kurakenyaのつれづれ日記

ヘタレ リバタリアン 進化心理学 経済学

ベキダ⇔デアル、4章

さて今日は「ベキダデアル」の4章をアップします。


これは僕が書いたものの中でも興味深い記述だと思うので、
自然科学と社会科学の両方に興味がある人は、ぜひともご一読ください。
画像が抜け落ちてしまって申し訳ないですが、
別になくても、読めばどんなものが書いてあるかは自明です。


割と学術論文の引用も多いのですが、
参考文献は最終章の後に書いたので、
興味のある方は、すいませんが最終章を待って自分で確かめてみてください。


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4、右翼と左翼、タカハトゲーム

右翼と左翼の普遍性
 右翼・左翼という政治用語は、フランス革命の時代に始まる。議会の左側にジロンド派ジャコバン派などの平等を推し進めようとする平民派の代表が座り、右側には王に忠誠を誓う王党派が着座していたのだ。
 当時の政局は不安定で、国王ルイ16世は幽閉されて王権を停止されていた。その後のフランスが共和国となるのか、あるいは王国であり続けるのかすらも、誰にもはっきりとしていなかった。その後、王はオーストリアに逃亡しようとしたことから人々からの支持を失い、処刑された。
 また急進的なジャコバン派が政権を握り、粛清の嵐による恐怖政治を行ったことはよく知られている。彼らはキリスト教が王権と結びついてきたことをも糾弾し、キリストの生誕から始まるグレゴリウス暦に代わって革命歴を導入し、さらには「理性の宗教」という新しい信仰までも国民に強要した。
 それはつまり、「王家の伝統の維持というのはそもそも平等の理念とは根本的に相いれないものであり、キリスト教もまた同じ穴のムジナだ」とロベスピエールたちが考えたからだろう。彼らは、フランス人権宣言に謳われたように、人は自由、平等に生を受けているはずなのに、貴族や僧侶たちがその実現を阻んでいると感じたのだ。
 そこでの自由とは、キリスト教の多種多様な戒律からの自由、封建領主の多様な権利からの自由であった。そして平等とは、王や封建領主である貴族と平民とが、少なくとも法律的には同等の権利を持つことを意味していた。
 こうした左翼勢力は急進的な社会制度の改革を指向し、右翼はそれに反対する勢力として、王政を支持し、キリスト教道徳を守ろうとした。こうした右翼・左翼の主張は、その後の政治的なコンテクストによって常に変化してきたし、あるいは国によっても相当に異なった主張を含んできた。しかし、その対立の中心には常に、右翼の現状維持的・保守的な価値観と、左翼の平等主義的・進歩主義的・改革的な価値観の対立があったことは間違いない。
 もっともこの二つの思想の対立が深刻化していた時代は、一九四五年から90年までのいわゆる「冷戦」の時代だろう。この時代の右翼の盟主はアメリカであり、資本主義と自由、そしてキリスト教を理念とする資本主義的自由国家であった。
 左翼の盟主は、現在のロシアとなっている、今はなきソヴィエトであった。マルクス・レーニン主義を掲げたソヴィエトでは、農業も工業も国営集団化され、資本主義に特有の不平等は、ある程度克服されていたといえよう。反面、体制に反対する芸術家や科学者はシベリア送りになったり、あるいは西側に亡命を余儀なくされた。市民の自由な表現は許されないまま、政治体制は共産党による一党独裁制であり続けた。
 その後、冷戦は社会主義国の崩壊によって消滅した。そして、国家レベルでの右翼と左翼の対立は、ベルリンの壁の崩壊して以降は、はるかに穏健なものになった。第二次大戦後の先進国では、右翼的な政党でも必ずある程度の福祉政策を推し進めているし、左翼的な政党でも産業振興を目的とする政策を持っているのが普通である。
 20世紀を通じて進展した資本主義先進国の福祉国家化によって、かつてに比べると右翼的な政党と左翼的な政党との間には大きな違いがなくなってきている。とはいえ、今もアメリカでは、共和党民主党、フランスでは保守党と社会党、イギリスでは保守党と労働党、といったように、二つの異なる政治陣営はそれなりに明確な対立軸を持ちつつ、人々に政策を訴えかけ続けている。
 日本では、戦後長らく自民党社会党という対立がはっきりしていたが、現在の2大政党である自民党民主党では、その政策の保守・革新性、平等への訴求性などについての違いが明白ではない。おそらく左翼は小さな社民党共産党であると考え、自民・民主の両方が右翼的であり、それらが思想的に対抗している考える方がすっきりするだろう。
 もちろん、日本の保守というのは天皇を中心とする価値観を持っているが、欧米の保守というのはキリスト教的な価値観を持っているなど、子細に見れば、数多くの違いがある。しかし、右翼的な思考とは、それ以前から存在してきた伝統の重視であり、保守的な態度であると考えれば、こういった違いは本質的にそれほど大きなものではないのだろう。
 詳しくは後述するが、社会進歩と革新、平等をモットーとしている左翼にしても、実際には民族主義的な感情は右翼と同じ程度に強く持っている。歴史的な中ソの路線対立をはじめ、日本の共産党の食料自給率の向上の政策に見られるように、左翼が必ずしも国際協調一辺倒というわけではない。
 とはいえ、心理学の調査にあるように、左翼の人々は右翼的な人々に比べて、新しい考えを積極的に評価し、平和主義的であり、現実世界に対して楽観的であるようだ。とするなら、国際的な平和の維持のためには、権威主義的な精神性を持つ右翼民族主義者こそが警戒されるべきだというのは真実だろう。
 ここで注意すべきなのは、当然のことながら、実際の人間の性格というのは実に複層的、多面的なことだ。それを右翼・左翼の1次元に回帰するというのは、過度の単純化であるという見過ごせない問題点が生じてしまう。ほとんどの人は、右翼に典型的な主張に賛同しているわけでも、典型的な左翼の主張のすべてに納得しているわけでもないだろう。
 しかし、ここでの主張は、そういった過度の単純化の持つ問題点を差し引いても、こういった1次元的なものの見方の傾向性は、人間の活動や思考において実在しているようだということだ。そして、それに従って歴史や社会の分析にも有用だということである。


タカハト・ゲーム
 さて、ここまで右翼と左翼の歴史について簡単に解説してきたが、そもそもこういった政治的な態度の対立があるのはなぜなのだろうか? 仮にどちらかの考えを持つ個人が圧倒的に有利であって繁栄するのなら、長期的にはそちら側の考えだけが集団内に存在することになるはずである。
 もちろん抽象的には、右翼・左翼という現在の政治的なスペクトラムは一時的なものであり、長期的にどちらか一方に収斂してゆく途上にあるのだと考えることもできる。その場合、将来の均衡点では一方の意見のみが社会の通念となる。
 しかし、前章で書いたように、犯罪を行わないという道徳規範でさえも、それを持たない個人が逆に有利になるという場面が考えられる。その利点があるために、サイコパスは常に我々の社会に存在し続けているに違いない。
 もっと一般的に考えれば、ある特定の行動戦略が、別の行動戦略を圧倒して追い払ってしまうという状況だけでなく、二つ以上の行動戦略が、社会で拮抗し、頻度的に均衡しつつ存在するという状況があることが想像できる。
 生物学でもっとも初期に発表され、現代でも有名な行動戦略の均衡理論は、一九七三年にイギリス人のメイナード=スミスとアメリカ人のジョージ・プライスによって『ネイチャー』上に発表された「タカハト・ゲーム」だ。
 彼らの論文は学術的なものであり、論文内の数値などはもっと抽象的であったが、以下に、具体的な数値を入れた簡略化されたタカハト・ゲームを示してみよう。


                タカ         ハト


  (−1、−1)

 (0、4)


  (4、0)


 (2、2)


 AとBの2個体がいて、4の価値を持つエサをめぐって行動する。タカ戦略は、発見したエサをめぐって戦う。ハト戦略は相手が戦いを挑んでくれば逃げるが、そうでなければ、エサを分け合う。表の読み方は、個体Aの行動戦略が表の上に書いてあるタカとハトによって示されており、Bの行動戦略は表の左側に書いてあるタカとハトで示されている。
 Aがタカをとり、Bもタカをとれば、相互に戦いをすることになって、4のえさを得るためにお互いが傷ついてしまう。その結果、双方が−1の利得(損失)を得る。Aがタカをとって攻撃するのに対し、Bがハト戦略で逃げるという場合は、左下のマスに表れている。この場合、Aは4の利得を得るが、Bは逃げるだけなので0の利得である。
 右上のマスを見れば、Aがハト戦略をとり、Bがタカ戦略をとる場合は、両者の利得値が反対になることがわかる。最後に、AもBも両方がハト戦略をとる場合には、戦いは起こらず、エサは均分されるため、ともに2の利得を得ることになる。
 確かに、お互いが必ずハト戦略をとるのであれば、それなりに満足できる2という利得を双方が得ることができるだろう。しかし、相手がハト戦略をとることが分かっているのなら、こっちとしては、タカを行ったほうが有利である。そして、相手にとってもこの状況は同じであるので、どちらにとってもタカ戦略をとるインセンティブが発生することになる。
 この場合、純粋にタカ戦略をとるか、あるいはハト戦略をとるのかといっても、どちらも相手の戦略によっていい時もあれば、悪い時もあるので、うまく決定できない。しかし、ここで、タカとハトの戦略を一定頻度で混ぜるという混合戦略を許すなら、確率的な戦略としての均衡解が存在する。
 少しばかりの計算をすると、タカ戦略を2/3の確率でとり、ハト戦略を1/3の確率でとれば、これがベストの戦略になることがわかる。このとき、タカ戦略とハト戦略の期待的な利得値はともに2/3となり、どちらの戦略をとっても有利になることはないからだ。
 ここでよくよく考えてもらいたいことがある。ここで仮にAとBの両者からなる社会の総利益というものがあるとしよう。その値は当然にえさの値である4であり、これは両者が常にハト戦略をとることによって実現される。タカ戦略というのは、相手を攻撃して利益を得るものであるため、それが衝突した場合には、両方に大きく無意味な被害が生じてしまうからだ。
 この意味で、わずかでもタカ戦略をとるものがいれば、それは社会の利益をどれだけか損ねることになる。それでも、タカ戦略をとることは、個体にとっては最適なのであり、社会の利益は、そのまま個人の利益となるわけではないのである。
 さて、ここで示される均衡戦略は、進化ゲーム理論においてESS(Evolutionary Stable Strategy=進化的安定戦略)と呼ばれる。仮にタカハト戦略の比率を変えて挑戦してくる個体があったとしても、それに対しても期待的な利得において優越しているため、長期的に必ずこの点が均衡点として実現するという性質を持っている。
 このようなタカハトゲームでは確率的な混合戦略が均衡解をもつことは知られているが、必ずしもすべてのゲームがESSをもつわけではない。あるいは、ゲームの性質によっては、どちらか一方の行動だけが支配的になるということもある。タカハトゲームはこの点、安定な均衡を実現するため、社会内に複数の行動が安定的に存在する場合の、ベンチマーク的なモデルとなっているのである。
 私がここで生物学のタカハトゲームを例示したのは、人間社会の右翼と左翼がこれと同じような状況にあるのではないかと考えているからだ。つまり、どちらもがそれなりの利点と欠点をもって、拮抗対峙している状態なのだろうということである。

アドルノのFスケールと右翼の利点
 私がいつも政治的な論争について感じるのは、政治的な主張である右翼・左翼の思想についてどれだけあれこれ議論しても、ほとんど常に水掛け論に終わってしまうということだ。実際には、その主張者に対しての、直接的な個人攻撃に終始することがほとんどのようでもある。
 そういった繰り返される無意味な人格攻撃はさておき、このことをもう少し実証的に検討してみよう。まず右翼的、あるいは左翼的な人物たちの人格的な特徴がどのようなものであるのかを、心理学の研究から考えてみたい。
 第二次世界大戦における、ナチスホロコーストは多くの知識人に強い影響を与えた。後に『啓蒙の弁証法』を著してその名を世界に知られたテオドール・アドルノは、大戦中にフランクフルト大学からアメリカのバークレーに逃れていた。ユダヤ系の社会哲学者であったからなのだ。アドルノアメリカ滞在中に、ナチスに協力したドイツ人の人格に関する『権威主義的パーソナリティ』という著作を著した。
 その中で、ファシズムに傾倒しがちな人格、つまり右翼的な人格特性の判断尺度として、Fスケールを提唱したのである。後によく知られるようになったアドルノの思想が非常に抽象的であることからすると、こういった具体的・客観的な精神尺度の作成というのは、彼の業績としては、まさに異色である。
 このFスケールは全部で三〇問からなり、それらに対して「ひじょうに反対する」から「ひじょうに同意する」までの6段階で答える。「ひじょうに反対する」が1点で、「ほとんど反対する」が2点、「ある程度反対する」が3点、「ある程度同意する」が4点、「ほとんど同意する」が5点、「ひじょうに同意する」が6点、として配点がなされる。
 以下に、日本人への単純な質問としても比較的に適切なものだと思われる、最初の一〇問を抜き出してみよう。

1、権威への服従と尊敬は、子どもが学ぶべき最も重要な美徳である。

2、態度や素行、出自のよくない人々は、品位ある人たちとは一緒に暮らして行けない。

3、もし人々がおしゃべりをもっと減らして、もっと働けば生活はより豊かになる。

4、ビジネスマンや生産者というのは、社会において芸術家や大学教授よりもはるかに重要である。

5、科学は重要だが、人間の理解を超えた重要なことがたくさん存在する。

6、どんな人間でも、当人が疑問を感じることなく従ってしまうような超自然的な力に対しては、完全な信頼を持つべきである。

8、法律や政策などを超えてこの国がもっとも必要としているのは、人々が完全に信頼することのできるような、勇気があり、精力的で、献身的なリーダーである。

9、普通の正気でまともな人は、友人や親せきを傷つけようなどとは夢にも思わないものだ。

10、苦しみを通じてのみ、本当に重要なことを学ぶことができる。

11、若者にもっとも必要なことは、厳しい訓練と深い決断、そして家族と国家のために働き、戦う意志である。

さらに質問は続いてゆくのだが、これだけでも、これらの質問に対して非常に強く同意する人たちとは、保守的であり、権威や秩序を重視するタイプであることが了解されるだろう。
 アドルノ自身は、エーリッヒ・フロムその他の精神分析的の研究者から影響を受けて、このような人格は、権威に対する依存と自我の未発達によって起こると主張した。これは、いかにも当時流行っていた精神分析的な説明といった風である。
 しかし、私は精神分析という学問領域自体が、科学史上の重要な知的空想だったと考えている。よってここでは、この本の主題に沿った形でアドルノのFスケールを再解釈することにする。つまり、進化理論、ゲーム理論的な意味において、社会において保守的・権威主義的であることは、個人的レベルでの利点を持っていると考えるのだ。
 すでに社会内に強固なヒエラルキーが存在している場合、それを尊重し、上位者に認められて、その権威を維持・利用する立場につこうとすることには、明らかな合理性がある。例えば、伝統芸能の世界、あるいは各種の学会では、上位者の常識を理解して実践することは、出世においてほとんど不可欠な要素である。これが権威を無批判に受け入れ、それに従うという権威主義的な態度の下地となるのだろう。
 また、自分が慣れ親しんだ習慣や考え方が大事なのだと感じることにも理由がある。これまでそれなりに機能してきたものである以上は、それは受け継がれて当然であり、新しいものを試すのを嫌うこと自体が価値を持ち得る。これは、生活態度全般における保守的な態度と結びつくだろうし、あるいは自分と異なる人々に対する忌避感、よそ者嫌いにつながる。
 Fスケールには、これに直接的に関連する質問群がある。

16、同性愛者は犯罪者とほとんど同じものであり、強く罰されるべきである。

26、人間の本性が同じである限り、戦争や紛争はなくならないだろう。

28、今日では、これほどたくさんの異なった人々が行き来し、国際結婚しているのであるから、そういった人たちからの伝染病に対しては特に注意する必要がある。


 現代の常識からすると28番は少し奇妙に聞こえるかもしれない。しかし、20世紀の医学が登場する以前は、感染症は常に人間にとって死亡原因の第一の地位を占めていた。中世や近代の歴史を見れば、中緯度にあるヨーロッパや日本でも、天然痘マラリア、麻疹、結核コレラ、ペストなどが大流行していることがわかる。このことからすれば、よそ者は自分に危害を加えると考え、生来的な危険を感じるのは、今の常識から考えるほどに不思議な発想ではない。
 また別の例を引くなら、日本人や韓国人が恐れている、アメリカ産牛肉のBSE問題がある。日本国内の牛からもBSEは見つかっており、そのために中国政府などは日本産の牛肉を輸入禁止にしている。それでもほとんどの日本人は、自国産の方が中国産よりも食品全般に関して安全だと感じている。
 こういった排外感情というのは、理性的なものというよりは、ほとんど裸の本能そのものだ。ヨーロッパや日本の遺伝子組換え作物の輸入禁止を始めとして、ほとんどすべての国でこういった「国産品」消費運動が存在するのである。
 あるいは、そういった国産主義は〈スローライフ〉という精神主義的なスローガンをとることもあるし、もっと物質主義的に安全性を掲げる場合もある。どちらにしても、こうした左翼的な環境主義者の主張でさえも、安全性についての科学的な懸念というよりは、実のところは単なる排外主義であることが多い。外国で暮らしていた私にとっては、こういったことは驚きであり続けている。
 ちなみに私は、26番には「ある程度反対する」というほどの態度だが、16番には「ひじょうに反対する」し、28番にも「ひじょうに反対する」。私の場合、平均スコアは約2.5であったが、これは権威主義からは相当に離れている。それでも私の選好を個別的に見れば、例えば「犯罪に対する厳罰主義」などは極端な権威主義者と同じであったのは興味深い。ネット上にもFスケールを図ってくれるサイトがあり、参考文献に示したので、読者諸氏にもぜひとも試してもらいたい。
 さて、保守主義というのはある種の生活戦略である。〈保守〉というのはそれまでに続けてきた生活態度を継続することであるから、実際の具体的な生活態度としては、時間と空間によって異なった生活態度を意味することになってしまう。
 日本に生まれれば、保守というのは天皇への忠誠であっただろうし、ヤオロズの神への信心でもあっただろう、また今でも神社やお寺への参りを意味するに違いない。西欧諸国では、教会での祈りを意味するだろうし、イスラム諸国ではモスクでのメッカに向かっての祈りになるだろう。
 当然ながら、よそ者嫌いの意味は中国人と日本人では、相互に相手への差別や侮蔑を意味する。あるいは現在の日本の保守というのは地方の農家に多いかもしれないが、30年後に農家が激減してしまうとすれば、あるいはその時の保守というのは都市住民となるかもしれない。あるいは今後、有機農業をするために都市から地方に移り住む人たちが農村を支えるのであれば、――私はこのシナリオをあまり信じていないが―― 地方の住民はむしろ革新的なメンタリティを持つようになるかもしれない。


民族主義と遺伝的近似性理論
 右翼といえば、保守であると同時に、自民族中心主義であることも常識となっている。共通の神話や文化を持つロマン主義的な民族主義の高まりは、19世紀以降、多くの国々での独立戦争につながってきた。
 現在においても、中国を支配する漢民族とは異なった民族が多いチベット自治区ウイグル自治区では、独立運動が盛んで、テロや暴動が発生してする。ロシアでも、アブハジア自治区、さらにグルジア内には南オセチア自治州などで、多くの紛争事件やテロリズムが続いている。
 一九九〇年代は、旧ユーゴスラヴィアの解体に際して、セルビア人勢力による多くの集団虐殺や民族浄化が起こり、すでに戦争を長らく経験していないヨーロッパ人を驚かせた。アフリカでも、ルワンダツチ族フツ族の対立が起こり、鉱物資源をめぐる内戦はシエラレオネアンゴラでも悲惨な状況を現出した。スーダンの南西部ダルフール地方では、今でもアラブ系、アフリカ系の紛争が続いている。
 こういった民族という概念は、一般には純粋に歴史的・文化的なものだと考えられることもあるが、多くの場合はヒト集団内の遺伝子頻度の差として記述することができる。遺伝学者のカヴァルリ・スフォルツアの研究によれば、民族区分と関係の深い言語区分もまた、集団の遺伝的な勾配と相関関係がある。
 これはある種当たり前のことで、人間は昔から集団を作って生活してきたのだから、互いに利益が衝突することは避けられなかっただろう。その場合、戦争をすることもあれば、同盟関係によって助け合うこともあったはずだ。遺伝的に類似した特性を持つ人々は、その祖先を共通にする可能性が高いのである。当然、言語も似ていることが多く、体の物理的な特徴も似ている結果、仲間としてふるまい行動は進化するだろう。
 純粋に遺伝子の視点から考えれば、自分が作り出した個体と似ている個体は、自分と同じ遺伝子によって作り出されたものである可能性が高い。よって、単純にそれだけの理由から、彼や彼女を助ける必然性が生じるのである。
 例えば、日本人とは、朝鮮半島や中国大陸沿岸部から渡ってきた人々と、それ以前に住んでいた縄文系の人々が、およそ二〇〇〇年ほどをかけて混血してできた民族である。25年で1世代が経過してきたとすると、わずか五〇〇年前の私の祖先の数は2の20乗、つまり百万人になる。つまり、その4倍の二〇〇〇年とは、ほとんど完全な混血に十分な時間の長さなのだ。歴史時代に日本に入り込んできた移民の数の少なさを考えると、日本人はなるほどある程度の民族的な一体感となっているといえるかもしれない。
 それでも遺伝子研究を仔細にみると、九州北部から瀬戸内、畿内から琵琶湖沿岸にかけての日本人は、朝鮮半島南部の人と近縁であるようだ。おそらく彼らが弥生人の血を強くひいており、東海以東の縄文人の遺伝子頻度とは違っているのだろう。九州南部や東北、飛騨などでは縄文頻度がより高く、沖縄やアイヌはもっと縄文人の原型に近いようだ。
 遺伝子だけを重視するというわけではないが、朝鮮半島の人々や中国大陸の人々と日本人の遺伝子頻度には、それなりの統計的な差が存在する。日本人を作り出している遺伝子の立場からすれば、日本人はともに助け合うべきだ。それによって、自分という遺伝子の増殖率が上がるだろうからである。
 どんな人でも家族、特に自分の子供をヒイキ目に見るし、あるいは親戚びいき=ネポティズムも広くどのような社会にも見られる。それをもっと広範な集団レベルにしたのが、自民族中心主義だ。
 こういった考えは、19世紀のダーウィンからスペンサー、最近ではエドワード・ウィルソンに至るまで、多くの理論家が指摘してきた。彼らの指摘の通り、最近のプローミンなどによる双生児研究によれば、養子のきょうだいよりも、生物的なきょうだいの方が、よく似た人格の友人とつきあっているのだ。
 例えば、ハワイでの異なった民族間の婚姻を扱った調査によれば、そうした異民族間のカップルは同じ民族間のカップルよりも人格的に似ているという。また、カナダの心理学者フィリップ・ラシュトンたちの研究によれば、友人同士や配偶者同士は血液型タイプの遺伝的な類似性が、通常の関係よりも有意に高い。
 つまり、人間は自分に似た遺伝子を持つ異性と配偶関係にあることが多いのである。このように、似た者同士が結婚しているという現象はアソータティヴ・メイティング(同種配偶、同型配偶)と呼ばれる。典型的な例としては、背の高い男女はともに一緒にいることが普通だし、学歴の高い男女は一緒になっていることがある。こういった程度のことは、おそらく誰にとっても明白だろう。
 もっと興味深いのは、より詳しい研究によれば、こういったアソータティヴ・メイティングの度合いは、言葉遣いや慣習のように環境によって変化しやすい性質よりも、論理や空間認知などのように遺伝性の強い性質についての方が、より高いことだ。おそらく、我々の好みというのは、我々を作り出している遺伝子の繁栄にとって都合が良くなるように、遺伝的な資質から無意識のうちに大きな影響を受けているということなのだろう。
 しかし、こうした同類好みにはその代償もある。動植物の近親交配は、悪性の劣性遺伝子のホモ結合につながることも多いため、過度に近親度の高い配偶は好まれないのが普通だ。例えば、親子や兄弟の婚姻は、古代エジプト王家のような例外を除いて、ほとんどすべての社会でタブーとなっている。
 戦前の日本や、あるいはいくつかの太平洋の島々では、あまりにも近すぎないが完全なよそ者でもないということで、イトコ婚が好まれたようである。イトコ婚の慣習については、実際に私の親戚でも、かつてはそういう例があったと聞いている。
 しかし、統計の発達した現代の遺伝学の知見からすると、イトコ婚では精神遅滞などが発生する頻度がどれだけか上がってしまうことになる。また、身体的にも虚弱であったり、身長が低かったりすることも多い。つまりイトコ同士の近親度では、個体のレベルでの適応度を、統計的なレベルではあっても、平均よりもわずかに下げてしまうということなのだ。
 よそ者嫌いからは近親交配が引き起こされ、近親交配が不利益を持つとしよう。その場合、その不利益は何によって補償されてきたのだろうか?
 ヒトの男が集団で戦争を行い、常に集団間で相互に殺りくを続けてきたことを考えると、戦争の頻度が高ければ高いほど、よそ者嫌い、あるいは自民族中心主義によって強い結束を誇る大きな戦闘集団は有利になる。
 おそらく、我々は自民族中心主義によって発生する近親交配の不利益を、戦争での結束の強さによって打ち消したのだろう。また、遺伝的にまったく違った相手との戦争では、似た者同士の戦争よりも、さらに敵を強く憎しみ、冷酷かつ残虐になれたのに違いない。
 ヨーロッパ人は中世以降、アフリカ人を奴隷として利用してきた。しかし私の知識では、古代ギリシア時代以降、ヨーロッパ人自身は互いに奴隷にし合っていたということはない。誰でも自分と異なる特徴を持つものであればあるほど、相手への共感を容易に失い、人間ではなくモノとして扱うことができるのだろう。


新奇性の追及と左翼の利点
 右翼の本質は、変わらない生活を望むという保守主義である。ニューヨーク大学のジョン・ジョストを中心とする最近の心理学的な研究によれば、その反対に、左翼の本質は〈新しいものやことへの興味〉にあるという。
 心理学では、人間の人格の5大特性として、1、新奇性の追求=開放性、2、勤勉さ、3、内向性・外向性、4、協調性、5、神経質的傾向、をあげることが普通である。左翼的な人々とは、つまり進歩主義的な人なのだが、ジョストらの研究によれば、進歩主義者は新奇性の追求を好む傾向がある。つまり、科学的にも政治的にも新しい概念や制度に対して、より寛容で開かれた心を持っているのだ。
 こういった知的な好奇心が持っている利点は、現代のような知識産業が重要な社会では説明するまでもないが、過去の人間の生活においても明らかだ。それは、新しい食べ物や薬を発見したり、あるいは新世界への移住を可能にしたはずだからである。
 過去と同じことを繰り返していたのでは、新しい知識は得られないし、居住可能な空間も、いずれは人でいっぱいになってしまう。そこで、新たな知識を獲得して食糧を増産したり、あるいは新天地への移民などを可能にするようなメンタリティは、過去の人間の歴史の中で十分な利益を当事者にもたらしたに違いない。
 また進歩主義的な人は、複雑な事態をそのままに理解しようとする傾向を持つのに対して、保守的な人は単純に善悪の二元論に分けようとする。こうした心理特性の差はまた、大学卒業後の研究を望むかどうかにも影響を与えるようだ。
 アメリカの大学の知的な風土では、教授や大学院生には進歩主義者が多いといわれている。これはおそらくすべての社会に当てはまる性質だろう。知的な興味が高く、複雑なことをもっと知りたいと思うような人格は、過去の制度に拘泥しない精神性を意味している。
 企業文化についても、これは当てはまるだろう。グーグルやサン・マイクロシステムズを始めとするシリコン・ヴァレーの企業の多くには、スタンフォード大学からスピンオフしたという経緯がある。そのため、全体に進歩主義的な企業カラーを持ち、スーツを着る必要がないというように、ドレスコードも緩やかである。また、グーグルの研究者のほとんどが博士号をもっていることや、創始者ラリー・ページが太陽光発電風力発電に積極的なことなどはよく知られている。こういった企業風土は、本当にアメリカの大学院生の作り出した企業といった感がある。
 左翼主義者たちが、新奇性の好きな人たちであるというのは、多くの人にとって納得できるだろう。しかし、左翼的人格の持ち主は、社会での平等を重視するという調査結果も同時にはっきりしている。
 保守的・権威主義的な性格とは、すでに存在する社会階層をそのまま批判することなく受け入れ、その階段を上ろうとするメンタリティである。既存の社会階層を承継しつつ、その階段を昇るという方法がオーソドックスなものであるのは誰にとっても明らかだが、その代償には遅すぎる昇進があるだろう。あるいは予想通りに昇進しつつあったとしても、大願成就する前に事故や病気で死んでしまうかもしれない。
 これに対して、左翼の特徴は、そういった階層状態の存在そのものの懐疑であったり、あるいは価値的な完全否定なのである。戦国時代でも、織田信長のように実力が伴っていて幕府の権威を否定すれば、少なくとも実力を高めるのにはてっとり早い。彼は天皇の権威まで否定しようとしたために明智光秀に殺された。これも事実ではあるが、一般に明白な実力者にとっては、既存の権威の否定はより迅速な昇進を可能にするだろう。
 これは学問の世界でも同じである。老教授のいうことを聞いて、カバン持ちをしているような研究者も多いのは事実だ。だが、まったく新しい発想を花開かせることができるような実力を持つ学者の方が、最終的にはその影響力を高めることもまた、頻繁に起こっている。指導教授と同じことを手堅く行うか、あるいは新しい考えに賭けてみるかは、本人の能力や、その世界における抽象的な成功の機会に頻度依存する行動戦略だと考えられよう。
 現代世界の政党政治の枠組みでは、既存の権威への批判とは反資本主義的なものになるのだろう。先ほど紹介したFスケールを考案したアドルノはホルクハイマーやハーバーマスたちとともに、フランクフルト学派を隆盛に導いた。その「批判理論」はマルクスの影響を受けたものであるが、戦後の西側諸国での反資本主義的な学生運動に大きな影響を与えたことは広く知られている。
 既存の社会階層への懐疑や批判は、多くの場合、偶然の要素を重視することにつながり、結果の平等主義につながるのかもしれない。その反対に、社会階層が本当の実力によって完全に裏打ちされた合理性を内包したものであるなら、そういった社会秩序に対する批判は弱いものになってしまう。
 社会構造に批判的な考えを持つ人は、政治的な主張としては、現存の秩序の理不尽を訴え、平等主義を掲げるべきだろう。それによって、現在の社会構造から不利益を被っている人たちからの支持を取り付けて、自分たちがリーダーになるのが賢明だ。
 政治構造の中で主流派を形成している人たちは、その状態に満足しているだろうから、保守となる。これに対して、少数派を形成している人は不満があるだろう。そして、少数派も複数の流れを集めれば、むしろ多数派を凌駕する数になることは多い。だから、平等主義は、政治的な多数派に対するアンチ・テーゼとなる。よって、既存の体制に批判的な人には、平等主義を掲げる実際的な利点がある。
 もちろん、私は進歩的な知識人が、意図的に平等主義を選択しているとまで主張しているわけではない。そういうことも実際には多いのかもしれないが、私の興味は常に、進化的な時間軸での、人間心理と行動の発達にある。知的に開放的な個人は体制に対して懐疑的であり、同時に平等主義的な思想を持つとするなら、進化によってこれらの二つの性質を一緒に発達させるような個体の方が、そうでない個体よりも有利だったからに違いない。


遺伝的多様性と雑種強勢
 保守的な思考は、よそ者嫌いの感覚をうみ出してネポティズムによる有利性をもつ。その反面、新しい物好きな人々は、異なったタイプの人と結婚したりすることを忌避しない。そのため、病原菌に対抗するための、ヒト白血球抗原(HLA)のタイプの多様性を獲得してきたはずである。
 HLAタイプとは、ヒトの免疫タイプであるが、これは、もっと一般的に脊椎動物が持っている免疫タイプと同じものである。通常、血液型はABOの赤血球タイプによる分類がもっともよく知られているが、赤血球の代わりに病原菌などの外敵に対抗する白血球のタイプがHLAタイプなのだと考えれば分かりやすいだろう。
 ヒトのような大型の動物の進化の歴史は、同時に病原菌との闘いであった。そのため、HLAタイプは、チンパンジーやゴリラと共通の祖先をもっていた一〇〇〇万年以上前にも遡ることができるほどである。つまり、我々の共通祖先の時代にはすでに、同じように異なったHLAタイプが存在していたということである。
 病原菌耐性の重要性は、例えばコロンブス以降の、ヨーロッパ人のアメリカ大陸移住の結果に明らかである。ユーラシア大陸の多様な病原菌がアメリカ大陸もたらされた結果、アメリカ・インディアンの多くが新たな病原菌に耐えられず、その人口は実に10%にまで激減してしまった。
 ジャレッド・ダイヤモンドによる名著『銃・病原菌、鉄』によれば、「二千万人だったメキシコの人口は、天然痘の流行によって一六一八年には百六十万人にまで激減していたのである」という。
 また彼は続けて、

 「私が子供の頃、アメリカの学校では、約一〇〇万人のアメリカ先住民が北米で暮らしていたと教えられていた。そうだとすれば、ほとんど無人状態だった広大な土地に白人が住みついたということになる。一〇〇万人は、白人によるアメリカ大陸の制服を正当化するには好都合な数字だった。しかし、最近の遺跡の調査研究の結果や、初期のヨーロッパ人探検家が残した沿岸地方の記録は、当時のアメリカ大陸には約二〇〇〇万人の先住民が暮らしていたことを示唆している。コロンブスアメリカ大陸発見以降、二〇〇年もたたないうちに、先住民の人口は九五パーセントも減少してしまったことが推定されるのである。」

と記している。
 同じように、コロンブスが来た時には八〇〇万人もいたハイチとドミニカの人口は一五三五年にはゼロになっている。フィジー諸島では麻疹によって四分の一が死亡しており、ハワイでも梅毒、淋病、結核、インフルエンザ、腸チフスなどによって五〇万人が八万四〇〇〇人へと激減しているのだ。
 ユーラシア大陸は広く、牛や豚、アヒルや鶏など、多くの家畜がいた。人口が増えて、ヒトが都市に稠密に生きるようになると、それぞれの家畜に固有の病原菌が突然変異を起こし、ヒトに感染するようになった。こういった病気は、麻疹、結核天然痘、インフルエンザ、マラリアなど、ヒトの生死にとって重要な病気のほとんどを占めている。
 ユーラシア大陸では、一万年以上にもわたって、こういった病気の散発的な流行を通じて人々は病原菌体制を得てきた。しかし、アメリカ大陸や、大陸から隔離されていた諸島域では、ヨーロッパ人によって突然もたらされた病原菌によって、人口の大部分が失われたということなのだ。
 ヒトの病原菌耐性や、それを支える遺伝的な多様性のもつ重要性は、ワクチンが開発されている現代に生きる我々が今日感じているいる以上に大きかったのだ。よそ者との結婚には重大な利点があり、異なった文化や人々への興味や憧れは、新しい物好きとなって我々の心に根付いているのだろう。
 人間は、自分と異なったHLAタイプを好むという実験もある。「Tシャツ実験」と呼ばれる有名な実験では、女性に男性の着たTシャツに臭いを嗅いでもらい、それを好ましいかを評価してもらった。女性が好む匂いは、自分とは異なったHLAタイプの男性の臭いであった。
 このことは、少なくとも免疫に関しては、人間は自分と異なったタイプの人に惹かれることを示している。それは進化の過程で、子どもの免疫の多様性を高めると言う意味で有利であったからであろう。
  こういった病原耐性という理由のほかにも、系統の大きく異なる集団の混血の子どもは、ヘテローシス(雑種強勢)の利益を受けているはずである。
 前述したように、過度の近親交配は、不利益な遺伝的劣性遺伝形質のホモ結合をまねくことが多いため、有害であることが多い。これに対して、育種学から明らかになっているように、異なった系統の交配によって、親世代よりも大きく、強く、病原菌耐性の高い子ども世代を作ることができることが多い。
 これはヒトに対しても、当てはまるはずである。混血の個人は、大きく異なった系統から来た有益な対立遺伝子を持っている可能性が高いため、より快活で、各種の疫病に対して耐性が強いだろう。
 私は、ヒト集団におけるヘテローシスについての論文を読んだことはない。しかし、前述したようにイトコ婚などの近親婚にはマイナスの遺伝的な影響があることからは、混血の場合にはヘテローシスが生じていることになる。
 例えば、黒人初のアメリカ大統領に選ばれたバラック・オバマは、父がケニア人、母がスウェーデンアメリカ人であり、遺伝的には白人と黒人のハーフである。彼はハーヴァード大学のロー・スクール在学時代に、名誉あるハーヴァード・ロー・レヴューの編集長を務めている。
 また、ゴルフのタイガー・ウッズもまた、アメリカでは広く黒人というくくりで表現されるが、彼の父はアメリカの黒人であり、母は中国系のタイ人であることからすると、相当に多様な集団の混血である。多くの記録を塗り替えつつあるその強さは、ある程度ヘテローシスから来ているのかもしれない。


保守的な性生活 VS 性の解放
 保守主義に典型的な主張によれば、特定の異性に対してのみ性的な関係は持たれるべきものであるだろう。また、おそらくホモセクシュアルについては、多くの保守主義者は否定的だろう。配偶相手を限定するというのは別にアジアなどに限った話ではなくて、キリスト教を基調とするヨーロッパ文化でも同じであるし、ホモセクシュアリティについては日本以上に偏見がある。
 日本の芸能界では、おすぎとピーコや、槇原則之、刈谷崎省吾、IKKOなど、非常に多くがゲイであることを事実上公言して、女性的なトークによって人気を博している。しかし、西洋文化でそういった人々が好感をもたれるかは大いに疑問である。
 さて 戦後のアメリカでおこった興味深いリベラリズム運動の中には、女性の解放、黒人の解放をはじめ、様々なものがあった。その中には「性の解放」を謳ったフリーセックス・ムーブメントもあった。今では単なるエロ本のイメージ以上の認識を持っている人はほとんどいないかもしれないが、『プレイボーイ』などの雑誌はそれなりの高尚な政治的な背景を持って生まれてきたのだ。
 そういったアメリカ的な意味での「リベラル」な論者によると、性的な抑圧というのは本来的に無意味な禁欲主義であり、性的にもっと開放的に生きることは、人間的なのであり悪徳などとされるべきではないという。キリスト教道徳その他のほとんどの宗教では、禁欲的であるというのは重要な徳目であるから、これは反宗教運動であっともいえるだろう。
 こういった性の解放運動は、現代の科学的な視点からはどのように考えられるのだろうか?
 前述したように、保守主義というのはつまり同類同士での繁栄を確保し、よそ者を排除しようという考えである。このライフスタイルからすると、もともと子孫の多様性を求める必要性は低いために、多人数との性交渉は感染症の危険を持つリスキーな行為だということになる。
 とすれば、比較的に多人数との性関係は持たないようにするべきだろう。おそらく、こういった繁殖戦略の違いが、保守主義者が性的に禁欲的で、開放的な性生活を〈堕落〉であるとみなす心理的な傾向を生み出しているのだ。
 私は自由主義者なので、自分がかかわるかどうかは別にして、少なくとも高校生以上が援助交際することであっても、合意があれば構わないと考えている。当然に大人の関係については、金銭取引があっても、あるいは同性愛でもまったく問題はないと思う。
 しかし、不思議なことに、自由の国だと思われているアメリカの多くの州では、売買春は禁止されている。これはキリスト教的な保守主義者が、売春行為や同性愛行為が社会にはびこることを望まないためである。
 ちなみに同性愛者の男性では、その性交渉の頻度は極端に高く、かつ、不特定多数の異なったパートナーと関係を持つのが普通である。これは、異性愛の通常人の多くにとっては、想像できない人数になる。この意味では、彼らがエイズなどの性感染症に高い罹患率を持つのは必然的だ。
 昔から人間社会には梅毒、淋病、ヘルペスエイズまで、多くの性感染症が存在してきた。夫や妻などの長期的な配偶関係から行きずりの関係まで含めて、社会における性交渉が頻繁であればある程、自分の罹患リスクも上がり、繁殖能力にも問題が出る可能性が高まってしまう。
 だとすると、できるだけそういった開放的な性生活をしないように人々に強制するのは、だれにとっても自分に有利になる。ある意味で、性感染症の蔓延とは、囚人のディレンマ状況なのだといえるだろう。皆が禁欲的であれば、社会全体として大きな利益が享受できるが、個人がこれを順守することには小さな不利益を伴ってしまう。これが保守主義者の性道徳の押し付けが、道徳として他人に押し付けられる理由なのだ。
 さて、リベラリズムとはつまり伝統的・宗教的な権威への挑戦でもあるのだが、現代のように性感染症のほとんどが撲滅された社会では、不必要な性的禁欲を強いている社会勢力への挑戦ともなる。これがフリーセックス運動だったのだ。
 ところで、男性は多くの女性と関係するすることを望むが、一般に女性はそうではない。妊娠することによって子育ての不利益を受け持つのは、主に女だからである。また女はあまり数多くの男と関係を持つことよりも、育児を助けてくれそうな、あるいは遺伝的に優れた男と関係を持った方が有利となるからでもある。
 これは、できるだけ多くの女に、自分の子供を産んで育ててもらいたいという、男の究極の欲求とは一致しない。フリーセックス運動は現在では完全に消滅したが、それは男女に同じように一致した精神的な利益をもたらさなかったからだ。
 リベラルな人は新奇性を求める傾向があるため、自分と違うタイプの人をあまり避けたりしない。また、おそらく遺伝的な多様性を持って、疫病に対処してきたタイプであると考えられる。だから、傾向的にはより多くの性的なパートナーを持っているだろう。
 後述するように、ドーパミン・レセプターD4DRの繰り返しが多い遺伝子を持つ人は、新奇性を追求する度合いが高い。そして報告によれば、そういった人たちはより多くの相手と性交渉ををもっている。
 それだけではない。同性愛の男性でも、5-6倍の頻度で異性とも性交渉をしているのである。こういった性活動の多様性は、当然に保守的な道徳とは対立するし、西洋医学とワクチンが発達する以前は性感染症のリスクを高めていただろう。
 現代でこそ、禁欲的である必要性はまったく存在しないかもしれないが、人類の歴史を通じて、禁欲的であることには感染症リスクの低減という利益が伴った。我々の生得的な心理機構は、環境が激変しても、わずか一〇〇年では大きく変わらないのだ。
 また、保守的な人々は離婚を経験した人に対して、〈離婚経験者〉のラベルを張って、それを望ましくないと考えがちだ。対してリベラルの発想では、壊れた関係を続けるよりも、新しい関係を探した方がずっと健全だと考える。
 ちなみに、この考えは典型的に現代アメリカ人の採用する考え方である。だが、こういった規範面からの認識の違いは、母子家庭の子供への共感や同情などに対する態度の違いも生むことになっているに違いない。
 同じことは、エイズなどの性感染症についても当てはまる。血友病に起因するエイズ患者などを除けば、おそらくエイズ患者への偏見は、保守的な性道徳を持つ人々の間ではほとんど必然的なものだ。なぜなら、エイズ患者の多くは、結局、自発的なリスク行為の結果として感染している。保守的な認識からすれば、そこには偶然の要素もあるが、つまるところは自分の行為の結果なのだ。自分で責任を取らなければならないことになる。
 一言付け加えるなら、これは論理の半分でしかない。例えば、スキーやスケート、その他ほとんどすべてのスポーツには、多様なリスクがある。そういったスポーツから障害を負い、身体障害者になったとしても、保守主義者はエイズ患者に比べれば、はるかに同情的だろうと思う。
 つまり保守主義者には、、まず最初に性的な活動への禁忌意識というものがある。それに違反した結果、不利益を被ったというのは、当然の報いであっても、同情の余地などないということなのだ。
 繰り返しておくが、私は自由奔放な性活動にも、取り立てて指弾すべきような道徳的な問題はないと感じている。人は皆、自分が選んだ価値観にしたがって生きればいい。他人にプライベートなことの作為・不作為を道徳的をベキダをあてはめるのは、余計なお世話であり他人の自由への越権行為というべきである。
 最後に、性というデリケートな問題を論じるときの常として、大いに注意してもらいたいことがある。それはまず、ここでの議論がひじょうに小さな傾向的な差について語っているという点である。本書で論じているのは、小さな、しかし統計的に優位な差異であり、ステレオタイプ的に人へのレッテル貼りまでも正当化するものではない。
 次に、そもそも性的に開放的な人々への社会的な軽蔑があるとするなら、それ自体が再考されるべきことだという点である。ヒトに近縁のアフリカのボノボは、同性・異性を問わず頻繁に性行為をして、それによって友好関係を築き、社会の平和と安定を保つ。チンパンジーの場合、ボノボほどではないが、少なくとも異性間では乱婚的である。
 ヒトの社会で、現在主流となっている一夫一婦制が進化したのには、いくつもの理由があったと考えられている。だが自然界を見れば、一夫一妻であるべき自然主義的な必然性などはない。単に繁殖上の利点が存在したため、我々の心の中に、一夫一婦制や貞節、離婚の忌避などの「道徳観」や「善悪観」が進化してきただけなのだ。


離婚、愛着とヴァソプレッシン
 保守主義者の主張の一つには、子どものため、あるいは本人のために「離婚するべきではない」というものがある。私は、このベキダに対して特に共感を感じることもないが、逆に否定するほどの感情も持っていない。本音のところ、個人の人生観、あるいは配偶行動の違いなのだろう程度の興味しか持っていない。しかし、だからこそ知的に興味深い知識も存在する。
 サンガクハタネズミとプレーリーハタネズミは近縁種であるにもかかわらず、プレーリーハタネズミは一夫一婦的であり、子どもの養育も両親で行うが、サンガクハタネズミはつがいをつくらず、子どもの養育も母親が短期間行うだけである。このことは、一九九〇年代には、生物学者の間では広く知られていた。
 さて一九八〇年代の終わり、国立精神衛生研究所のトム・インゼルは、ヴァソプレッシンとオキシトシンという、わずかにアミノ酸配列のみが異なる二つのホルモンが、ラットの愛情行動の多寡に大きな影響を与えていることを確かめていた。この二つのホルモンは性交時に多く分泌される、〈愛着〉形成物質だといえるだろう。
 これらの事実からインゼルは、オキシトシンとヴァソプレッシンの受容体の分布がプレーリーハタネズミとサンガクハタネズミでは異なっているのだろうと予測した。その通り、92年の論文では、プレーリーハタネズミのヴァソプレッシン受容体の分布は、サンガクハタネズミよりも多いという発見が報告された。
 これの結果は、レトロ・ウイルスを使った遺伝子の導入によって、ヴァソプレッシン受容体の発現頻度を高めた実験でも確かめられている。「遺伝子治療」によって、サンガクハタネズミにつがい行動を採らせることに成功しているのだ。
 ここまで話が進むと、このホルモンの働きが人間行動にも重要な役割を果たしているだろうということは、容易に推測される。2002年には、神経経済学者のポール・ザクらは、オキシトシンの量が多いほど、囚人のディレンマ状況にあるプレイヤーの相手への信頼度が高まることを確かめた。
 ザクはさらに、オキシトシンを径鼻投与することによって、ゲーム状況においての相手プレイヤーへの一般的な信頼度が上昇することまで報告している。また、オキシトシンの体内濃度が高ければ高いほど経済取引を促進し、国民経済の繁栄を促すことになるのだという国際比較を行った論文も書いている。
 この考えに対して、私はそれほど強く同感していないが、ともかくも人間の神経基盤的な相違が、社会現象というマクロな違いを説明するという、単純な還元主義には強い共感を抱いている。
 さて、ハタネズミのつがい行動がヴァソプレッシンによって予測されるのであれば、人間の場合でも、経済行動などよりも結婚や離婚などについての活動の方が強く関係していると考えるのが自然である。90年代から議論されていたこの話題は、二〇〇八年に入って、スウェーデンカロリンスカ研究所とイェール大学との共同研究によって肯定的に確かめられた。
 スウェーデン人の成人約二〇〇〇人について、第12染色体上にある、アルギニン・ヴァソプレッシン受容体を作るAVPR1A遺伝子を調べた結果が報告された。男性についてはこの遺伝子が334と呼ばれる型である場合、ヴァソプレッシン受容体が少なく、パートナーへの愛着の度合いが低いことが分かっている。このヴァソプレッシン受容体を作らない遺伝子がホモ結合している場合、結婚せずに同居している確率が32%、過去一年間に離婚や別離の危機を経験した確率が34%であった。これらの数値は、334以外の型のホモ結合の場合の、それぞれ17%、15%に比べると、約2倍となっていた。
 また妻から不満を持たれている割合も高いことからすると、あまり愛妻家といったタイプではないのだろう。女性ではこういった違いがはっきりしないというのも興味深い事実であり、詳しい経路分析も含めて、今後のさらなる研究が待たれる。
 もともと、社会学研究では、離婚をした両親の子どもは高い確率で離婚をすることが知られているが、通常これは、両親の離婚によるストレス、あるいはロール・モデルの学習などのせいであると説明される。しかし、学術的な双子研究からは、おそらく離婚の遺伝率は30−40%に上ると推定されていた。
 離婚や別居というのは、自分と相手の魅力や不倫、失業、子どものしつけをめぐる不和、など多くの原因によるものであることは疑いない。とはいえ、結局、不和に折り合いをつけながら一緒に暮らし続けるか、あるいは別れるのかは、パートナーへの愛着形成の遺伝的な傾向も無視できない要因なのだろう。
 ジョキンたちによる人格研究でも、危険回避の傾向や伝統の尊重といった保守的な人格要因は、離婚をしないことにつながっていることが報告されている。この研究などとも併せて話を単純化していえば、離婚という行為もヒトの自然な配偶戦略であり、新奇性を追求するタイプは相手に飽きて、比較的離婚に踏み切るやすいような心理を持っている。その反対に、保守的なタイプは単婚的であり、離婚をタブー視しがちだということなるだろう。


右翼と左翼は部屋にあるものから違う
 ジョストたちの研究からは、右翼と左翼の人々は、政治的な信条だけでなく、もっと人格的な違いや、あるいは些細な違いまで存在することが明らかになっている。
 まず人格的な特性については、右翼的な人は標準的な人々よりも勤勉である。これには、一体どういう意味があるのだろうか。私の単純な考えでは、既存の秩序の中では、勤勉ではない人は昇進することが難しいだろうというものだ。
 ある人が、既存の社会秩序を肯定し、それを受け入れるメンタリティを持っているとしよう。その前提で、人生を成功させるためには、人よりも規範に従って勤勉であることが求められる。よって、保守性と勤勉性は進化的に同時に発達するに違いない。
 権威主義者はまた、「世の中には勝者と敗者しかいない」というような考えに同意しがちであるとされる。そうだとすれば、勤勉に努力を重ねることが勝利の確率を高める以上は、そういった考え方を持つ人は勤勉な努力家であらねばならないだろう。
 後述するように、このことはまた、人生に与える多様な運の存在についても、大きな認識の違いを生み出す。保守派は人々の能力や努力の違いを強調しがちであり、人生の成功者は、努力をしたか、才能があるか、その両方があったためであると認識することが多い。
 これに対して、進歩主義者は、人々の見たところがこれほど同じようであるのにもかかわらず、これほどの社会的な格差が生じる理由は、多様な運、偶然が介在しているからだと考えがちなのである。
 こういった世界観の違いは次章で詳述するが、ここでは、右翼と左翼では部屋に置いてあるものの頻度が違うという興味深い結果を紹介しよう。アメリカの学生を対象にして、そのベッドルームの状態や置いてあるものを比較したのである
 左翼主義者の部屋に、どういったものが置いてあるのかを想像してほしい。実際、私自身のイメージの中では、おそらく若干本の量が多いのではないかと思っていた。なぜなら、私のイメージの中では、日本の左翼主義者の多くはインテリだったからである。
 また、私はアメリカの大学にも通ったが、多くの友人の意見はリベラルであったからでもある。単純化すれば、知的な好奇心は高い学歴につながりがちであり、逆に本を読むような知識人は多くがリベラルだからである。
 次の表は、その違いを統計的に明確な順に示したものである。



   右翼のベッドルーム
   
 スケジュール付きカレンダー
 郵便切手
 細糸
 アイロンとアイロンボード
 ランドリーかご
 普通のカレンダー
 国旗(アメリカ国旗を含む)
 アルコール消毒液
 明るい
 整理された文具
 清潔
 整理されている
 きれいである
 

   左翼のベッドルーム

 多種類の本
 多種類の音楽
 芸術関係のもの
 世界の音楽CD
 たくさんの文具
 たくさんの本
 世界地図(アメリカ以外)
 フェミニズム関係の本
 映画のチケット
 民俗音楽のCD
 民俗学関係の本
 たくさんのCD
 旅行のチケット
 記念品(旅行でかった指輪など)
 レゲエCD
 モダンロックCD
 クラシックロックCD
 旅行関係の本
 多種類のCD




 この表では、上に書かれているものほど、一方のタイプの部屋にあるがちなものであったり、顕著な性質である。
 私の認識もそれなりに正しい認識だったといえるかもしれないが、興味深いのは、例えば、保守主義者は部屋に国旗が飾られている頻度が高いことである。安直な解釈だが、これは国家というものを重要なものだと認める態度を意味しているのだろう。
 その他、スケジュール・カレンダーやカレンダーは、日常の生活を秩序だったものにするのに不可欠なアイテムである。また郵便切手、ランドリーかごや細糸、アルコール消毒液なども、毎日の生活のいろいろな不測の事態に備えようとする態度を意味している。そして、明るく、整理され、きちんとした部屋というのも、保守主義者の認知地図がすっきりとした明快な秩序を好むことを示すのだろう。
 その反対に、進歩主義者は世界地図や、世界各地の民俗音楽のCDを持っている割合が高い。地球儀は、地球の中で自分の住んでいる地域がいかに小さく、限定的なものであるか、そして地球上には自国以外の多様な地域や国があるのかを実感させてくれる。旅行関係の本やチケット、記念品などは、自分の住む地域以外への興味が、左翼主義者の方が高いことを示している。
 教育学の永遠の古典である『エミール』において、ルソーはエミールに向かって、外国を旅行して見聞を深めること、特に地方に行って人々の生活を知ることは重要だと諭している。ルソーは啓蒙時代の左翼主義、平和主義の原点とも言える人物であり、そういった傾向の強い教育学に大きな影響を与えてきた。進歩主義者が、外国への興味を持っているというのは、この意味でも興味深い。
 これに関連して、民俗音楽、レゲエやロックのCDは、それぞれの地域で独自に発展してきた、西洋音楽とは異なったスタイルの音楽が持つインスピレーションを評価する態度を示しているのだろう。
 フェミニズムを含めて、多様な生活スタイルに理解を示す態度は多文化主義(multi-culturalism)として、アメリカの大学院では非常に一般的である。それに対して、異なった宗教をもつ移民などに対してキリスト教的な価値観を強要する態度は、宗教的な保守派の間では珍しくない。
 科学哲学者カール・ポパーはその生涯を通じて、科学を開かれた知的試みであるとし、全体主義社会主義は、権力者とは異なった考えや思想を否定してしまうとして非難した。そういった考え方からすれば、探求の場である大学での精神性のあり方は多文化主義的であって良いのだろう。科学的な理論に限らず、我々にインスピレーションを与える源泉が多様なものであることは、文化的な豊僥さを支える上で肯定されるべきなのだろう。
 こういった違いは、幼稚園に通っている時からの追跡調査でも明らかになっている。カリフォルニア大学バークレー校のブロックたちの研究によれば、幼稚園の教師たちから、活動的、感情的、社交的、自信がある、人を気にしない、衝動的、などと形容された子どもは、大人になってからリベラルになることが多いという。
 これに対して、比較的に謙抑的、優柔不断、怖がり、頑固、傷付きやすい、過度に抑制的、と評価された子どもは、保守的な大人へと育っている。こういった事実も、基本的な人格特性が大きく変化することはまれであるという現代的な心理学・遺伝学の知見からすれば、当然だろう。
 以上をまとめるなら、この表に表れているのは、右翼は秩序と勤勉、左翼は好奇心という異なった次元の人格特性を持っていることである。そしてそれは、政治思想に固有の違いというよりは、もっと基本的な人間性の相違が、結果的に政治思想についても発露しているものだと考えられるのである
 つまり、左翼と右翼は、文化的に決定されると考えられているような思想や行動だけでなく、もっと遺伝的な人格レベルでの違いを持っている。そしてこのことは、次章で詳述するように、現実世界の認識にさえも当然に影響しているのである。


行動遺伝学から見ると
 マウスやウマの性格だけでなく、人間の性格も遺伝することは現在ではよく知られている。よく知られているのは、別々に育った一卵性双生児を使って、その人格的な違いを調べるという双生児研究である。
 アリゾナ大学のロバート・プローミンなどによる研究や、ミネソタ大学のツイン・スタディーズなどからは、多くの性格要素の分散のおよそ半分が遺伝的に決定されているようだ。こういった二〇〇〇年以前の研究は、主に数理統計学に頼ったものであった。
 近年、政治学でもアルフォードらが遺伝要因は環境要因よりも大きいことを実証している。保守あるいはリベラルといった政治的なイデオロギーは、五〇%以上の高い遺伝率を示している。
 さらにヒトゲノムプロジェクトが終了して久しい現在では、ヒトの詳細な遺伝子マップが完成している。もっと直接的に、どの遺伝子がどういったタンパクの合成を通じて行動に影響を与えるのかさえも、次々と明らかになってきているのだ。
 前述したように、人格の5大要素には新奇性の追求がある。イスラエルアメリカでの研究によれば、この要素の分散は第11番染色体にあるD4ドーパミンレセプター(D4DR)の影響を受けていることが広く知られている。D4DRにはDNA配列の繰り返しが見られるが、これが短いほどドーパミン・レセプターの数が多く、各種の刺激を受けやすいため、わずかな刺激で十分だと感じる。反対に、長い繰り返しはレセプターの数を減らし、十分な刺激がなければ、より強い刺激を求める個体を生み出す。この結果、新奇性の追求度合いが高まるのである。
 この点については、慶応大学の大野裕らの研究が興味深い。それによれば、この遺伝子については、日本人は4回の繰り返しがほとんどで、5回以下が98%だが、アメリカ人では6回以上が31%もいる。つまり、新奇性の追求は日本人よりもアメリカ人で圧倒的に見られる性質なのである。
 これはおそらく、東洋人はヨーロッパ人に比べてもともと遺伝的に異なっているからだろう。さらにアメリカに移民したヨーロッパ人は、自ら新天地を求めてアメリカ大陸に渡ったため、アメリカ人はヨーロッパ人の中でも、おそらく新奇性追及の度合いが高い人たちであるからに違いない。
 この結果から端的に結論すれば、日本人は比較的に保守的だということになる。
 大野裕の報告によれば、日本人の保守性については、これだけにとどまらない。別の神経伝達物質であるセロトニンについても、日本人は高不安型なのである。とすれば、後述するように、世界は不安なものであるという認識を通じて、政治的にも保守的となるだろうことを示唆している。
 セロトニン(5HT)の欠乏は、人を不安やウツ的な精神状況に陥れる。現在の抗ウツ剤の主流であるSSRIは、ニューロンの接合部であるシナプスでのセロトニンの濃度を高めて、ウツ症状を抑えるというものである。
 さて、セロトニン・トランスポーターについての遺伝子である5HTTは第17番染色体に存在するが、これにはセロトニンのレベルを高めて不安を低くするロング型と、セロトニン・レベルを下げて不安にするショート型の多型が存在している。例えば、アメリカ人ではロング型が遺伝子頻度において57%がロング、43%がショートであるのに対して、日本人の場合は、17%がロングで83%がショートなのである。
 東アジア人では約50%がロングのホモ結合なのに対し、白人では30%、黒人では10%程度である。この統計からしても、不安のレベルがアジア人で高いことは間違いがないだろう。また同じように、ショート型を二つ持つ人は、不快な刺激に対しても敏感であることが示唆されている。
 同じ文脈では、テキサス州にあるライス大学の政治学者ジョン・アルフォードは、三万組の一卵性及び二卵性双生児を調べて、一卵性の方が政治的な態度が似通っていることを報告している。雑誌ニューサイエンティストにおいて、アルフォードは「これらの(政治的)見解は根源的なものであり、大脳に刻み込まれている。誰かにリベラルでないように説得しようというのは、誰かに茶色の目を持たないように説得しようとするのと同じだ。我々は、説得というものについて再考する必要がある」という。
 政治的な態度はタカハト・ゲームのように、それぞれ固有の利点をもって、人間の社会に併存してきたのだろう。最終章で述べるように、大きな政治的な事件が起こった場合、個人の人格もまた左傾化したり、あるいは右傾化したりすることがあるようである。しかし、それにしても、ベースラインが存在するはずである。
 こういったベキダについての研究は、少なくとも我々の集団的な〈自由意思〉の概念に挑戦し、政治体制というデアルを決定してしまうように感じる。あるいは宿命論、運命論的につながりがちのようだが、一体そういった宿命論に陥ることが必然的なのかについては、最終章で少し考えてみたい。


大航海時代起業家精神
 世界が危険に満ちていて、山のあなたに青い鳥がいないというのであれば、なるほどこれまで通りの生活を繰り返すのは合理的だ。外の世界にチャンスがあるのかどうかは、ある程度その時代の偶然に依存しているからだ。
 大航海時代、新大陸を発見して移民したヨーロッパ人は、アメリカ大陸をはじめ、世界に広がり、その人口は大増加している。これは成功例であるが、それ以前には航海によって無数の冒険家が死亡している。
 では、ヨーロッパ人が世界を探検し始めたのは、純粋に偶然なのだろうか?これまでの人間の常識はそう説明してきたが、あるいは新規性追及の度合いがヨーロッパ人の方が高く、同時にセロトニン活性が高く不安が少ないからではないのだろうか?
 実は、大航海時代と呼ばれる15世紀、明代の中国の方が造船技術は高かった。中国の船は安定しており、長距離の外洋航海にはるかに適したものであったのだ。実際に永楽帝は、宦官の鄭和をアフリカにまで遠征させて、ゾウを土産に持ち帰らせている。
 歴史家の多くは、やる気さえあれば、当時の中国の技術で世界一周をすることができたはずだと指摘している。しかし、永楽帝以降の皇帝と側近たちは、むしろ保守的な態度に変化して、中国が世界に向かうことはなかった。
 同じように、日本にも瀬戸内には同じ程度の造船技術、航海技術を駆使する集団がいたし、彼らの一部は倭寇として東シナ海を縦横無尽に活動していた。しかし、なぜか世界のすべてを探検するという活動は、ついに起こらなかった。
 時代は変わって、現代の資本主義社会ではコロンブスのような冒険家にあたるのは、新しい産業にチャレンジする起業家だろう。初期の自動車にしても、飛行機にしても、ほとんどの人は新しい活動や起業への試みを無謀だとしてバカにするだけだが、なかには成功するものもいる。それが、アメリカでは多くの富豪を生み出したのだ。
 鉄鋼王カーネギー鉄道王スタンフォード、ヴァンダービルドなどである。これは、現代の起業家である、ビル・ゲイツやラリー・ページに至るまで続いている。いうならば、植民国家であるアメリカには、常に新しいものにチャレンジする伝統がある。
 日本でも、明治の文明開化の時代の財閥や、あるいは戦後のソニーやホンダなど、大きな産業をリードしてきた企業が数多くある。そういった企業のオーナーたちは、個人主義的な色彩の弱い日本では、アメリカほどの資産家となったわけではないのは異なるが。
 こういった起業家たちが、あるいは進歩主義的であったことは間違いない。企業活動とは本質的に自分の信念や技術への賭け行為なのであり、失敗を恐れていては最初からチャレンジすることもできない。起業家たちの世界観は、基本的に楽天的なものであるに違いない。
 世界、あるは経済が本質的にどの程度危険であるのか、あるいは成功のチャンスに満ち溢れているのかなど計量のしようもない。あえていうなら、世界中で設立された会社の9割以上が、1年以内に失敗に終わっているほど危険だということはいえるだろう。
 だから、保守的なメンタリティを持つ人々は公務員を目指すべきだろうし、実際にそうしているに違いない。保守派は国家を重視する点、仕事へのやりがいはあるだろう。また保守派は危険に敏感であるが、公務員はリストラ・倒産がないため職業的にも安定してるからだ。私は、多くの優秀な日本人が官僚になるのは、これまで説明してきた日本人、あるいは東アジア人の精神生理学的な気質に関連しているのではないかと考えている。
 社会的な功利主義からすれば、優秀な人材であればある程、未知なる分野を切り開き、新しい産業を作り出してもらう必要がある。全員が役人であるとすれば、そういった社会が悲惨であることは、旧ソヴィエトから北朝鮮に至るまで明々白々だ。
 しかし、もっとも優秀な日本人の多くが官僚や、あるいはその後、政治家になっている。あるいは、日本人が大企業志向であるというのも間違いないだろう。自分で起こす小さな企業の自由さと大きな成功報酬よりも、むしろ安定を選ぶというのは保守的な個人にとっては合理的であるだろうが、社会的に効率的であるのかどうかははっきりしない。
 私が大学にいたころ、法学部の教授のある言葉が興味深かった。「官庁、銀行、証券会社、損害保険会社、と並べてみると、業務の複雑性やリスクはどんどん上がっているんですね。しかし、反対に成績のいい人から複雑でない安全安心な仕事に就くんですよ。これは社会的にいいことなのかどうかわかりませんね。」なるほど、なるほど、である。


左翼も権威主義的ではないのか?
 ところで前述したように、一般に権威主義的で心情的に頑迷であればあるほど、現状維持的な保守的な思想傾向を強めると考えられている。しかしここで、私と同じような懐疑主義者は、小さな疑問を感じてしまうかもしれない。
 左翼主義者がそんなに開かれた人格の持ち主であるというのなら、社会主義国であったソヴィエトの指導者であるスターリンの行った大規模な粛清の嵐はどう説明されるのか?あるいは、ソヴィエトや東欧諸国、現代の中国での、政治思想から大衆娯楽、あるいは海外旅行などに対する統制は、知的好奇心の高揚とどう整合的であり得るのだろうか?あるいはポル=ポトの率いるクメール・ルージュの行った、集団の3分の1にも及ぶ未曾有の大虐殺は、人間の基本的な平等理念や思想的な寛容とどう関連しているというのか?
 これらの疑問は、多くの資本主義や自由経済の擁護者が感じている、ほとんど直観的なな社会主義への嫌悪と深く関連している。左翼、社会主義者の政策を見ると、少なくとも資本主義と同じくらいに独断と偏見に満ちた非人道的なものであり続けたという、歴史的な事実がある。
 こういった疑問に対しては、かなり昔からU字型仮説という説明がある。これはつまり、権威主義的な人物というのは極端な右翼に存在するのであるが、同時に左翼でも極端になってゆくにしたがって、権威主義的になるというものである。
 この考えを図示してみると、次のように描かれる。























 図から読み取れるように、まず右翼的な人物は権威主義的である。それが左翼的になると権威主義は次第に弱まるが、それはある程度までの話であって、極端に左翼的な人物は、再び権威主義的な色彩を強めるというのである。
 このような考え方は、各種の共産主義者の書いたものを読むと、なるほど説得的であるように思われる。彼らのもつ教条的な信条、人間観は、開かれた精神性というよりも、むしろ権威主義そのもののように感じられるからである。
 イギリスの心理学者ハンス・アイゼンクは戦後のソヴィエトでの政治的な現実を見て、すでに一九五四年にこのことを指摘している。私自身も、大学時代から長い間、この考えは正しいのではないかと思っていた。
 おそらく、こういった指摘が相次いだために、アメリカ心理学会の主流は、右翼・左翼と権威主義的な性格というのはほとんど関係がないと考えるようになった。前述のアドルノのFスケールは、当初こそはナチスの台頭を説明するものとして評価されたが、その後60年代からは、学術研究の中ではほとんど完全に無視されてきた。
 しかし、最近の学術的なパーソナリティ研究を読むと、これは正しくなかったようだ。ジョストたちはヨーロッパの政党を調べ、その教条主義と頑迷さについて統計分析をしている。
 結果としては、ほとんどの研究が、頑迷さは右翼的であればあるほど高まるという仮説を支持している。一部には、左翼性が極度に高まった場合にも、わずかに高まるという結果があったが、その程度は高くはない。
 つまり、前述の図で言うなら、極端な左翼は、あるいは若干権威主義的であるかもしれないが、ほとんどの領域のおいて右翼的であればあるほどに権威主義的なのだ。
























 パーソナリティ研究の結果はそう語るとしても、では歴史的な疑問に戻って、どうして左翼のリーダーたちは多くの粛清や思想弾圧を繰り返してきたのだろうか?
 この疑問に対して、ここでは私個人の見解を述べよう。
 私の意見では、歴史的な悲劇を理解するカギは、「権力」あるいは、「政治」というものにある。人は誰しも、ある程度の利己性を持っているのであり、自分が権力者・支配者となった時には、自分の望む世界と信じる価値観を人々に強要してしまう。
 つまり、よく知られているように「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」のだ。左翼のリーダーたちが特別に権威主義的なのではなく、残念なことに、多くの人間は自分が権力の魔力を持つ場合には、権威主義的になってしまうものなのだ。
 私の考えは、それほど奇妙なものではない。いまや心理学の古典的実験と目されている一九七一年の、フィリップ・ジンバルドーによる監獄を模した実験、いわゆるスタンフォード監獄実験について考えてみよう。
 ジンバルドーは、パーソナリティが、囚人と看守に扮している人々の行動にどのような影響を持っているのかを調べようとした。彼は24人のボランティアの学生を看守役と囚人役に分けて、スタンフォード大学内の建物の地下に模擬監獄を作り、行動の変化が生じるかを観察した。実験は、看守がすべての権力を握っているという感覚、そして囚人には何の自由も与えられていないという感覚が与えられるようにデザインされた。
 結果として、看守たちの間に急速にサディスティックな態度が広がり、また囚人たちの間にはトラウマティックな精神状態が広がっていった。ジンバルドーはもともと2週間の予定であった実験を、6日目に打ち切らざるを得なかった。
 ボランティアは、精神面で健全であることを重視して選ばれたスタンフォード大学の男子大学生であり、ほとんどが白人の中産階級出身者であった。それでも彼らによって行われたサディスティックな行動には、懲罰として囚人のマットレスを奪い、コンクリートの上で寝かせること、トイレに行かせずに部屋の中で排泄させること、腕立て伏せをさせたり歌を歌わせたすること、性的ないやがらせをすること、などの多様な侮辱行為が含まれていたのだ。
 こういった傾向を示した看守役は、約3分の1であると報告されており、また囚人役に対して十分にやさしい態度を維持したものもいた。このことからすれば、看守役の持つ個人的なパーソナリティの違いが、虐待行動の速やかな学習に影響していることは間違いない。
 とはいえ、アメリカでも日本でも看守による囚人の虐待事件は常に起こっている。それは監獄内における権力のすべてが、基本的に看守に握られており、囚人には何も与えられていないことと関連しているだろう。
 監獄における看守とは、全体主義社会における権力者とそれほど違わない。人は誰でも、権力を持てば濫用し始め、最後にはそれを楽しんだり、あるいは権力を失いたくないために粛清までするようになる。
 結論として、私の考えは、左翼的な人々がいくら権威主義的な人格を持っていないとしても、実際に権力者になると、その濫用に走るものも相当程度いるのだろうというものである。それは、絶対的な権力というものの作り出す特殊な状況であり、絶対権力を掌握すれば、すべてではないにしても、多くの人が権威主義的、高圧的になってしまうに違いない。
 この理解で、歴史的に起こった社会主義国家での思想の弾圧や人権蹂躙、極端な虐殺までを説明できるのかはわからない。しかし、少なくともその手掛かりにはなるだろう。絶対的な権力とは、それだけ人を変えてしまうのだ。