遺伝的に持って生まれたものがあって、それを変化することができることもあるだろうが、難しいことが多い」ということになる。もちろん、ここで極端に遺伝性を強調してしまうと、ナチスのように遺伝万能論になってしまうため、遺伝的な要素を強調することは望ましくないという、戦後の自発的な自己検閲は存在する。
 少年の非行から成人の犯罪、あるいはモラルの欠如から科学嫌い、援助交際に至るまでの広範囲の、大人が望ましくないと感じるすべての風潮について、教育によって何とかするべきだとの主張が繰り返されている。政治家からマスコミまでのすべてで、「そういったことをしないようにする人間的、道徳的な教育が重要だ」という大合唱になっている。
 だが、私はこの考えに非常に懐疑的である。
 双子研究を見ると、知能から人格、思想、身長などの特長に至るまで、多くの形質で、遺伝的な分散割合は50%程度だ。これに対して、環境要因の中の何が、どの程度の影響を与えているのかは、まったくはっきりしていない。ほとんどの研究では、双子によって共有される家庭環境は、子どもの人格などに見るべき影響を与えていないことが示唆されているのだ。
 教育者の与える訓示や人格的な教育のようなものは、現実には、その説教によって相手に様々な不利益を与えている。説教を聞いている学生としては、その時間や精神的苦痛を減らすために、一時的に理解したように振舞ったり、あるいはその時だけ行動を変えていることがほとんどではないのだろうか。
 もちろん、私も純粋な知識やスキル、例えば数学や物理学、法律などの知識、あるいは野球の投球方法やスキーの技術指導などについては、教育と学習は何にもまして重要であると考えている。そういった技能については、先達からの指導や助言なしでは、決して現代社会に通用するプロフェッショナルなレベル、あるいは世界で一流のものにまで高まることはない。
 しかし、教育者や政治家が議論しているのは、もっぱら一般人に対する道徳教育であったり、人間的な成長を目的とする人格教育であったりする。そういったものが必要なのか、あるいはまた可能であるのか、私はこれらについて大変に疑わしく感じる。
 人間にとって若い時間は有限であり、学習できることも有限である。このことは、金メダルを取るようなアイス・スケーターが、決してプロの野球選手にはなれないことからも明らかである。あれをすれば、これはできない、というトレードオフは普遍的だ。
 道徳教育などという、人類史上、その効果が測られたことのないようなものに時間をかけるよりも、現代数学からやコンピューター・サイエンス、さらには司法制度などの知識の習得や、あるいはテニスからヴァイオリンなどの技芸に至るまで、時間をかければいいだろうことは無限にある。
 これと同じ発想なのが、犯罪者の更生可能性についての議論だ。19世紀の後半から発達した「新派」と呼ばれる刑事法学者は、犯罪者というのは人間の正常な社会化が妨げられた結果として生じると主張した。よって懲罰に変えて、教育の概念で犯罪者を遇するべきだと考えた。
 この運動の影響は、いまでも監獄内の職業訓練では、パソコン技能の習得などの実用的な能力よりも、むしろ根気を必要とする伝統的なタンスづくりなどの精神修養的なものが多いことにも表れている。
 だが、そもそも道徳などの社会性を身につけさせる方法などは、これまでまったくわかっていない。そういった状況において、6歳からの教育でも身に付かなかった道徳教育が、服役中の限られた時間の中で可能なのだろうか?
 左翼的な思想では、生まれ持っての資質の基本的な平等が前提とされるため、行動に差があるのであれば、その原因は後天的な環境にあり、それは教育によって当然に矯正可能だということになりがちである。だがこれは本当なのだろうか。
 私は、まず第一に、生物として人間が進化してきた以上、その行動や特徴の基盤には大きな遺伝性があると信じている。進化には、遺伝的な突然変異に基づく行動や体徴の変異と、それが淘汰され、あるいは拡散するプロセスの両方が必要だからだ。
 同時に、仮に極端な教育、あるいは条件反射的な学習などの実践によって、個人のすべてを変えることができるとしても、それは重大な自由や人権侵害を伴うことになるのではないかと危惧する。誰にでも、少なくとも人への直接的な犯罪にならない限りは、社会という他人の集合体にとっての望ましい人生ではなく、自分の希求する生活、自分なりの幸福を追求する権利があると考えるからだ。
 ベキダは、一人ひとりにとって異なったものだ。それを社会的に強制しようとするなら、ナチスやその後の社会主義国で起こったような、他人の価値観による個人生活や思想、さらには人間性の自由の否定という代償を払う必要が生じてしまう。このことは、よくよく理解してもらいたい歴史的な教訓だと思う。


マーガレット・ミードと『サモアの思春期』
 人間は基本的に平等であるという政治信条は、「実際に人間集団は、少なくともその精神において同じである」というデアルにつながる。こういった考えは広く文化人類学社会学に広がってきた。
 こういった極めて二十世紀アメリカ的といえる思想潮流を作るのに、大きな役割を果たしたのが、文化人類学者として活躍したマーガレット・ミードだ。ミードには二つの代表作があり、一つは『サモアの思春期』である。
 そこでのテーマは、西洋社会の禁欲的な文化が、思春期における反抗的な精神を生み出すというものだ。そこでは、人間行動の本質的に文化的な要素と、西洋の宗教社会に流布する性的な禁忌意識は特殊なものだ、という点が強調された。
 もう一つは『三つの原始社会における性と気性』と題された、パプア・ニューギニアの3つの文化についての報告だ。アラペシュ族では男女両方が平和的であるのに、ムンドゥグモル族では両方が好戦的である。そして、チャンブリ族では、男は着飾ったり化粧をするのに対して、女は外で働く。こういったまったく異なった文化が共存していると報告したのである。
 ミードは女性解放運動、市民権運動にも乗って、メディアでも頻出する有名人になった。60−70年代は、それ以前の不平等状態が弾劾され、性の解放運動とともに、平等という理念がそれだけ重視された時期である。あるいは、西洋以外の文化も西洋文明と同程度に尊重されるべきだという、多元的文化理念の時代であった。
 『サモアの思春期』が単なる思い込みであったことは、デレク・フリーマンによる『マーガレット・ミードとサモア:人類学的神話の創成と破壊』に詳しい。ミードは、9か月のフィールドスタディを現地語をまったく理解しないままに終えた。対してフリーマンは、4年半の歳月を現地の社会と言語とともに過ごした。フリーマンが指摘するように、サモアにも反抗的な思春期があり、また性的な禁忌意識が存在することは、いまや疑いない。
 いわんや『三つの社会』は、単なる彼女の願望と思いこみでしかなかった。いまや、性ホルモンの与える生理学的な事実、あるいは脳機能の各種の性差に関する神経科学的知見と、ミードの結論した男女の心理的同一性は、まったく相いれていない。
 私見では、多様な文化を探そうとするのであれば、文明化されていない社会を探すという文化人類学のアプローチよりも、むしろ都会のサブカルチャーを研究する社会学の方が可能性があったように思う。
 都会には、多様な遺伝的な素因を持つ人々が高密度に住んでいるため、特殊な文化が発達することが可能だ。例えば、男性ホモセクシュアルの文化は大都市には普遍的に存在するが、多様性を嫌う地方ではそういった文化は存在しない。どんな種類のものであれ、特殊な嗜好を持つ人は都会へと移住してしまうため、異なったカルチャーが発生する余地がない。
 ほとんどの場合、ベキダはデアルを生み出さない。社会体制などの人工物を除いて、人や自然のあり方というのは基本的に我々の倫理とは独立した存在だからだ。だが、当たり前のことだが、強い倫理観を持つ人ほど、こういった考えに陥りがちなだ。
 現代社会の倫理感からは必ず付け加えられることだが、男性と女性に集団としての差異があることは、個人に対して何かを語ることとは違うということである。明らかに男性の平均よりも体力の上回る女性はいるし、身長の高い女性もいる。
 要は、「このグループはこういう傾向を持つ。だから制度として別に扱うのが当然だ」という発想法そのものが悪いのである。、すべての「実質的な平等」を、国家のような強制力を持つ主体によって実現しようするなら、個人主義的な正義からも効率性からも大きく隔たった制度を構築してしまう。それは、すべてが集団主義に基づいた悪しき思想だ。
 そういった実例が、遠くはアメリカのアファーマティブ・アクションであり、近くは京阪神地方の同和利権朝鮮人利権といった、マイノリティの公務員への優遇採用である。こういった制度化された集団主義はすべて、最終的にはかえって個人間の不公平感を生み出してしまう。


自己欺瞞の進化
 これまでに明らかになったように、ベキダという当為概念がデアルの存在概念の認識に影響を与えるのは、直観的に自然なことのように感じられる。とはいえ、一体どういう意味で、異なった概念の相互干渉が起こるのが「自然」なのだろうか?
 心理学には、レオン・フェスティンガーが一九五七年に提唱した「認知的不協和」という概念がある。人間は自分のもつ世界観と整合的な事実の認識を持たなければ、その矛盾から精神的ストレスを感じてしまう。そのため、自分の価値観と異なる事実を無視したり、あるいは整合的な事実を強調する傾向を持つという理論である。
 もともとのフェスティンガーの理論は、たばこの有害性という事実と、自分の喫煙行動という事実、というような、デアルの対立についてのものである。喫煙者は、タバコの有害性を否定しようとするのである。この理論から類推されるところでは、各人が、自分の信じる価値であるベキダと矛盾する事実を、認識から排斥しようとするのだ。
 結果の平等な社会が価値的に望ましいと感じている人が、「現状の格差はすべて、あるいはほとんどが遺伝的に説明できる」という現状維持的な主張を聞いたとしよう。それを否定したいと感じるのは、ごく自然なことだ。
 もちろん、すべての格差が遺伝的であったとしても、なお平等な社会は望ましく、その実現のためにむしろ才能のない人には特別な訓練を与え、才能のある人には不利益を課すという政策を採ることも、論理的には可能である。しかし、そういった主張では、多くの賛同を集めることはできそうにない。
 こういった意味で、個人の価値観からの世界の認識への影響というのは、自己矛盾を避けるためには必然的な心理機構となる。社会についての認識というのは、実に多様かつ微妙な要素を大量に含んでいる。そのため、誰しもが、自分の理論に都合のいい事実を持ち出すことによって、それなりに自分の理論を正当化できるのだ。
 よく政治的な対立では、自説に都合の良い事実を引用し合うが、歴史的、社会的な事実というのは無限に存在する。カントール集合論で行ったように、自然数と偶数を一対一に対応させることでさえも可能だ。例えば、ここで自然数に保守的事実を対応させ、偶数に進歩主義的事実を対応させれば、両者は同じように無限であるとさえ主張できるかもしれない。
 しかし、私はこういった不可知論には、あまり賛成しない。人間によって抽象的に区分される事実というのは、確かに無限にある。だからこそ、統計的な処理が重要性を持つのではないだろうか。統計学の利用は、どちらの方がより蓋然的であるかについての、個人の主観的な判断を超えた情報を与えてくれる。少なくとも、客観的事実への接近の可能性は高まるだろう。
 世界観というほどの大げさなデアルでなくても、自分の日常的な行為が道徳的であるという程度の小さなデアルについても、認識のゆがみは恒常的に存在している。通常、誰しも自分が道徳的に逸脱しているとは考えないものだろうが、自分が日常に行っている、小さなウソや小さな盗みなどは、意識に上らないままに終わっているのだ。
 心理学者のフェルドマンたちによる長期的な研究によると、ほとんど無意識のうちに、60%にも上る人がほとんど習慣的にウソをついているという。日常的に、男性は平均して25ものウソをつく。多くのウソは、自分の能力をわずかに誇張するようなもので、その意図は自分の会社での評価、仲間内での評価を上げることにあるという。
 これは、恥ずかしいことではあるが、思い出すと私も時々行っている。友人などとの会話の中で、話を面白くするためであったり、あるいは自分のいい面を誇張したりしてしまうのだ。おそらくは私も、自分ですぐに思い出せる以上に多くの小さなウソをついているのだろう。
 その他のウソは、社会的なトラブルを起こさないため、あるいは相手を傷つけることを避けるためである。これらはどちらかというと病人を落胆させないためのホワイト・ライの類である。
 ちなみにチンパンジーをはじめ、多くの社会性動物はウソの警戒音を発したりすることで、自分の利益を守ることが知られている。あまりにも多くの生物種でウソの信号が発見されているため、コミュニケーションがあるところには必ずウソがあるということを疑う生物学者はいない。
 さて、女性のウソは男性に比べると、2分の1から3分の1と少なく、その多くは自分を社会的なトラブルから守るためだという。女性の体内には男性ホルモンであるテストステロンが少ないが、テストステロンが自己評価を高めると同時に、自分をより良く見せたいというウソを引き起こしているようだ。
 この事実は、女性よりも男性の方がより大きな社会的な競争圧力、さらには異性の獲得圧力を受けているという考えとも整合的である。あるいは、男性の方が自分勝手で反社会的、攻撃的であることが多いという事実とも整合している。
 こういった自己欺瞞は、自分で気づかない方がより自然なものになり、他人からも信用されやすい。人間はウソをついていると自覚している時には、目の動きや発汗、その他の身体的な変化が生じてしまう。だから、まず自分をだますことができるなら、それは他人を信じさせる近道となる。
 こういった自己欺瞞の利益については、ロバート・トリヴァースが詳述している。彼は、遺伝的な違いから生じる親子間の心理的、行動的な葛藤をおそらく最初に指摘した進化理論の第一人者である。
 彼は一九八二年に、自己欺瞞が果たしてきたであろう、自分のウソを他人を信じさせる役割の重要性と、自己欺瞞の進化について議論した。自己欺瞞に関連して、私が面白いと思ったのは、彼の指摘する「社会理論」というもの全般についての見解だ。

「我々の全員が、社会理論を持っている。我々は結婚についての理論も持っている。例えば、妻と夫は、その片方が長い間耐えてきた利他主義者であって、もう片方がどうしようもなく身勝手であることに同意するかもしれないが、どっちがどっちであるのかについては意見が異なるだろう。私たち一人ひとりが、自分の雇用関係についての理論を持っている。私たちは搾取され、そのもたらす価値に比べてあまりに少ない給料を得て、低い評価しか得ていない(そしてそれは、仕事の出来を最小化したり、会社のものを盗んだりすることが正当化する)のか? 私たちは、通常、もっと大きな社会についても理論を持っている。豊かな人たちは、その他の人を犠牲にして自分たちの資産を不公正に増やしているのか? 民主主義は、定期的に主権者の力を再確認することを本当に許しているのか? 法律制度は、制度的に我々(例えば、アフリカ系アメリカ人)に不利益な偏りを持っているのか? これらの理論を考える思考力は、おそらく部分的には、我々の対人関係や、より大きな互恵的な利他的制度におけるごまかしを見破るために進化したのだろう。
 社会理論が、その語り手に都合がいいような偏りを持つことは容易に予測される。社会理論というものは必然的に事実の複雑な羅列を含むが、それらは非常に片面的に記憶され、ほとんど整理されていないものであるため、自己利益に整合的な社会理論体系の構築にとっては都合が良いのだ。矛盾は非常に遠くに隔たっていて、発見するのは難しい。」


 社会理論と呼ばれる複雑な心理的な防壁を構築することによって、ますます自己欺瞞は巧妙化して、見破るのが難しくなる。自由放任の経済を擁護するべきなのか、あるいは政府によって資本主義の労働者搾取は否定されねばならないのか。ベキダから始まる大規模な価値と信念の体系としてのイデオロギーを信じることは、必然的に世界の存在状態の認識に多大な影響を与えざるをえない。
 また我々の多くは、大きな善なる目的のためには日常の小さなウソのレベルにとどまらず、相当程度の悪であっても許されると考えがちである。これが行き着くところは、〈主観的に小さな悪〉が、客観的には重大な犯罪である殺人を含んでしまう。そういった犯罪行為は正当化されて、倫理的な自己検閲から完全に逃れることになるのだ。
 戦争時の虐殺などは、典型的にこういった状況に当てはまる。戦争に勝利するためには、多くの不必要な虐殺や嗜虐的な行為が繰り返される。それらはしかし、戦勝という大きな善を目指しているために、行為者本人にとって大きな倫理的な不協和を感じさせることはない。
 「歴史修正主義」と呼ばれる言葉があるが、現在のアメリカやヨーロッパには「ナチスによるユダヤ人虐殺は存在しなかった」と主張し始めている人々がいる。日本でも南京大虐殺が存在しなかった、あるいは朝鮮併合などは朝鮮人の方から望まれていたという人々がもっと増えるだろう。
 私は15年ほど前に、南京大虐殺を記念する「抗日記念館」という施設を訪れたことがある。私は中国側が主張する30万人の及ぶ大虐殺というのは誇張である可能性が高いと思っているが、それでも千人、万人という程度の単位での殺戮行動が行われたことは疑っていない。
 少なくとも、大規模で組織的な集団虐殺はともかく、戦闘に際して一般人への、あるいは占領下の随所での暴行や傷害、殺人、レイプなどは頻発していただろう。つまり、平常時ならば犯罪である行為が頻発していたことは間違いないだろうということだ。
 ヴェトナム戦争時のアメリカでは、良心的懲役拒否という行為が初めて大規模に実践されたが、戦前の日本でそういった行為が許されたはずはない。私自身もその当時に召集されていたならば、「殺るか殺られるか」の状況に覚悟を決めて、民間人を含めた殺戮行為を行っていただろう。
 あるいはもっと小さなところでは、オウム真理教による地下鉄サリン事件がある。宗教国家を樹立するための教祖の命令は、彼らにとっての絶対的な大きな善であり、そのためには地下鉄での無差別殺人などは、些細な行為でしかなくなっていたのだ。
 事後的に彼らを非難することは、もちろん正当である。しかし、集団的な信仰が教団内に確立していた中で、実行犯人たちが命令に従わないという選択肢は、主観的には存在していなかっただろう。


政治活動というシグナリング・ゲーム
 自己欺瞞と関連して、私が常日頃から感じている不思議の一つは、多くの政治家が、なぜ対立政党の政治家たちを、あれほどまでに断定的、かつ悪しざまに批判できるのかということだ。それらのほとんどは、政治に直接関係のない単なる人格攻撃でしかない。
 誰にでも異なった信念や理想があるとは思う。しかし、ほとんどの政治家の対話というのは、実につまらない失言などを揚げ足取りしながら、個人攻撃に突入して、延々と道徳的な資質の質疑を繰り返す。私としては、もっと政策的な論議をしてもらいたいのだが、そういったことはあまり深くは行われない。明らかに、「誰が信頼できる人物なのか」という問いが最も重要視されている。
 これについてはしかし、私の方が例外である。多くの有権者は、政策レベルの考慮も重要だが、それよりももっと政治家への人間的な信頼を重視している。このことは、過去の多くの選挙結果からも明らかだ。
 政治活動というのは、自らの掲げる政策の望ましさを客観的に訴えかけるというよりも、いかに自分が人間として信頼に値するのかを競うという要素の方が強いのだろう。つまり政治とは、「私は信頼できる善良な人物であるから、皆さんに悪いことなどするはずがない」というアピール合戦だ。
 ほとんどの経済学者は、「重油の値段が高騰しているために漁民が補助を求めている」場合でも、その補助金というのは結局のところ、誰かから税金を集めなくてはならないことを理解している。その上で賛成するなり、反対するなりの議論をする。しかし、政治家は、常に自分の現在の票を支える政治的な援助はするが、そういった行為が長期的にもっと優先すべき課題を犠牲にするかもしれないことは無視する。
 もう一つの不思議なことは、政治家のだれもが「自分のやっていることが誰にとってもいいことだ」と断言することである。私は、長い間、これは単なる無理解、あるいは無知なのかとも訝っていたが、最近になってこういった行動はもっと本能に根ざした進化的に理由のある行動であることを理解した。
 政治活動に身を投じようとするような人々には、暗黙のうちに自分の主張する政策のいい面だけを考え、悪い面については無視できるようなメンタリティが必要とされる。もちろん、誰にもそういったご都合主義的な傾向はあるに違いないが、そういった自己欺瞞が強ければ強いほど、自分の活動への完全な自信と信頼、そして他人への強制を当然視することができるからだ。
 私のような極端な懐疑主義者は、象牙の塔に閉じこもっているか、せいぜいが人々に向けての文章を書いて「考えて納得してもらう」しかない。これに対して、「政治」とは他人に多くのことを「無理やりに強制する」ことだ。そういった行為を躊躇しないためには、自分の信念の絶対的な信頼と、それに伴う多様な自己欺瞞が不可欠な資質なのだ。
 私の父は、長い間、地方の小都市で市議会議員をしていた。小渕恵三首相の急死の後、密室での談合で、隣の石川県の衆院議員である森喜朗が首相になった時、彼は「こういう(森元首相のような)奴らは自分のやってることに何の矛盾も感じないで、よっしゃ、よっしゃ、とか言って、毎日、後援会の人たちと楽しく飲み食いできるんだな。そりゃ、すごいことだ。それも一つの才能だな」と愚痴をこぼしていた。
 さて、自分のやっていることのマイナス面を見ないという自己欺瞞のおかげだろう、政治家の多くは、ライバルの責任問題の追及については徹底的である。私は誰でもたたけばホコリの一つぐらいは出るんじゃないか、といった感覚で生きているが、こんな弱気な考えでは自分の道徳性の高さ、清廉潔白さは示せるはずがない。苛烈極まりない他人への口撃をすることによって、鳥やセミ、スズムシのように、有権者に向かって「自分は潔白ですよーー、信頼できる人物ですよーー」と常に歌わねばならない。
 これは生物学では、シグナリング・ゲームと呼ばれる。カエルの鳴き声について考えよう。低く鳴けるカエルは体の大きなカエルである。大きな体のカエルは当然にメスにアピールするために鳴くが、小さなカエルも鳴かないわけにはゆかない。もっと小さなカエルだと勘違いされないためには、鳴くしかない。
 政治もこれに似ている。相手を攻撃しない政治家は、どこかにやましいところがあるのかと勘違いされる可能性がある。それをなくすためには、結局、中傷合戦が行き着くところまで行かざるを得ないのだろう。
 私はこれは、本当にバカバカしい行為だと思っている。常識はずれであることを承知しながらも、私が無政府主義を支持することの、もっとも大きな利点の一つはここにある。政治家が毎日のように飽きもせずに行っている無意味で非生産的な、バカバカしい中傷合戦に代えて、彼らの持つそういった他人のあらさがしをするような高い能力は、もっと別の種類の、真に意味のある生産的な活動に振り向けることができるはずだ。
 これは政治体制の問題であるので、次章で詳しく論じよう。
 この章をまとめると、右翼的・左翼的思想をはじめ、人々は多様なベキダを信じている。それに応じて、信じたい、あるいは信じがちな世界の状態というものは異なっている。それが多様な対立と悲劇を生み出してきた。
 ルイセンコ学説のように、完全な誤りとして悲惨な結果をもたらした後に終結したものもある。しかし、対立の多くはそのまま現代に持ち越されて、人間の利他性から、資質の平等、道徳教育の効果、刑罰の抑止効果、さらには世界の危険性やあるいは新規事業の可能性に至るまでの多くの論争となっている。
 実在する世界は、人間の知性が容易に届く範囲内にはないという意味で十分に複雑である。だから、こういった対立は和解することなく、今後も続いてゆくことになるのだろう。